第八話 教会の鐘の音
【ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセン(NHØP)編(第8話〜第15話)】
1946年5月27日。デンマーク、ウーステッド。
小さな村に、教会の鐘が響いた。
出産を祝う鐘。新しい命の誕生を、村中に知らせる音。
ハンス・ヤコブ・ペデルセンは、病院の廊下で待っていた。四十歳の男性。穏やかな顔つき。しかし、今は緊張で顔が強張っている。
ドアが開いた。
看護師が出てきた。
「おめでとうございます。男の子です」
ハンスは、部屋に入った。
ベッドに、妻のマルグレーテが横たわっていた。疲れた顔。しかし、微笑んでいる。
その腕に、小さな赤ん坊が抱かれていた。
「ハンス」マルグレーテは夫を見た。「見て。私たちの息子よ」
ハンスは近づいた。赤ん坊を見つめた。
小さな顔。閉じた目。小さな手。
「美しい」ハンスは囁いた。
「やっぱり、ニールス・ヘニングにしましょう」マルグレーテが言った。「私たちが話し合った通りに」
「ああ」ハンスは頷いた。「ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセン。良い名前だ」
マルグレーテは微笑んだ。
「私たちの息子。ニールス」
赤ん坊が、小さな声を上げた。
二人は、微笑み合った。
窓の外では、ウーステッドの村が静かに広がっていた。教会の尖塔。石畳の道。緑の丘。
戦争が終わって、一年。
デンマークは、ナチス・ドイツの占領から解放された。
平和が戻ってきた。
そして、新しい命が生まれた。
ウーステッドは、人口わずか千人ほどの小さな村だった。
コペンハーゲンから南西に約60キロ。田園地帯の中にある、静かな場所。
村の中心には、古い教会が立っていた。12世紀に建てられた、白い壁の教会。
ハンス・ヤコブ・ペデルセンは、この教会のオルガニストだった。
毎週日曜日、彼はパイプオルガンを演奏した。賛美歌。バッハのコラール前奏曲。村人たちは、彼の演奏を聴きながら祈りを捧げた。
ハンスは、音楽を愛していた。
子供の頃からピアノを学び、音楽院で学んだ。しかし、音楽家としてのキャリアは選ばなかった。安定した職業として、教会オルガニストになった。
それでも、音楽は彼の人生だった。
妻のマルグレーテも、音楽を愛していた。彼女は、村の合唱団で歌っていた。美しいソプラノの声。
二人は、音楽を通じて出会い、結婚した。
そして今、息子が生まれた。
ニールス・ヘニング。
この子にも、音楽を教えよう。
ハンスは、そう決めていた。
1950年、春。
四歳のニールス・ヘニングは、教会の中で遊んでいた。
日曜日の礼拝が終わった後。村人たちは帰り、教会には静寂が戻っていた。
ニールスは、祭壇の前を走り回っていた。小さな足音が、石の床に響く。
「ニールス」父が呼んだ。「こっちにおいで」
ニールスは、父のもとへ走って行った。
ハンスは、パイプオルガンの前に座っていた。
「座りなさい」父は、自分の膝の上に息子を座らせた。
ニールスの目の前に、鍵盤が広がっていた。白と黒の鍵。たくさんある。
「これが、オルガンだよ」父が言った。「音楽を奏でる楽器だ」
「音楽?」
「そう。聞いてごらん」
父の手が、鍵盤に触れた。
音が響いた。
深く、豊かな音。教会全体が、楽器になったように響く。
ニールスは、目を見開いた。
「すごい」
「これは、神様への賛美だ」父は言った。「音楽は、言葉を超えて、心に語りかける」
ニールスは、鍵盤を見つめた。
「僕も、弾いてもいい?」
「もちろん」
小さな手が、鍵盤に触れた。
ポン、という音。
ニールスは笑った。
「もっと」
父は微笑んだ。
「じゃあ、教えてあげよう」
それから、毎週日曜日、礼拝の後、父はニールスにオルガンを教えた。
最初は、単音だけ。ド、レ、ミ、ファ、ソ。
それから、簡単なメロディ。「きらきら星」。「メリーさんの羊」。
ニールスは、すぐに覚えた。
父は驚いた。四歳の子供が、これほど早く音楽を理解するとは。
1956年、春。
十歳のニールスは、コペンハーゲンの楽器店で、運命的な出会いをした。
家族で首都を訪れた時のこと。ハンスが「新しい楽譜を買いに行く」と言い、マルグレーテとニールスもついてきた。
楽器店のショーウィンドウに、大きな楽器が立っていた。
人間よりも大きい。美しい曲線。太い弦。
「あれ、何?」ニールスは尋ねた。
「ダブル・ベースだよ」父が答えた。「オーケストラやジャズで使う楽器だ」
ニールスは、ベースに魅了された。
大きい。力強い。しかし、どこか優しい。
店の中に入った。店員に許可を得て、ニールスはベースに触れた。
弦を弾く。
ブーン、という低音。
体全体に響く。
ニールスは、鳥肌が立った。
「この音...」
「どう?」父が尋ねた。
「好き」ニールスは答えた。「この楽器、すごく好き」
マルグレーテと夫は顔を見合わせた。
「ニールス」母が言った。「ベースは大きいわ。あなたには、まだ早いかもしれない」
「でも、いつか弾きたい」
「いつかな」父は息子の肩を叩いた。「お前が大きくなったら、考えよう」
しかし、ニールスは待てなかった。
家に帰ってから、彼はベースのことばかり考えていた。
あの音。あの響き。
ピアノも好きだ。しかし、ベースには、何か特別なものがあった。
その年の秋、ニールスの誕生日。
父と母が、「コペンハーゲンに行こう」と言った。
「何のために?」
「お前へのプレゼントを買いに」
コペンハーゲンの楽器店。
あの時と同じ店。
しかし、今日は、ベースは店の中にあった。
「これは...」ニールスは目を輝かせた。
「お前の誕生日プレゼントだ」父が言った。「ただし、レンタルだ。まだ高価すぎて買えない。しかし、お前が本当に続けるなら、いつか買ってあげる」
ニールスは、両親を抱きしめた。
「ありがとう!」
「しかし」父は真剣な顔で言った。「途中で投げ出さないと約束してくれ。ベースは、ピアノより難しい。指が痛くなる。腕が疲れる。それでも、続けられるか?」
「続ける」ニールスは断言した。「絶対に」




