74.這い上る不安
じんわりとした不安が胸の、腹の奥に染みを作っていく。
ぽたりぽたりと。
ヒジキがにゃあんと鳴いた。
『記憶が足りないよ、カナン』
まさか、馬鹿を言わないでほしい。私の記憶が? 足りないはずはない。まだまだたくさんのストックが私にはある。そう、あれだって。あれ……そう、あれ。ええと。
慌てて拡張鞄を探ると、紙の束が噴き出した。噴水のように紙がばらばらとあたりに散らばる。そのすべてに、理解のできない文字が並んでいる。
嘘だ。
いつの間にこんなに記憶を燃やした?
ヒジキと記憶を共有する前に、絶対に書くのだ。私が忘れるものの記録をつける。
本にすればそれだけ関わる者が出てきて、どうしたって記憶の希少価値は下がる。だが、私の記憶は、私の記録は、誰にも解読できない。
誰にも読めない字で書かれた誰も知らないものの価値は変わらない。
ヒジキがまたにゃあんと鳴く。
『ほらカナン。もう差し出す記憶がなくなった。そうなったら魔女がすることは一つだ』
にゃあんと大きな口をあけて催促する。
私の名を寄越せと。
大きな口をあけて私を飲み込もうとする。
『カナン、カナン助けてくれ。魔物が出た。魔女にしかあれは倒せない』
銀髪のクロウがそういって私の頬を両手で包み込む。
『カナン。魔女の勤めだ』
頬の手が首におり、苦しさにあえぐ。
名を差し出したら、私はいったいどうなるのだ。ランタンの芯になってしまった私は、そのまま朽ち果てるのか。
にゃあんと、ヒジキの鳴き声が耳元でした。
そして、胸に、重圧を感じる。物理的なものでなく、重く苦しく、腹の底をかき回されるような不安に襲われる。
はっと開いた目の前に、ヒジキがいた。重圧はヒジキのせいか?
『カナン、やっと起きたか』
直接頭に響くヒジキの声がほんとうにキツかった。くらくらして、めまいが起きる。
だがそれ以上に気持ちが悪い。胸の中が真っ黒に染まるような得体の知れぬ不安がごりごりと私を内側から削ろうとする。
『ヒジキ、何これ。怖い、気持ちが悪い』
声を出さずに直接話しかけながら、私はゆっくり身体を起こそうとした。今は板の床の上に、無造作に寝転がっている。だが、手首を前で縛られていて動きにくい。
頭痛はなかなか止まない。
そして世界が揺れている。ふらふらとして気分が悪い。それでもなんとか身を起こすと、あたりに同じように転がされている子どもの姿がいくつも見られた。部屋には丸い窓があり、分厚いガラスが嵌まっている。
そうだ、船にガラス窓があって、それがすごいなと思ったのだ。テマクの〈補強〉のおかげだろうと。つまりこれはあの船か。
ああ、今、私は船にいるのだ。
転がっている子どもたちは、みな眠っていた。あの嗅がされた薬がそういった類いのものだったのだ。
私の魔導具が強く、私に触れられなかったのか持ち物は無事のようだ。拡張鞄はもちろん私しか取り出せないし、呪符の黒い鞄もなじみのある重量が感じられる。
身体に異常は無い。頭痛も次第に治まってきた。が、不安は消えない。ガリガリと爪で胸の内を引っかかれているような感じがする。
いつの間にか黒ネコのヒジキは消えていた。
そして、少し先に転がされている子どもに見覚えがあった。
「ルザ!?」
立ち上がるにはまだ頭痛とめまいが残っていて、這うようにして近づくと、彼の口元に頬を近づける。
息はしていた。
目立った外傷はない。
なぜルザがここにいるのだろう。私はヤーシンたちが求めたのだと思っていた。
いや、頭が回っていない。
違う。これは例の、子どもを攫って荷馬車に積んでいくと言っていた話だ。
親が祭のあと、子の名を呼んで探し回っているという、例のあれだ。
脳裏の最後の場面が甦る。
テマクが叫んでいた。もう辞めたと言った、と。
羽交い締めにされ、いつも優しげな顔が険しく、そして苦悶に濡れていた。
テマクは知らなかった。なんだかそれだけで救われた気がする。
と、再び胸の内を削られた。今度は今までにない衝撃で思わず倒れる。だが、それまでの漠然とした不安が一つの映像とともに脳裏に表れた。
真っ黒な身体。小山のような巨体。そして口元の赤い炎に、紫の光る目だ。
思いついた途端私は駆けだした。
めまいは薬の後遺症でもあるが、それ以上に船の揺れだった。もう、港を離れ、外海へ出ているのだ。
とにかく上だ。
扉に鍵はかかっていなかった。逃げ場なんてないのだ。
いくらミハナダに住む者たちが海に親しみ、泳ぎに達者だと言っても、暗い夜の海に身を投げようとは思わないだろう。しかも子どもばかり。人買いに売られる子どもたちだ。
手首を縛られた状態で、海に身を投げ岸までなんてたどりつけない。
あざ笑うヤーシンの顔が脳裏にちらついた瞬間、行く手の扉の一つが開き、今まさに思い出していた彼が現れた。
「もう起きたのか!? 丸一日眠るような代物だぞ」
驚きに目を丸くし、突進する私をひらりとかわす。
私は構わず突っ切った。ただただ走り、上への階段を見つける。
「もう港を出てからかなり経った。戻るなんて無理だぞ」
のんびりとした口調で、慌てる様子もなく追いかけてくる。
途中船員とすれ違ったが、誰も彼も驚きはすれど、私を捕まえようなんて思ってもみないようだ。
「カナン、そんなに急いだって無駄だ。十日ほど行った港に腕の良い魔導具師がいる。そいつにその厄介な魔導具を外させて、鞄をとったあとなら手の縄もほどいてやれるから、それまでの我慢だ」
随分勝手なことを言いながら私を追い立てるようにやってくるのだ。
行き止まりに引き返しながらようやく甲板に出た。
真っ暗だが、船には明かりがいくつも点り、男たちが忙しそうに動いている。
「はあ!? あの薬がもう切れたのか? 常用者か?」
テマクの父親の声だ。
あたりを見回し光がたくさんある方へ駆け出す。街の明かりがとてもきれいだ。花の飾られた街灯が揺れている。
だが、その一角が黒で塗りつぶされていた。
「近くに見えるかもしれないが、夜の海を泳いで渡ろうなんて無理なことだぞ」
彼の言葉に周囲の船員たちが一斉に笑った。
つまりこいつら全員ぐるだってことだ。
「ねえ、望遠鏡はないの? 街の様子が見たい」
後ろに向かって問うが男たちは首を傾げている。
「街を見たって街には帰れねえよ」
そんなことは分かっている。結ばれたままの両手をあげて、左耳の魔導具に軽く触れる。
『クロウ、クロウ聞こえる? 街に何が起きてるの?』
『カナン! 無事か? 街に……街にいないのか?』
『いいから、何が』
『氾濫だ! あと、見たこともない黒い大きな魔物が一緒に現れた。街中が騒ぎになっている。コルハンたちと迷宮の方に向かっている』
見たことのない大きな黒い魔物のくだりで、ぞわりと足もとから寒気があがってくる。
「こいつ、〈伝達〉を持っているのか!!」
隣の船員が目の色を変えて私に手を伸ばして弾かれる。
「そんな問題じゃない、氾濫が起こってる!!」
そして、あの魔物がいる。この胸の内の不安はあれのせいか。
『ヒジキ、ロアーナに連絡を。黒い魔物がいるって伝えて!』
どこか遠くでにゃあんと鳴く声が聞こえた。
私の氾濫の言葉に、船員たちが街の方へ身を乗り出して目をこらしている。何人かは望遠鏡らしきものを使って見ていた。
「船長! なんかとんでもなくでかい黒いやつがいます」
「火を吐いてる!!」
迷宮は街の中程にあるので、港まではまだ魔物は来ていないのだろう。彼らが見つけられたのは黒い魔物だけだ。
「氾濫だって? ああ、ミハナダはついてないなあ。でもほらあの魔女様がいたろ。美人で花を山ほど飼っている」
「そうだ、こんな時のために普段からミハナダ伯爵はあの魔女に貢いでいるんだ」
「そうそう。息子まで貢いでな」
どっと湧く。
笑い声には嘲りやさげすみが含まれており、不快感しかなかった。
『カナン、今、手が離せないって』
ヒジキの返答が降ってくる。
『はあ!? じゃあどうするのよ!!』
『カナンに任せたって言ってる』
はあああ? 無責任にもほどがあるだろう!!
信じられない! 山ほど花を持っていると自慢していたくせに、肝心の時はこれなのか!
「魔女はいないよ。今は街から離れているって、魔女の花に聞いた」
周囲は急にシンと静まりかえった。海は静かだ。夜の海は余計に。
船員たちも顔をしかめている。
だが、またしても、テマクの父親、船長は私の常識から離れたことを言ってのけた。
「まあ、運がよいヤツは生き延びるだろうさ。俺たちが戻ったとて、何ができるわけでもない。おい、お前ら、速度を上げるぞ!」
おお! と男たちは声を発した。
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