第十話 巨人たちとの邂逅
1962年、春。
ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセンは、ジャズハウス・モンマルトルのハウスバンドの正式メンバーになっていた。
週に三回、時には四回、彼はこの地下のクラブで演奏した。学校は続けていたが、夜の時間は音楽に捧げられた。
十五歳のベーシスト。コペンハーゲンのジャズシーンで、既に名前が知られ始めていた。
ある三月の夜、クラブのオーナー、ヘニング・ウルセンが楽屋に来た。
「ニールス、来週、特別なゲストが来る」
「誰ですか?」
「デクスター・ゴードン」
ニールスは息を飲んだ。
デクスター・ゴードン。アメリカの誰もが知るテナーサックス奏者。ビバップの巨人。
「本当ですか?」
「ああ。彼は今、ヨーロッパツアー中だ。コペンハーゲンに一週間滞在する。お前が、彼のバックを務めることになる」
ニールスの手が震えた。
「でも、僕なんかが」
「お前以外にいない」ヘニングは断言した。「お前は、この街で最高のベーシストだ。年齢は関係ない」
1962年3月15日。
ニールスは、リハーサル室でデクスター・ゴードンを待っていた。
ドラマーのアレックス・リールも一緒だった。アレックスは二十代半ばで、既にデンマークで最も求められるドラマーの一人だった。
「緊張してるのか?」アレックスが尋ねた。
「はい」ニールスは正直に答えた。
「心配するな。デクスターは良い奴だ。若い音楽家を育てるのが好きなんだ」
その時、ドアが開いた。
デクスター・ゴードンが入ってきた。
背が高く、優雅な動きをする男。サングラスをかけ、サックスケースを持っていた。
「やあ、みんな」彼の声は低く、温かかった。
全員が立ち上がって挨拶した。
「こちらが、ニールス・ペデルセン」アレックスが紹介した。「僕たちのベーシストだ」
デクスターはニールスを見た。サングラスの向こうから、鋭い目が彼を観察していた。
「若いな。何歳だ?」
「十五です」
「十五?」デクスターは笑った。「俺が最初にステージに立った年だ。どのくらいベースを弾いてる?」
「三年です」
「三年?」デクスターは驚いた。「それで、モンマルトルのハウスバンド?天才か?」
「いえ」ニールスは謙遜した。「ただ、練習しただけです」
「謙虚だな。いい性格だ」
デクスターはサックスを組み立てた。
「じゃあ、やってみようか。『Rhythm-a-ning』、知ってるか?」
「はい」ニールスは答えた。セロニアス・モンクの名曲。複雑な和音進行。
「テンポは?」
「ミディアム・スウィング」
「いいね。ピアニストは?」
「今日は、ハロルドが来ます」アレックスが答えた。
その時、アメリカ人ピアニストのハロルド・ゴールドバーグが入ってきた。モンマルトルの準マネージャーでもあり、ハウスピアニストでもある男だった。
「準備できてるぞ」ハロルドは明るく言った。
「じゃあ、始めよう」
演奏が始まった。
ハロルドがイントロを弾く。アレックスがブラシでシンバルを撫でる。
ニールスのベースが入った。
ウォーキング・ベース。しかし、ただ歩くだけではない。和音の変化を感じ取り、メロディを暗示し、リズムに命を吹き込む。
デクスターのサックスが歌い始めた。
豊かな音色。深い表現。即興のメロディが、部屋を満たす。
ニールスは、デクスターの音に耳を傾けながら、サポートした。
デクスターがフレーズを伸ばせば、ニールスは待つ。デクスターが加速すれば、ニールスもついていく。
音楽的な会話。
曲が終わった。
デクスターはサックスを口から離し、ニールスを見た。
「―――」
そして、笑顔になった。
「お前、本物だな」
「ありがとうございます」
「いや、マジで。お前の年齢で、この音楽的成熟度は信じられない。完璧なタイム感。和音の理解。そして何より、聴く耳を持っている」
ニールスは照れくさそうに笑った。
「アレックス」デクスターは振り返った。「お前、とんでもない若者を見つけたな」
「だろう?」アレックスは誇らしげに言った。「彼は、デンマークの宝だ」
その夜のライブは、成功だった。
モンマルトルは満員。デクスター・ゴードンを見るために、ジャズファンたちが集まっていた。
しかし、演奏が進むにつれて、観客はもう一人の音楽家にも注目し始めた。
若いベーシスト。巨大な楽器を抱え、目立たぬ場所から音楽の土台を作っている少年。
デクスターのソロの後、ニールスのベースソロがあった。
ニールスは、躊躇なく弾いた。
低音が語る。メロディが歌う。リズムが踊る。
観客は、驚きの表情で聞いていた。
ソロが終わると、拍手が起きた。
ステージの上で、デクスターがニールスに向かって親指を立てた。
その週、ニールスは毎晩デクスターと演奏した。
そして、毎晩、何か新しいことを学んだ。
音楽は、技術だけではない。感情だ。ストーリーだ。会話だ。
最終日の夜、ライブが終わった後、デクスターはニールスを楽屋に呼んだ。
「ニールス、お前に言っておきたいことがある」
「はい」
「お前は、世界レベルの才能を持っている。デンマークに留まるには、もったいない」
ニールスは黙って聞いていた。
「いつか、アメリカに来い。ニューヨーク。そこが、ジャズの中心だ。お前なら、すぐにビッグネームと演奏できる」
「本当ですか?」
「ああ。俺が保証する」デクスターは名刺を渡した。「これは、ニューヨークの俺の連絡先だ。もしアメリカに来たら、必ず連絡しろ。紹介してやる」
ニールスは名刺を受け取った。手が震えていた。
「ありがとうございます」
「礼はいらない。才能を無駄にするな。それだけだ」
1962年4月。
ヘニング・ウルセンが、再び重大なニュースを持ってきた。
「ニールス、今月末、もう一人の伝説が来る」
「誰ですか?」
「バド・パウエル」
ニールスは言葉を失った。
バド・パウエル。ビバップ・ピアノの創始者。チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーと並ぶ、ビバップの巨匠。
「録音もする」ヘニングは続けた。「四月二十六日。お前がベースを弾く」
「録音?」
「ああ。アルバムになる。お前の名前が、バド・パウエルのレコードに載るんだ」
ニールスは信じられなかった。十五歳。まだ高校生。それなのに、伝説のピアニストと録音する。
「準備しておけ」ヘニングは肩を叩いた。「これは、お前の人生を変えるかもしれない」
1962年4月26日。ジャズハウス・モンマルトル。
ニールスは、いつものクラブに入った。しかし、今日は特別だった。録音が行われる。
ステージには、マイクが何本も立っている。録音エンジニアが、機材を調整している。いつもの演奏空間が、録音スタジオに変わっていた。
ピアノの前に、一人の男が座っていた。
バド・パウエル。
痩せた体。疲れた顔。しかし、その指は美しかった。ピアニストの手。
「君が、ニールス?」バドは静かに尋ねた。
「はい」
「若いな」
「十五です」
バドは微笑んだ。それは、悲しみを含んだ微笑みだった。
「十五。良い年だ。まだ、世界が輝いて見える年だ」
ニールスは何と答えていいかわからなかった。
バド・パウエルの人生は、苦難に満ちていた。精神病院への入退院。薬物。暴力。ジャズの天才が払った、あまりにも大きな代償。
「今日、何を録音するんですか?」ニールスは尋ねた。
「俺の曲。『Bouncing with Bud』。それから、スタンダードをいくつか」
「わかりました」
「緊張してるか?」
「はい」
「良い。緊張は、集中力を生む」バドはピアノの鍵盤に触れた。「しかし、恐れるな。音楽は、友達だ。敵じゃない」
ドラマーのウィリアム・シェッペが到着した。スウェーデン出身のドラマーで、柔軟なスタイルが特徴だった。
エンジニアが合図した。
「準備はいいですか?」
バドは頷いた。
「始めよう」
録音が始まった。
バドの指が、鍵盤の上を駆け抜ける。
ビバップの複雑なライン。速いテンポ。めまぐるしく変わる和音。
ニールスは、必死についていった。
しかし、ついていくだけではない。サポートする。バドのピアノが自由に飛べるように、揺るぎない基盤を作る。
バドは、ニールスのベースを感じ取った。信頼した。そして、さらに自由に演奏した。
曲が終わった。
バドは振り返った。
「もう一回」
「何か問題がありましたか?」エンジニアが尋ねた。
「いや」バドは首を振った。「ただ、もっと良くできる」
二回目の演奏。
今度は、さらに深く。さらに自由に。
ニールスとバドの間に、見えない糸が張られた。音楽的な信頼。
三曲目、四曲目と録音は続いた。
時間が経つにつれて、バドは疲れてきた。しかし、音楽は衰えなかった。
最後の曲。バラード。「I Remember Clifford」。
バドのピアノが、物語を語る。
愛。喪失。希望。絶望。
ニールスのベースは、深く、揺るぎなく、その物語を支えた。
曲が終わった。
クラブに、長い沈黙が落ちた。
エンジニアが、目頭を押さえていた。
「素晴らしい」彼は囁いた。
バドは立ち上がり、ニールスに近づいた。
「ありがとう」
「こちらこそ」ニールスは答えた。
「お前は」バドは真剣な顔で言った。「特別な才能を持っている。俺が若い頃に出会いたかった、そんなベーシストだ」
ニールスは何も言えなかった。
「音楽を続けろ」バドは続けた。「どんなに辛くても。音楽だけが、本物だ。他のすべては、幻だ」
バドは楽器ケースを持って、クラブを出て行った。
ニールスは、その背中を見送った。
偉大な音楽家。しかし、人生に傷ついた男。
その夜、家に帰ると、父が待っていた。
「どうだった?」
「すごかった」ニールスは答えた。「バド・パウエルは...天才です。でも、とても悲しそうでした」
ハンスは息子の肩に手を置いた。
「ニールス、お前はこれから、多くの偉大な音楽家と出会うだろう。彼らの中には、幸せな人生を送っている者もいれば、バドのように苦しんでいる者もいる」
「音楽は、幸せをくれないんですか?」
「音楽は、幸せも苦しみも、すべてを引き受ける」ハンスは言った。「しかし、お前は選べる。どんな人生を送るかを。才能があることと、幸せであることは、別のことだ」
ニールスは頷いた。
その言葉の意味を、完全には理解できなかった。しかし、いつか理解する日が来るだろう。
1962年5月。
『Bouncing with Bud』のアルバムがリリースされた。
ジャズ雑誌は、絶賛した。
「バド・パウエル、復活」
「若きデンマークのベーシスト、ニールス・ペデルセンの完璧なサポート」
ニールスの名前が、ヨーロッパ中に知られ始めた。
モンマルトルには、アメリカからも音楽家が訪れるようになった。
ソニー・ロリンズ。ベン・ウェブスター。スタン・ゲッツ。
みんな、「あの若いベーシスト」と共演したがった。
ある日、学校で、音楽の先生が言った。
「ニールス、君の将来について話したい」
放課後、先生の部屋で。
「君は、もう普通の学生じゃない。プロの音楽家だ。学校を続けるのは、難しくなってきているだろう」
「はい」ニールスは認めた。夜遅くまで演奏し、朝は眠くて授業に集中できないことが多かった。
「卒業まで、あと一年ある。どうするつもりだ?」
ニールスは考えた。
学校を続けるべきか。それとも、音楽に専念すべきか。
「先生」ニールスは言った。「音楽は、僕の人生です。でも、父は教育を大切にしています。約束したんです。ちゃんと卒業するって」
先生は微笑んだ。
「良い答えだ。では、こうしよう。授業は、できる限り出席する。しかし、演奏と重なる時は、欠席を認める。その代わり、テストは必ず受けること」
「本当ですか?」
「ああ。君のような才能を、学校の規則で潰すわけにはいかない」
ニールスは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
1962年、秋。
十六歳のニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセンは、ヨーロッパで最も求められる若手ベーシストになっていた。
しかし、彼は変わらなかった。
謙虚で、礼儀正しく、音楽を愛していた。
ある夜、アレックス・リールが楽屋で言った。
「ニールス、お前は特別だ」
「何がですか?」
「才能もそうだが、それ以上に、お前の人間性だ。多くの若い音楽家は、成功すると傲慢になる。しかし、お前は違う」
「僕は、まだ学ぶことがたくさんあります」
「その謙虚さが、お前を偉大にするだろう」アレックスは微笑んだ。「俺たちは、長い付き合いになりそうだ」
その予言は、正しかった。
アレックス・リールとニールス・ペデルセンは、その後も何十年にわたって共演を続けることになる。
しかし、それはまた別の物語だ。
今、この瞬間、ニールスは十六歳だった。
音楽の巨人たちと出会い、彼らから学び、そして自分自身の声を見つけ始めていた。
ベースという楽器を通じて、世界と対話していた。
これが、僕の人生だ。
ニールスは、ベースを抱きながら、そう思った。
そして、微笑んだ。




