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13話 ドイツ戦前史(〜1940年代)②

事件は1940年11月。オーストリアの帝国首相府で起きた。

白昼の正午過ぎ、迷彩服を着た十数名の武装集団が首相府正面玄関に車で乗りつけ、警備の兵士を制圧して建物に突入した。執務室に押し入った男たちは、居合わせた閣僚と職員を壁際に追い込み、首相エンゲルベルト・ドルフースを複数の銃弾で撃った。ドルフースは搬送先の病院で息を引き取った。享年四十七。

 

事件発生から数時間のうちに、ベルリン発の通信社がいち早く「犯人はオーストリア共産党員と断定」と打電した。ウィーンの新聞各紙がそれに追随し、夕刊には「赤色テロ」の見出しが躍った。

ソ連との安全保障協定に署名しながらも対独融和の姿勢も見せたドルフース政権を、コミンテルンが消した、という筋書きだった。

その晩、ドイツ帝国は声明を発した。

 

「ゲルマン民族の兄弟国家に対する共産主義の脅威を座視することはできない」

 

その言葉が紙面に載るより先に、国境線を越えた機械化部隊と戦機の先遣隊が、すでにオーストリア東部の主要幹線道路を封鎖し始めていた。事件発生から七十二時間後、ウィーンはドイツ軍の実効支配下に入った。オーストリア軍は組織的な抵抗を試みる間もなかった。欧州各国が抗議声明を準備している間に、占領は既成事実となっていた。

 

後に英国秘密情報部(SIS)と日本特務機関の共同調査で、突入した武装集団がドイツ親衛隊の特殊工作員であったことが明らかになった。

犯行に使用された車両の登録番号はベルリンのものであり、使用された銃器はドイツ軍制式拳銃と一致していた。「赤色テロ」は、初めから台本のある劇だった。しかしその時にはすでに、オーストリアという国家は地図から消え、欧州は二度目の大戦に突入していた。


オーストリア占領の報が欧州各国に届いた時、すでにフランスとソ連は動いていた。西部では、フランス軍がベルギーおよびオランダに対し「共同防衛のための通過許可」を求め、事実上の軍事侵攻を開始した。

第一次大戦でドイツがフランスに仕掛けたシュリーフェン計画の鏡写し、低地諸国を迂回路としてドイツ本土の腹を突く逆転の構図だった。先鋒を務めたのはフランス軍の戦機部隊だった。赤化以降に急速に整備されたソ連製技術を取り入れた新型機が隊列を組み、ベルギー平野を西から東へと進んだ。


東部では同日、「スヴォーロフ作戦」の発動が宣言された。十八世紀のロシアが誇る名将の名を冠したその作戦は、ドイツの傀儡国家として東欧に並ぶポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト連合の各政権を一挙に打倒し、ブレスト条約の失地を回復することを目的としていた。

三百万を超えるソ連赤軍が三方向から雪崩を打って前進し、各国に進駐している独軍はその重量に押し潰されるように後退した。

1940年末の時点で、東部戦線の地図は見るも無残な様相を呈していた。南方ではキーウ前面まで、北方ではワルシャワ前面まで赤軍の先鋒が達しており、東欧の緩衝地帯は崩壊しつつあった。第一次大戦での悪夢、二正面戦争が現実のものとなった。

 

しかし後世の軍事史家たちが繰り返し指摘するように、この時点でのドイツ帝国は見かけほど追い詰められてはいなかった。東西での後退は綿密に計画された誘引だった。ドイツ帝国軍とその傀儡軍は主力を温存したまま段階的に撤退し、補給線が伸びきったフランス軍とソ連赤軍を引き込んだのだ。

損害は軽微で各部隊の指揮系統は乱れていなかった。スヴォーロフ作戦が「快進撃」に見えたのは、ドイツがそう見せていたからに過ぎなかった。


そして1941年5月、雪解けと同時にドイツは動いた。

作戦名「タネンバウム」。最初の標的はフランス軍であった。

フランス軍がベルギーとオランダで前線を張り、兵站を伸ばし切ったその瞬間を、ドイツは待っていた。スイスとの国境地帯に密かに集結させていた戦機部隊がアルプスの峠道へと踏み出した。先鋒を切ったのは、限定的ながら実戦型陸海空統合機として量産配備されたばかりのⅣ号戦機だった。

その長大な脚は石畳の山道を難なく踏破し、雪解けの急斜面も意に介さなかった。ハンニバルやナポレオンとは比較にならないほど短期かつ大規模にアルプスを越えたドイツ帝国軍戦機隊は、フランス本国になだれ込んで一気に北上。補給線を断たれ背後から突かれたフランス軍の対応は混乱を極めた。


パリが陥落したのは作戦発動から二十一日後、ダンケルクが占領されたのはその三日後だった。ベルギーとオランダに展開していたフランス軍百五十万は退路を完全に断たれ、総攻撃の前に殲滅。

フランス政府が降伏文書に署名したのは同年七月初めだった。

普仏戦争、第一次大戦に続く三度目の対仏戦勝。フューラーはパリで凱旋式典を催し、エッフェル塔の前に立つ映像記録を全世界に公開して完璧な勝利を喧伝した。

 

フランス降伏から一ヶ月も待たず、ドイツ帝国軍の主力は東へ向き直った。反攻作戦「フリードリヒ」のもと、北方軍集団と中央軍集団が連携してワルシャワ方面へと楔を打ち込んだ。電撃的な機動でソ連赤軍の側背を衝き、補給線を切断して退路を封じる。戦機と機械化部隊が組み合わさった突破力は圧倒的で、ソ連軍指揮官たちは状況を把握する前に包囲を完成されていた。ワルシャワ近郊に集結していたソ連赤軍三百万の包囲環は月末には崩壊し、捕虜の数は後に百八十万と発表された。そのままドイツ軍は西ロシアへとなだれ込み、ミンスク、スモレンスク、キーウと占領地を広げていった。

 

この大戦果の連続に熱狂する国民を前に、フューラーはベルリンで大演説を行い、「我がゲルマン民族は今年のクリスマスを、平和の中で迎える」と高らかに宣言した。

しかし周知の事実として、第二次大戦は1946年のカナダ戦線停戦までもつれ込むことになる。

 

12月8日の未明。

キール軍港の夜明けは爆発音で始まった。

英国王立海軍の艦載機が波状攻撃を仕掛け、ドイツ大洋艦隊の多数の主力艦が撃沈された。ドイツ帝国の欧州完全制覇を前に、英国はついに沈黙を破ったのだ。

 

同時刻、ドイツ東洋艦隊本拠地のトラック諸島近海にも、多数の艦船を率いた機動部隊が姿を現していた。発艦した艦載機と海軍戦機隊が港湾施設に殺到し、艦艇が次々と海底へ沈んだ。

 

その機体には赤い日の丸が刻まれており、日英同盟が同時に牙を剥いた瞬間だった。

 

かくして第二次大戦は新たな局面に突入した。

フューラーのクリスマス宣言は、絶対に実現することのないレトリックとしてその歴史に刻んだ。

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