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第七話 逃亡

 1962年2月27日。運命の日。

 オイゲン・キケロは、ホテルの部屋で目を覚ました。時計を見ると、午前六時。外はまだ暗かった。

 彼は昨夜、ほとんど眠れなかった。頭の中で、計画を何度も何度も繰り返していた。

 今日、ルーマニア大使館が発行する一日通行証を受け取る。文化施設の視察という名目で、西ベルリンへ行く許可が下りていた。

 しかし、オイゲンの計画は、視察ではなかった。

 彼は立ち上がり、窓に近づいた。東ベルリンの朝。灰色の空。凍てついた通り。

 部屋を見回した。スーツケースには、衣類が入っている。しかし、大切なものはすべて、小さなカバンに詰めてあった。楽譜。写真。そして、母がくれた十字架のペンダント。

 ベッドの上には、三通の手紙が置かれていた。

 一通目は、両親へ。二通目は、兄のアドリアンへ。三通目は、アンサンブルの指揮者へ。

 オイゲンは震える手で、もう一度アドリアンへの手紙を読んだ。


 愛する兄へ

 この手紙を読んでいるということは、僕はもう東側にはいない。 許してくれ。約束を破って。兄さんを置いて行くことを。

しかし、僕にはこれしか道がなかった。ここに留まれば、音楽は死ぬ。魂が死ぬ。

 いつか必ず、兄さんを呼ぶ。西側で、自由な場所で、一緒に音楽をしよう。

 丘の上で、ラジオを聴いた日を覚えている。デューク・エリントン。あの音楽。

 あれを、自由に弾ける場所へ行く。

 それまで、強く生きてくれ。

 永遠に、貴方の弟 オイゲン


 オイゲンは手紙を封筒に戻した。涙が頬を伝った。

 午前九時、ルーマニア大使館。

 オイゲンは、受付で名前を告げた。

「キケロ同志、ポペスク氏が待っています」

 ポペスクの部屋に通された。

「おはよう」ポペスクは微笑んだ。「準備はできているか?」

「はい」

 ポペスクは書類を渡した。一日通行証。西ベルリンのいくつかの文化施設を訪問する許可。有効期限は今日の午後六時まで。

「ヴィクトルが同行する」ポペスクは言った。「彼の指示に従え。時間厳守だ。遅れれば、我々全員が困る」

「わかっています」

 オイゲンは通行証を受け取った。手が震えていた。

「緊張しているのか?」ポペスクが尋ねた。

「少し」

「心配するな。形式的なものだ。視察が終われば、すぐに戻ってこられる」

 オイゲンは頷いた。しかし、心の中では別のことを考えていた。

 戻らない。二度と。

 午前十時、チェックポイント・チャーリー。

 オイゲンとヴィクトルは、検問所に並んでいた。前には数人の旅行者がいた。

 オイゲンの心臓が激しく打っていた。カバンを強く握りしめた。

 順番が来た。

 東ドイツの国境警備隊が、書類を確認する。通行証。パスポート。

「目的は?」警備隊員が尋ねた。

「文化施設の視察」ヴィクトルが答えた。

 警備隊員は、オイゲンを見た。鋭い目。

「カバンを開けろ」

 オイゲンはカバンを開けた。警備隊員が中身を確認する。楽譜。衣類。写真。

「この写真は?」警備隊員が、家族の写真を手に取った。

「家族です」オイゲンは答えた。

「なぜ持っている?」

「―――」

「答えろ」

「いつも、持ち歩いています。家族を思い出すために」

 警備隊員は疑わしそうに彼を見た。長い時間が過ぎた。

 そして、写真を戻した。

「行け」

 ゲートが開いた。

 オイゲンとヴィクトルは、西側に入った。

 オイゲンは深呼吸した。第一段階、成功。

 西ベルリンの通りは、相変わらず活気に満ちていた。

 二人は、最初の目的地である美術館に向かった。ヴィクトルは常にオイゲンのそばにいた。

 美術館の中を歩きながら、オイゲンは計画を頭の中で確認していた。

 午後二時。次の目的地は音楽学校。そこで、オイゲンは「トイレに行く」と言って、ヴィクトルから離れる。そして、逃げる。

 しかし、どこへ?

 西ベルリンには、難民受け入れセンターがある。マリーエンフェルデ。そこに行けば、保護される。

 しかし、そこまでどうやって行くか。地図は頭に入れてある。しかし、ヴィクトルが追ってくる。

 午後二時、音楽学校。

 建物の中に入った。廊下を歩く。教室からは、ピアノの音が聞こえてくる。

「少し、聞いていってもいいですか」オイゲンは尋ねた。

 ヴィクトルは腕時計を見た。「十分だけだ」

 二人は教室の外で、演奏を聞いた。若い学生がショパンを弾いている。

 オイゲンの心は、音楽に集中できなかった。タイミングを計っていた。

「トイレに行ってきます」オイゲンは言った。

 ヴィクトルは頷いた。「急げ」

 オイゲンは廊下を歩いた。トイレの標識を見つけた。中に入る。

 ヴィクトルは外で待っている。

 オイゲンは個室に入った。窓がある。小さいが、人が通れるサイズ。

 彼は窓を開けた。外は裏庭。誰もいない。

 心臓が爆発しそうだった。

 今だ。

 オイゲンは窓から体を出した。足を外に。そして、飛び降りた。

 着地。足をひねりそうになったが、持ちこたえた。

 走った。

 裏庭を抜け、路地に出た。通りに出た。人混みに紛れた。

 後ろを振り返った。誰も追ってこない。

まだ。

 しかし、すぐにヴィクトルが気づく。

そして、警察に通報する。

 オイゲンは走り続けた。

 息が切れた。胸が痛い。しかし、止まれない。

 地図を思い出す。マリーエンフェルデ難民センターは、西ベルリンの南部。

ここから、約五キロ。

 タクシーを拾おうとしたが、お金がほとんどない。

 バス停を見つけた。路線図を確認する。マリーエンフェルデ行きのバスがある。

 バスが来た。オイゲンは飛び乗った。

 運転手に「マリーエンフェルデまで」と言った。

「一マルク五十ペニヒ」

 オイゲンはポケットを探った。小銭を数えた。ちょうど足りた。

 バスは走り出した。

 オイゲンは窓際の席に座り、外を見た。西ベルリンの街並みが流れていく。

 自由。もうすぐ。

 しかし、まだ安全ではない。ヴィクトルはすでに警察に通報しているだろう。東ドイツの諜報機関も動いているかもしれない。

 バスは、交通渋滞に巻き込まれた。動かない。

 オイゲンは焦った。時間が過ぎていく。

 窓の外に、警察車両が見えた。サイレンは鳴っていないが、こちらに向かっているようだった。

 オイゲンは席を立った。次のバス停で降りる。

 バスが停まった。オイゲンは飛び降りた。

 そして、再び走った。

 通りを曲がり、また曲がり、方向感覚を失いそうになった。

 息が切れた。足が重い。しかし、止まれない。

 角を曲がったところで、誰かとぶつかった。

「気をつけろ!」男が怒鳴った。

「すみません」オイゲンは謝った。

 男は、オイゲンの顔をまじまじと見た。

「お前、東側から来たのか?」

 オイゲンは凍りついた。

「―――」

「心配するな」男は笑った。「俺もだ。三年前に逃げてきた。マリーエンフェルデに行くんだろう?」

 オイゲンは頷いた。

「あと二キロだ。この道をまっすぐ行け。大きな建物がある。そこだ」

「ありがとう」

 男は去って行った。

 オイゲンは、再び走り始めた。

 午後三時三十分。

 マリーエンフェルデ難民受け入れセンター。

 大きな灰色の建物。入り口には、何人もの人が並んでいた。

 オイゲンは列に並んだ。

 前にいる人々も、逃げてきた人たちだった。東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア。様々な国から。

 やがて、順番が来た。

 受付の女性が尋ねた。「名前は?」

「オイゲン・キケロ」

「国籍は?」

「ルーマニア」

「いつ、どこから来ましたか?」

「今日。東ベルリンから」

 女性は書類に記入した。

「政治的亡命を申請しますか?」

「はい」

「わかりました。こちらに座って待ってください。担当者が来ます」

 オイゲンは待合室に座った。

 周りには、同じように逃げてきた人たちがいた。疲れた顔。不安な目。しかし、希望もあった。

 三十分後、担当者が来た。中年の男性、穏やかな顔つき。

「キケロさん?こちらへ」

 オイゲンは、小さな面談室に案内された。

「私はハンス・ミュラー。難民担当官です」男は自己紹介した。「あなたの状況を教えてください」

 オイゲンは、すべてを話した。

 ルーマニアでの生活。音楽への情熱。ジャズへの愛。抑圧。そして、今日の逃亡。

 ミュラーは黙って聞いていた。

「わかりました」ミュラーは言った。「あなたの亡命申請は、受理されます。これから、正式な手続きが始まります。数週間かかるでしょう」

「それまで、どこに?」

「ここに滞在できます。部屋と食事が提供されます」

 オイゲンは、涙がこみ上げてきた。

「ありがとうございます」

「しかし」ミュラーは真剣な顔で続けた。「あなたは、家族を東側に残してきました。彼らが報復を受ける可能性があります」

 オイゲンの顔が青ざめた。

「父、母、兄」

「残念ですが、それは亡命のリスクです。しかし、我々は、西ドイツ政府を通じて、あなたの家族を守るよう努力します」

 オイゲンは頭を抱えた。

 自由を手に入れた。しかし、代償は大きかった。

 その夜、難民センターの小さな部屋で、オイゲンは一人で座っていた。

 窓の外には、西ベルリンの夜景が広がっていた。光。自由。

 しかし、オイゲンの心は、クルジュにあった。

 父は、どう思っているだろう。母は、泣いているだろうか。アドリアンは、手紙を読んだだろうか。

 オイゲンはベッドに横たわった。

 天井を見つめた。

 これで良かったのか。正しい選択だったのか。

 答えは、わからなかった。

 しかし、もう後戻りはできなかった。

 彼は、自由を選んだ。音楽を選んだ。

 そして今、新しい人生が始まろうとしていた。

 一人で。

 オイゲンは、母がくれた十字架のペンダントを握りしめた。

「許してくれ」彼は囁いた。「必ず、兄さんを呼ぶ。必ず」

 窓の外では、街の光が輝き続けていた。

 自由の光。しかし、それは同時に、孤独の光でもあった。

 オイゲン・キケロの新しい人生が、始まった。






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