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17話 合衆国の落日①

ワシントンの空を染める、血のような夕暮れ。しかし、ホワイトハウスの大統領執務室に漂っていたのは、それとは異質な、胃を焼くような緊張だった。


ヒューイ・ロング大統領は、執務机に沈み込んだまま、窓の外を凝視していた。六十を過ぎたその顔には、かつて南部を、そして全米を熱狂させた雄弁家の面影が刻まれていたが、今夜、その双眸に宿る光はどこか虚ろだった。


机上には、国境警備隊からの緊急報告書が、地層のように積み重なっている。五枚、十枚、二十枚。ケベック方面から届く大ゲルマン帝国軍の動静は、時を追うごとにその密度を増していた。最新鋭戦機部隊の集結、装甲師団の最前方展開、異常な速度で整備される補給線。それらすべてが、これが単なる「演習」の枠を逸脱していると、無言の悲鳴を上げていた。


ロングはそれらを精読していた。一語一句逃さず読み、そして、認めまいとあがいていた。


「……まだか」

 

「大使閣下は、まもなく到着されるとのことです」

 

側近の答えを待たず、ロングは立ち上がり、部屋を徘徊した。暖炉の前で足を止め、揺らめく炎を睨みつける。


外交で解決できる。話せばわかるはずだ。ゲルマン人だって商売人だ。戦争を始めるより、貿易を続ける方がよほど実入りがいいことくらい、奴らなら計算できるはずだ。

 

そう自分に言い聞かせてきた。それがこれまでの自身の政治が正しかったと証明する、唯一の方法だった。

 

(……そうでなくては困るのだ)


部屋の隅のソファには、チャールズ・リンドバーグが浅く腰かけていた。大統領選の最中に同席を請われ、断り切れずにこの場にいる「孤独な鷲」は、細い指を膝の上で固く組み、沈黙を守っている。かつての英雄の横顔には、拭い去れない不安の影が深く差していた。


「リンドバーグ君」ロングが振り返った。


「君は向こうにパイプがある。今夜は君の存在が頼りだ」

 

「大統領、私はあくまで民間人です。公式な外交交渉に口を挟む資格はありません」

 

「いいんだ、座っていてくれるだけで」


ロングは遮るように手を振った。


「ゲルマン人は英雄を好む。君の顔を見れば、連中の虚栄心も少しは和らぐだろう」


リンドバーグは唇を引き結び、それ以上は何も言わなかった。


重厚な扉がノックされた。

 

「大ゲルマン帝国大使、ディートリヒ・フォン・ハルテンベルク閣下がお着きになりました」


ロングは無理やり背筋を伸ばし、熟練の外交的微笑を顔に張り付けた。だが、その笑みの裏側で、積み上がった報告書の重みが心臓を圧迫していた。


扉が開いた。

室内に入ってきた男を見て、ロングがまず抱いた感情は「若さ」への戸惑いだった。

ディートリヒ・フォン・ハルテンベルク、二十八歳。帝国外務省が誇る「神童」であり、先月二十代にして超大国の外交大使に抜擢された男。整然と撫でつけられた金髪と、寸分の狂いもなく仕立てられた外交官服。端整な顔立ちには柔和な笑みが浮かんでいるが、その眼差しは、獲物の急所を見定める猛獣のように冷徹だった。


ロングの視線は、即座にその背後へと移った。

ハルテンベルクの一歩後ろに控える、副官と思しき女性。長身で、亜麻色の髪を厳格に束ね、軍服に近い濃紺の制服に身を包んでいる。年齢は二十歳前後だろう。高い頬骨、吸い込まれるような青い瞳、完璧な対称をなす輪郭。それはゲルマン的な美の理想を具現化したような容貌だった。


だが、ロングは得体の知れない寒気を覚えた。

彼女は、微動だにしなかった。ハルテンベルクが挨拶し、礼を尽くす間も、彼女は精巧な自動人形(オートマタ)のように、一定の角度を保って直立している。瞬きも、呼吸もしている。しかし、人間が本来持っているはずの「無駄な揺らぎ」が、彼女からは一切排除されていた。


「大統領閣下、お招きいただき光栄です」

 

ハルテンベルクが流暢な英語で切り出した。完璧な発音、完璧な抑揚。

 

「よく来てくれた、大使」ロングは応じ、握手を交わした。


「こちらはリンドバーグ氏だ。説明は不要だろう」

 

「勇名はかねがね」ハルテンベルクはリンドバーグに会釈した。


「大西洋横断の偉業は、我が帝国でも語り草となっております」

 

ロングは副官の女性を促すように見た。


「そちらの方は?」

 

「私の副官、クラーラです」ハルテンベルクは簡潔に答えた。姓は口にしなかった。


クラーラは、計算された機械のような正確さで頭を下げた。笑みはない。表情という概念そのものが欠落しているようだった。

ロングは思わず手を差し出そうとして、無意識にそれを引っ込めた。なぜか、触れてはいけないもののように感じたのだ。彼女の青い瞳はロングを捉えているが、そこには「人間を映している」という実感がなかった。


(……「総統の子ら」、か)

 

真偽不明の不穏な噂が脳裏をよぎる。帝国の秘密研究施設で、選ばれた素体の遺伝子を操作し「造り出される」という理想の人間たち。御伽噺だと切り捨ててきた話が、いま、目の前で静かに呼吸をしていたように感じた。


「さて、大使。立ち話も何なので、こちらへ」


ロングは動揺を抑え、ソファを勧めた。


「今夜お越しいただいたのは、ほかでもない。ケベック方面での帝国軍の動向について、率直な見解を伺いたいと思ってね」

 

「もちろんです」ハルテンベルクが腰を下ろす。その表情に揺らぎはない。


「単刀直入に言おう。あの規模の集結は、演習としては些か度が過ぎている。我が国の国境警備隊も、かつてない緊張状態にある。もちろん、帝国が合衆国に対して敵対的な意図を持っているとは考えていないが……念のため、確認させていただきたい。あれはあくまで、対日英を想定した配備と理解してよいのだね?」


ロングは微笑を保った。相手が「その通りです」と、安価な気休めを投げつけてくることを期待して。いや、そう答えてもらわなければ、これからの世界が崩壊してしまうという祈りを込めて。


ハルテンベルクは、わずかに首を傾げた。まるで、子供の他愛ない質問を吟味するかのように。


「いいえ」


静かな一言だった。


部屋の空気が、凍り付いた。暖炉の炎だけが、変わらぬリズムで爆ぜていた。

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