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11話 噂話

その頃、バンクーバー第二駐屯地の食堂では、第七大隊の面々が長テーブルを囲んでいた。


「では、北米着任を祝して」


鹿嶽が瓶ビールを掲げると、それに倣って十数本の瓶が持ち上がった。乾杯の音が食堂に響き、南が一番大きな音を立てた。


「うまい。やっぱりカナダのビールは違いますね!」


南が目を細めた。


「南ぃ。お前は船の上でも同じことを言っていたぞ」


女性士官の浅見がダル絡みするように南にもたれかかる。まだ一杯だけだが、彼女はもう出来上がっていた。


「あ、浅見中尉。顔真っ赤ですよ」


同じ女性士官の舞草准尉が純粋な気持ちで心配した。


「大丈夫! 私はいつもこの色だ」


「いつもより三割増しです」


「坂巻、お前は黙れ」


浅見は隣の坂巻を肘で押しのけ、瓶を傾けた。その視線が、テーブルの端でひっそりと座っている舞草に止まった。


「舞草」


「は、はい」


「お前、まだ一口しか飲んでないじゃないか」


舞草は自分のグラスを見た。確かに、ほとんど減っていない。


「あの、私、あまり強くなくて」


「強い弱いじゃない。飲む気があるかないかだ」

浅見はすでに二本目に入っていた。舞草の隣に移動すると、肩を組んできた。舞草の体が小さく固まった。


「なんだぁ、そう緊張するな。同じ女じゃないか」


「そういう問題では……」


「飲めぃ」


「で、でも」


「飲めぃぃぃ」


「……はい」


「よし。いい飲みっぷりだ」


舞草は観念したように瓶に口をつけた。浅見が中年おやじのようにゲラゲラと笑い、坂巻は薄笑いを浮かべながら同情の視線を送っていた。

しばらく雑談が続いた後、七宮がふと思い出したように口を開いた。


「そういえば。一ノ瀬大隊長って、何の用事で大幡司令に呼び出されたんだろう」


「確かになぁ。着任早々の大隊長が司令に呼び出されるなんて、相当だよなぁ」


「なんだ七宮、南。知らんのか」


隣で飲んでいた伏野が瓶を置いた。


「お前ら、大隊長の経歴をどこまで知っている」


「ここカナダの海峡戦線で活躍したのは知ってる」


「しかもその功績で、英政府からヴィクトリア十字章を授与されたんだよな。すげぇよなぁ、うちらの大隊長は」


七宮と南がそう答えると、伏野は嫌味らしく鼻を鳴らした。


「それだけか」


鹿嶽が黙って瓶を傾けているのを横目に、三人は話を続けた。


「第二次大戦の末期、東カナダでの独軍との戦線付近。日本軍戦機が放った一発が、友軍装甲車に直撃。中にいた連中は全員死亡した」


「誤射か」


「東カナダは最後の最後まで独軍との激戦地だったんだろ? こう言っちゃ何だが、誤射の一つや二つ珍しいことじゃないんじゃないか?」


「まあそれはそうなんだけど」と伏野が声を潜めた。


「問題は、直撃した装甲車の中にいた人間が誰だったか、ってことで」


「誰だったんだ」 


「吉岡中将。当時のカナダ派遣軍司令官だ」


七宮と南が顔を見合わせた。


「司令官が……誤射で?」


「公式記録ではな。霧の中での方位誤認。だが吉岡中将は、当時の長田派遣軍参謀長と戦略方針を巡って激しく対立していた人物だった」


「長田って、あの陸軍参謀総長の長田大将?」


「そう。で、一ノ瀬大隊長は長田大将の養子だ」


七宮と南は、学生のようなオーバーリアクションで驚く。


「えぇぇ!? 一ノ瀬少佐が長田参謀総長と親子!? でも苗字違うじゃん!」


「俺が知るかよ。でも養子関係なのは本当だ。参謀本部内では有名な話だって、中央に行った同期が話してた」


驚き嘆息する南とは対照的に、七宮は顔を曇らせていた。


「……つまり伏野は、大隊長が」


「俺はそんなこと一言も言ってない」


伏野はすまし顔で瓶を傾けた。


「ただ、吉岡中将は陸軍内で相当な規模の派閥の長だったらしく、そこに大幡司令も属していた。だが事故死で派閥は空中分解。その権力の空白に長田大将が滑り込み、今の地位についた。だから今でも、あの面白い偶然が陰謀だと信じている人は少なくない。戦後、大陸戦線の不手際を追及されて予備役に追い込まれた大幡司令のようにね」


「面白い偶然、か」


静かな声が、三人の背後から落ちてきた。振り返ると、桐島が腕を組んで立っていた。いつから聞いていたのか。表情は変わっていない。だが目が、笑っていなかった。


「桐島大尉」


「伏野」


桐島は三人の顔を順番に見た。


「お前ら、自分が今何の話をしているかわかっているか」


「噂話ですよ。酒の席の」


「噂話」と桐島は繰り返した。低く、静かな声だった。


「確かめた事実じゃないのか」


「いや、まあ、そこまでは」


「確かめていない話を酒の席でする。それが部隊の中でどう広がるか、考えたことがあるか」


三人は黙った。


「大隊長は今も俺たちの上官だ。その人間の足元を掘ろうとする話は、本当だろうと嘘だろうと、部隊の芯を腐らせる。戦場に出る前にな」


桐島は三人に背を向けた。


「次にそのくだらん話を聞いたら、独軍の代わりに俺が処分してやる。覚えておけ」


それだけ言って、桐島は酒の席から出ていった。

七宮は手元の瓶を見つめたまま何も言えなかった。南は頭を掻きながら天井を仰いだ。伏野だけが「まあ、酒の席の話だし」と小声で呟いたが、誰も同調しなかった。


「……俺たち、桐島大尉を怒らせちまったかな。あの人、本当にやりかねないよな」


南が気まずそうに七宮に耳打ちした。


「わかんないよ……」


「じゃあ伏野」


「俺に聞くな」


三人はそれぞれ瓶に口をつけ、しばらく誰も喋らなかった。食堂の別の席では浅見が舞草に二本目を押しつけ馬鹿騒ぎしているのが見えたが、そんな気分はもう消え去っていた。


その間も鹿嶽はずっと黙って左手の瓶を傾けていた。表情は穏やかだった。ただ、テーブルの下で右手に握られていた空瓶から、ゆっくりと手が離れていたのには、三人は気がつかなかった。

気が付き察した桐島が割り込んでくれたことが実はどれほど幸運だったかも、三人は知らないままだった。


───


一ノ瀬はグラスを置いた。大幡の疑念に、否定も肯定もしなかった。ただ、静かに口を開いた。


「閣下。小官にできることは一つです。目の前の戦いで、部下を一人でも多く生かして帰すこと。それだけです」


大幡はしばらく一ノ瀬の目を見ていた。


「その言葉を俺に信じろと」


「信じるかどうかは閣下がお決めになることです。ただ」


一ノ瀬は、聖人君子とも悪逆人とも取れるような、どこか静かな笑みを浮かべた。


「軍人としての職業倫理。与えられた命令に従い、預かった命を守る。それだけは曲げるつもりはないことを、お忘れなく」

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