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10話 バンクーバー港

1952年8月。英国政府臨時首都バンクーバー。

輸送船のタラップを踏んだ瞬間、七宮は思わず目を細めた。太平洋の水平線から差し込む西日が、港湾施設の屋根を橙色に染めている。潮の匂いに混じって、針葉樹の香りがした。日本とは違う種類の緑だ、と七宮は思った。


「口開けて突っ立ってんじゃねえ。邪魔だ」


背中を肩で押されて振り返ると、桐島大尉が不機嫌な顔で荷物を抱えて立っていた。


「す、すみません」


「お前も将校ならキッチリしろ。現地の味方にナメられたら、後が辛いぞ」


桐島が顎で差す岸壁には、すでに先着していたカナダ派遣軍の連絡将校が日本語の案内板を掲げて待っていた。

輸送船を横付けし、第七大隊の面々が次々とタラップを降りてくる。一ノ瀬と鹿嶽が先頭に立ち、浅見中尉がその隣を歩く。南は船酔いが抜けきらないのか、顔色が優れない。坂巻がその隣で荷物を持ってやっていた。


一ノ瀬が最後にタラップを降りながら、港の奥に広がるバンクーバーの市街を見渡した。事実上の戦時下の首都とは思えないほど、街は賑やかだった。路面電車が走り、市民が歩き、店の灯りがある。しかしどの建物の壁にも弾痕の跡があり、高い建物の屋上には対空砲が据えられていた。平和と戦争が、この街では奇妙な均衡を保っていた。


「一ノ瀬」


と鹿嶽が並んで歩きながら言った。


「戻ってきたな、この街に」


「ああ。あの頃とは随分変わったがな」


一ノ瀬は屋上の対空砲を一瞥してから、視線を街路に戻した。六年前、二次大戦終結に伴う引き揚げでこの街に立ち寄った時、バンクーバーはまだ後方の補給拠点に過ぎなかった。あの頃の独軍も攻勢限界に達しており、大陸の反対側にあるここが攻撃される事はほとんどなかった。だが今は違う。ヴィシーフランス軍と共にケベックに続々集結中の独軍は、多数のⅤ号・Ⅵ号戦機を持ち込んでいるのが確認されている。この二機種は六式統合戦機同様マルチロールタイプであり、長距離侵攻が可能な空戦仕様ならばここを直接攻撃、あるいは占領することも不可能ではない。戦争が始まれば、バンクーバーは最前線になり得るのだった。


「あの時は二人で飲んだな。港の近くの酒場で」


「覚えているよ。お前が地元のウイスキーを飲み過ぎて、俺が担いで帰った」


「そんなことはない」


「そんなことがあったんだよ」


鹿嶽が笑い、一ノ瀬も小さく笑った。しかしすぐに表情が戻った。連絡将校が近づいてきた。若い将校で、流暢ではないが整った日本語を話した。


「お待ちしておりました。第七独立戦機大隊の皆様を、バンクーバー第二駐屯地へご案内します。本日中に機体の搬入確認と宿舎への入居を済ませていただく予定です」 


「ご苦労」


一ノ瀬は答えた。


「ただ、一ノ瀬少佐には別途ご連絡がございます」


連絡将校が一歩前に出て、折り畳まれた命令書を差し出した。


「カナダ派遣軍司令部より、到着次第、司令部に直接出頭されるよう大幡司令官閣下より直々のご命令であります」


一ノ瀬は命令書を受け取り、一度だけ目を通した。折り畳んで胸ポケットに収める。鹿嶽が横から覗き込もうとしたが、一ノ瀬は特に説明しなかった。


「大隊の案内は副長の鹿嶽曹長に任せる。機体搬入の確認を怠るな」


「……大幡司令が直々に。とはまた物騒な話だな」と鹿嶽が低い声で言った。


「俺も今知ったところだ」


「何か心当たりは」 


「ない」


一ノ瀬は短く答えた。嘘ではなかった。しかし全くの無心でもなかった。着任初日に大幡司令が直接動く案件が待っているという事実を、一ノ瀬は頭の中で静かに整理していた。


「車を一台、用意してくれ」


連絡将校が頷いた。


「準備しております」


一ノ瀬は振り返り、岸壁に整列しかけている大隊の面々を一瞥した。七宮が不安そうにこちらを見ていた。一ノ瀬は顎をしゃくって、前を向かせた。


「鹿嶽、頼んだ」


「お任せを。ただし早めに戻ってきてください。今晩の酒の席に大隊長がいないと、南が騒ぎます」

「騒がせておけ」


一ノ瀬は踵を返し、岸壁の端に待つ黒塗りの車へと歩いた。


───


カナダ派遣軍司令部は、バンクーバー中心部から外れた丘の上に置かれていた。かつてこの町随一の大富豪の邸宅だったという建物は、今や玄関から警備兵が立ち、窓には遮光幕が下がっていた。

一ノ瀬が通された応接室は、思いのほか質素だった。地図が壁を埋め、地球儀が隅に置かれ、机の上には書類の山。その向こうに、大幡中将が重く腰を据えていた。六十を過ぎてなお背筋が伸びた男だった。第二次大戦の大陸戦線で四年を過ごした顔には、日焼けと皺が深く刻まれている。しかし目だけは、若い頃と変わらない鋭さを持っていた。


「来たか、一ノ瀬少佐」


「ただいま着任しました」


「堅苦しい挨拶はいい。座れ」


大幡は棚からウォッカの瓶を取り出し、グラスに注いで一ノ瀬の前に置いた。


「飲め。長旅だったろう」


「ありがとうございます」


一ノ瀬はグラスに口をつけ、飲み込んだ。滑らかで、ほのかに甘い香りが広がった。


「ストリチナヤ。ロシア製ですか」


「ほう、分かるのか」


大幡はわずかに頬を緩ませた。


「第二次大戦中、ロンドンのパブで飲んだのが最後です。まさか再び口にできるとは思いませんでした」


今やウォッカの主要産地は大ゲルマン帝国の支配下にあり、同国と貿易のない日本では滅多に手に入らない代物だった。


「アメリカ経由で入手した。カリフォルニアにいる友人から横流ししてもらっている。大陸戦線で共に戦った亡命ロシア人だ」


「持つべきものは、血を分かち合った戦友というやつですか」


「あぁ。だが俺たちは、彼らの友誼に背いた」


大幡は言葉を切り、グラスを静かに机に置いた。


「あいつらの国を守れなかった」


低い声だった。独り言のような、しかし誰かに聞かせるような言い方だった。


「同じ過ちはもう繰り返させません。小官は、カナダとこの国に住む人々のために死力を尽くす所存です」


一ノ瀬はそう言った。本心だった。彼にとって理想の軍人とは、人種も国籍も問わず文民を護る盾であった。

だが大幡は、まるで詐欺師を値踏みするような目で一ノ瀬を見た。


「そうやって前任の吉岡司令に取り入ったのか」


一ノ瀬は即座には答えなかった。大幡が続けた。


「俺は知っているぞ。前の大戦で、事故を装い長田と対立していた吉岡を殺したことを。長田の養子である、お前がな」

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