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第九話 ベースとの出会い

 1959年、秋。

 十三歳のニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセンは、ウーステッド中学校の音楽室にいた。

 身長は既に170センチを超えていた。同級生の中でも頭一つ抜けている。金髪、青い目、穏やかな笑顔。

 音楽の先生、ラース・イェンセンが、生徒たちに向かって言った。

「今年、我が校でジャズバンドを作ります。興味がある人は?」

 何人かの生徒が手を上げた。ニールスもその一人だった。

「良い」イェンセン先生は頷いた。「では、楽器の担当を決めましょう。トランペット希望者は?」

 二人が手を上げた。

「サックスは?」

 三人。

「ドラムスは?」

 四人が手を上げた。人気の楽器だった。

「ピアノは?」

 ニールスと、もう一人の女子生徒が手を上げた。

「二人いるな。では、カレンが第一ピアノ、ニールスが第二ピアノでどうだ?」

 ニールスは頷いた。しかし、心の中では別のことを考えていた。

「先生」ニールスは手を上げた。「ベースは?」

「ベース?」イェンセン先生は困った顔をした。「ベースを弾ける人が必要だな。しかし、誰もいない」

 教室を見回す。誰も手を上げない。

「では、ベースなしで」

「待ってください」ニールスが立ち上がった。「僕が、やります」

 クラスメートたちが、ニールスを見た。

「ニールス、君はベースが弾けるのか?」

「いえ、まだです。でも、学びたいです」

 イェンセン先生は考えた。

「しかし、ベースは難しい楽器だぞ。それに、学校にはベースがない」

「家にあります」ニールスは言った。「三年前から、練習してます。まだ上手じゃないですけど」

「そうか」イェンセン先生は微笑んだ。「では、君がベース担当だ」

 放課後、ニールスは家に帰り、父に報告した。

「学校でジャズバンドができるんだ。僕、ベースを弾くことになった」

「それは良かった」ハンスは息子の頭を撫でた。「しかし、ジャズのベースは、クラシックとは違うぞ」

「どう違うの?」

「リズムだ。ジャズでは、ベースがバンド全体のリズムの基礎を作る。歩くように、一定のテンポで弾き続ける。『ウォーキング・ベース』と言うんだ」

「教えてくれる?」

「私はピアニストだから、ベースの技術は教えられない。しかし」ハンスは考えた。「コペンハーゲンに、良いベースの先生がいる。紹介しよう」

 1959年11月。

 ニールスは、初めてコペンハーゲンのジャズクラブに足を踏み入れた。

 父に連れられて来た「カフェ・モンマルトル」。後に伝説となる、デンマークで最も有名なジャズクラブ。

 地下にある小さなクラブ。煙草の煙が漂い、薄暗い照明。しかし、音楽は明るく、生き生きとしていた。

 ステージでは、トリオが演奏していた。ピアノ、ドラムス、そしてベース。

 ニールスは、ベーシストに目を奪われた。

 エリク・モルケンセン。デンマークを代表するジャズ・ベーシスト。四十代の男性で、太い指が弦の上を自在に動く。

 彼のベースは、ただリズムを刻むだけではなかった。メロディを奏で、和音を作り、時にはソロでストーリーを語った。

 曲が終わった後、ハンスはエリクに近づいた。

「エリク、久しぶりだな」

「ハンス!」エリクは笑顔で握手した。「何年ぶりだ?」

「五年か。これが、息子のニールスだ」

 エリクはニールスを見下ろした。

「大きい子だな。何歳だ?」

「十三歳です」ニールスは答えた。

「十三?俺より背が高いじゃないか」エリクは笑った。「ベースを習いたいんだって?」

「はい」

「理由は?」

 ニールスは考えた。

「あなたの演奏を聴いて、わかりました。ベースは、バンドの心臓なんですね」

 エリクは驚いた顔をした。

「心臓?面白い表現だな。でも、正しい」

 エリクは椅子に座り、ベースを抱えた。

「いいか、ベースはな、目立たない楽器だ。ソロも少ない。観客は、トランペットやサックスばかり見る。しかし」彼は弦を弾いた。「ベースがなければ、音楽は死ぬ。ベースが、すべてを支えている」

 ニールスは頷いた。

「お前、本当にやる気があるか?」

「あります」

「じゃあ、来週から来い。毎週土曜日、午前十時。レッスン代は、お前の父さんに請求する」

 ニールスは嬉しそうに笑った。

 1960年、春。

 ニールスのベースの技術は、急速に向上していた。

 エリク・モルケンセンのレッスンは厳しかった。基礎練習を何時間も繰り返す。指の位置、音程の正確さ、リズムの安定性。

「もう一回」エリクはよく言った。「完璧になるまで」

 ニールスは文句を言わなかった。ただ、黙々と練習した。

 学校のジャズバンドも、順調に進んでいた。最初はぎこちなかった演奏が、徐々にまとまってきた。

 ある日の練習で、イェンセン先生が新しい曲を提案した。

「デューク・エリントンの『Take the A Train』をやってみよう」

 生徒たちは楽譜を受け取った。

 ニールスは、ベースラインを見た。複雑だった。しかし、挑戦したかった。

 演奏が始まった。

 最初は、ニールスは楽譜通りに弾いていた。しかし、曲が進むにつれて、彼は気づいた。

 楽譜通りじゃなくてもいい。リズムさえ保てば、音を変えてもいい。

 彼は、即興を始めた。基本のベースラインを守りながら、音を足し、パターンを変える。

 バンド全体が、それに反応した。音楽が、生き始めた。

 曲が終わった後、イェンセン先生が拍手した。

「素晴らしい、ニールス!今の即興、どこで習った?」

「習ってません。ただ、感じたままに」

「天性のものだな。続けてくれ」

 1961年、夏。

 十五歳のニールスは、もう子供ではなかった。身長は185センチに達し、声も低くなっていた。

 エリク・モルケンセンは、ある日のレッスンで言った。

「ニールス、お前はもう、俺が教えられる域を超えた」

 ニールスは驚いた。「どういう意味ですか?」

「お前には、天賦の才能がある。完璧な音程。揺るぎないタイム感。そして、音楽を感じる心。俺が二十年かけて学んだことを、お前は二年で身につけた」

「でも、まだまだ学ぶことが」

「もちろんだ」エリクは笑った。「音楽に終わりはない。しかし、お前はもう、プロとして通用する」

「プロ?」

「ああ。実は、モンマルトルのオーナーが、若いベーシストを探している。ハウスバンドのメンバーとして」

 ニールスの心臓が早鐘を打った。

「でも、僕はまだ十五歳です」

「年齢は関係ない。実力があれば、誰でも歓迎する。それがジャズの世界だ」

 エリクは立ち上がった。

「今夜、モンマルトルに来い。オーディションだ」

 1961年12月31日。大晦日。

 ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセンは、ジャズハウス・モンマルトルのステージに立っていた。

 十五歳。プロのベーシストとしてのデビュー。

 クラブは満員だった。大晦日のスペシャルライブ。コペンハーゲンのジャズファンたちが集まっていた。

 ニールスは緊張していた。手が震えていた。

 しかし、ベースを抱いた瞬間、落ち着いた。

 これは、彼の楽器だった。彼の声だった。

 ピアニストが合図した。

 演奏が始まった。

 ニールスの指が、弦の上を動く。

 ウォーキング・ベース。一定のリズム。しかし、ただの機械的な繰り返しではない。音楽が呼吸している。生きている。

 ピアノのソロ。ニールスは、完璧にサポートする。和音を感じ取り、次の展開を予測し、ベースラインを構築する。

 ドラムスとの対話。リズムが絡み合い、グルーヴが生まれる。

 そして、ベースソロの番が来た。

 ニールスは、一瞬躊躇した。しかし、エリクの言葉を思い出した。

「恐れるな。お前の音楽を、聴かせろ」

 彼は、弾き始めた。

 低音が、クラブに響く。メロディが、語り始める。

 クラシックで学んだ技術。ジャズで得た自由。そして、デンマークの教会で育まれた音楽への愛。

 すべてが、一つになった。

 ソロが終わった。

 一瞬の沈黙。そして、拍手。

 観客が立ち上がっている。

 ニールスは、初めて理解した。

 これが、僕の人生だ。

 音楽。ベース。ジャズ。

 曲が終わった後、楽屋で、エリクが待っていた。

「どうだった?」

「すごかった」ニールスは笑った。「生きてるって感じがした」

「そうだろう?」エリクは肩を叩いた。「お前は、もう立派なプロだ。これから、たくさんの音楽家と出会う。たくさんの音楽を作る。世界中を旅する」

「本当に?」

「ああ。お前の才能なら、間違いない」

 その夜、家に帰る車の中で、ニールスは窓の外を見つめていた。

 コペンハーゲンの夜景。新年を迎える花火が、空に上がっていた。

「おめでとう、ニールス」父が言った。「お前は、音楽家になった」

「ありがとう、父さん」

「しかし」父は真剣な顔で続けた。「プロの世界は厳しい。楽しいことばかりじゃない」

「わかってる」

「それでも、続けるか?」

 ニールスは頷いた。

「音楽は、僕の人生だから」

 車は、ウーステッドへの道を走っていく。

 新しい年。1962年。

 ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセンの、本当の物語が始まろうとしていた。






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