12話 ドイツ戦前史(〜1940年代)①
第一次大戦におけるドイツの劇的な勝利の契機が1917年のロシア脱落による東部戦線の解消であったとするなら、第二次大戦前夜の同国が置かれた戦略的苦境は自業自得としか言いようがない。
1922年。五年に及ぶロシア内戦を制したソビエト政権は、歓喜に浸る暇もなく現実の壁に直面した。
ブレスト=リトフスク条約により、ウクライナ、バルト三国、ポーランド、フィンランドといったロシア帝国が西方に有していた広大な版図は、条約の文言通りにドイツの勢力圏として切り取られたまま戻らなかった。しかも大戦でドイツは英仏を撃破し、欧州の覇者として盤石の地位を固めており、正面からの領土奪還は自殺行為に他ならなかった。
その結果、ソ連指導部の中で直接的な国力・軍事力による対決路線は急速に支持を失い、代わりに台頭したのが世界革命論だった。資本主義と帝国主義の矛盾は必ず各国の労働者階級を蜂起させる。ならばその火種に油を注ぎ、欧州各地の革命運動を支援することでドイツを内側から崩せばいい。コミンテルンはその道具として積極的に活用された。
成果は1929年の世界恐慌を経て現れた。敗戦による経済的混乱と社会不安が重なったフランスで左翼勢力が政権を掌握し、1930年までに事実上の赤化が完成した。ハプスブルク帝国の残滓たるオーストリア=ハンガリー二重帝国からはハンガリーが離脱し、国内の革命勢力がソ連に接近した。ソ連はこの二国と次々に軍事同盟を締結した。西からフランス、南東からハンガリー。対独包囲網の弧が、ゆっくりと形を成し始めた。
一方、包囲される側のドイツ帝国も、内側から静かに腐り始めていた。
大戦の勝利は軍部に絶大な威信をもたらした。ルーデンドルフを筆頭とする参謀本部閥は政治にまで影響力を伸ばし、文民政府は事実上の飾りと化した。しかし英雄たちの統治能力は、戦場での輝きとは裏腹だった。東欧の属国経営は非効率で収奪的であり、国内の経済格差は拡大し、大戦景気が終わった後の停滞を軍人官僚たちは何ら有効な手立てを持てないまま見過ごした。
国民の不満は二つの方向に噴出した。一つは革命勢力だった。周辺国の赤化に触発された左翼運動がドイツ国内でも勢いを増し、工場街や港湾都市でストライキと暴動が相次いだ。反軍人、反貴族、平等を掲げる彼らの声は労働者の間に広く響いた。
もう一つは新興の民族主義政党だった。革命勢力と同じく軍人政治家を激しく批判しながら、しかしボルシェビキ的な階級闘争ではなく、民族の誇りと帝国の再建を訴えた。貧しくなった中産階級と帰還兵の怒りを吸収し、街頭の熱狂を組織する力において革命勢力を凌いだ。
ヴィルヘルム二世にとって、どちらも疎ましい存在だった。しかし選ぶなら答えは明らかだった。革命は皇帝権力の排除を目論む。だが民族政党は、表面上は皇帝への忠誠を掲げる。老皇帝は後者に政治的な足場を与え、軍部の影響力を削ぐ対抗勢力として育てようとした。かつて建国の元老を追放するために軍人たちに擦り寄ったように。
1933年、その目論見は半分だけ成功した。民族政党は合法的な手続きを積み重ねながら帝国議会の主導権を握り、軍部閥を政治の表舞台から追い落とした。しかし残り半分は失敗だった。半世紀前のカプリヴィと違い、オーストリア出身のフューラーには、皇帝の手駒に収まるつもりなど端から持っていなかった。
新宰相に就任した彼が最初に打ったのは、危機の演出だった。フランスの赤化、ハンガリーの離反、国境を越えて流入するコミンテルンの工作員。これらを「ゲルマン民族の存亡を脅かす赤い包囲網」として声高に叫び、国民の恐怖に火をつけた。軍拡予算は議会を通り、徴兵制の拡大が可決され、軍需工場が次々と稼働を始めた。
軍部への接近も巧みだった。かつて軍人政治家たちを批判した舌の根も乾かぬうちに、フューラーは軍幹部を次々と表敬し、予算と権限を惜しみなく与えた。そして時間をかけて重要なポストを一つずつ自分の息のかかった将校に塗り替えていった。気づいた時には、軍部はすでに別の主人に仕えていた。
対外的には、オーストリア帝国に残るドイツ系住民の保護を名目にゲルマン民族統一の旗を掲げた。ウィーンのドイツ人はベルリンと一つになるべきだという訴えは国内の熱狂を煽り、同時にオーストリア帝国の内政に楔を打ち込む道具になった。
こうしてフューラーはわずか数年のうちに、軍を掌握し、国民を熱狂させ、皇帝を飾りにした。ヴィルヘルム二世がビスマルクを追放したように、今度は自分がヴィルヘルム二世を玉座に縫い付けた。
かくして1938年。国内の民衆と軍部の支持を固めたフューラーは、その矛先を南へと向けた。対ソ連包囲網への対抗を名目とした、独墺合流要請である。
かつてビスマルクがドイツ統一で行ったように、外交圧力と内部工作を組み合わせてオーストリア政府を追い詰め、自発的な合流へと誘導する腹積もりだった。
しかしウィーンは動じなかった。
オーストリア政府は翌月、電撃的な外交転換を断行した。ドイツ・イタリアとの三国同盟からの離脱を宣言し、直ちに赤化フランスおよびソ連との安全保障協定の交渉を開始したのだ。包囲網の弧に、新たな一点が加わった瞬間だった。
欧州全土に緊張が走った。フューラーはこの二度目の外交革命を「民族と祖国への裏切り」と断じ、軍に動員令を下した。赤化しかけるオーストリアからドイツ系住民を保護するという名目だった。同時にローマへの使者が飛んだ。三国同盟の盟友たるイタリアに対し、南チロル方面からの同時侵攻を要請したのだ。南北から挟撃すれば、ウィーンは二週間と持たない。フューラーの計算はそういうものだった。
しかしイタリアのドゥーチェは首を縦に振らなかった。「今回の危機の発端はドイツの強引な要求にある」というのがローマの公式見解だった。三国同盟はあくまで防衛的なものであり、侵略的行動への参加は条約の精神に反する。そう宣言したイタリアの静観により、フューラーの挟撃構想は瓦解した。
さらにロンドンが動いた。英国外相は議会演説でドイツの拡張主義を「欧州の平和に対する最大の脅威」と断じ、ドイツ軍がオーストリア国境を越えた場合は直ちに海上封鎖を発動すると宣言した。事実上の敗戦国ながら依然として強大なグランドフリートを擁し大西洋の制海権を握る英国の封鎖は、ドイツ経済を確実に窒息させる。第一次大戦の再来を恐れた経済界から侵攻中止を求める声が相次いだ。
フューラーは三日間、ベルリンで沈黙した。四日目、動員令は撤回された。オーストリアとの交渉は「友好的な話し合いを継続する」という声明とともに棚上げされ、危機は去った。
しかしフューラーの執務室に残った者たちは、その夜の彼の目を長く記憶することになる。敗北を受け入れた人間の目ではなかった。屈辱を与えた者たちの報復を胸に刻んだ人間の目だった。
その不安は二年後、前回を遥かに越える破壊と犠牲をもたらした第二次大戦となって顕在化した。




