第四十三話 時の流れ
時が、流れた。
1980年代。
1990年代。
世界は、その色彩を塗り替えていった。
ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセン。
コペンハーゲン。
彼の音楽活動は、止まることを知らなかった。世界中を旅した。ニューヨーク、ロサンゼルス、東京、パリ、ロンドン。しかし、その旅路の果てには常に、コペンハーゲンの灯火が待っていた。家族という名の錨が、彼を繋ぎ止めていた。
1985年。アンナは、15歳になった。もはや幼い少女の面影を脱ぎ捨てつつあったが、父を想う心は変わらなかった。ニールスがツアーから帰ると、彼女は決まって玄関でその気配を待っていた。
「おかえり、パパ」
「ただいま、アンナ」
その交わされる一言一言が、ニールスの何よりの糧であった。技術は神業の域を極め、三本指の奏法はもはや体の一部となっていたが、彼が終生追い求めたのは、技を超えた先にある音楽の探求であった。
オイゲン・キケロ。
1980年代。彼の人生にも、冬の後に訪れる陽だまりのような安らぎが満ちていた。西側に呼び寄せた父テオドールと母リヴィア、さらに移住を果たした兄アドリアン。亡命以来、分断され凍てついていた家族の刻が、ミュンヘンの自宅でゆっくりと融け合っていった。
新たな伴侶との生活は、嵐のあとの凪のように、深く、温かな充足を彼にもたらしていた。その慈しみの中で、息子ロジャーの成長を見守る日々。ロジャーもまた、音楽という宿命を背負った。選んだのは、鍵盤ではなくジャズシンガーという道。
1985年。ロジャーは15歳。すでに夜の帳が降りる頃、小さなステージでその歌声を響かせていた。客席の隅で、キケロは息子の若く瑞々しい才能の中に、自らの音楽性が形を変えて息づいているのを見届けた。それは、かつて自由を求めて彷徨った亡命者の心に灯った、最後の希望の光であった。
1989年11月9日。世界が大きく脈打った。
ベルリンの壁が、崩壊した。
テレビに映し出される歴史の断片を、キケロは隣に座る母リヴィアと共に、息を呑んで見つめていた。人々が壁を穿ち、かつての境界線が無に帰していく。
「壁が、なくなったわね」
リヴィアの震える呟きに、キケロは深く頷いた。27年前、死を覚悟してあの壁を越えた青年と、祈り続けた母。二人は言葉を交わす代わりに、互いの手の温もりを確かめ合った。溢れる涙は、もはや誰も家族と引き裂かれることのない時代の到来を祝っていた。
1990年代。キケロはチューリッヒにその身を置いていた。
音楽活動は、燃え尽きる直前の炎のように、最期まで光を放ち続けた。ツアー、録音、幾度となく訪れた日本。しかし、身体はその情熱を支えきれなくなっていた。心臓の病。医師は厳格な休養を求めたが、キケロが鍵盤からその指を離すことはなかった。奏でることこそが、彼の生の証明であったからだ。
1997年12月5日。チューリッヒ。
オイゲン・キケロは、心臓発作で倒れた。57歳。早すぎる幕切れであった。音楽と共に歩み、音楽の中でその生涯を閉じた。葬儀には、彼の音に救われた多くの人々が参列し、息子ロジャーがその旅立ちを見送った。キケロのポケットには、あの銀の十字架が入っていた。35年間の放浪を見守り続け、再会した母から再び託された、赦しと祈りの証。彼はそれと共に、土へと還った。
訃報は、コペンハーゲンにも届いた。ニールスは言葉を失い、ただ一人ベースを抱えた。あのベルリンの三日間。一期一会の火花。彼はキケロを悼み、かつての共演曲を爪弾いた。弦の震えだけが、親友への秘めたる弔辞となった。
時は淀みなく流れ、世紀が変わった。ニールスの身体もまた、歳月という重みを背負い始めていた。2000年代初頭、彼は旅を控え、家族との安らかな暮らしを優先した。成人したアンナには子供が生まれ、ニールスは祖父となった。腕の中にある、小さな、命の拍動。その温もりこそが、彼が旅の果てに見つけた真実であった。
2005年。身体の自由はかつてほど利かなくなっていたが、最期まで弦を弾くことを止めなかった。
2005年4月19日。ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセンは、家族の看取りの中で息をひきとった。58歳。奇しくもキケロと同じように、60歳という節目を前にした旅立ちであった。
葬儀は、かつて父がオルガンを弾いたウーステッドの教会で執り行われた。世界中の音楽家たちが、その比類なき才能の喪失を嘆いた。
二人の生涯は、閃光のように短かった。しかし、それは何よりも濃密な、音楽という献身に捧げられた時間であった。
それぞれの道を歩んだ二人。だが、その底流には常に、あの三日間の残響があった。
1977年2月27日、28日、3月1日。ベルリン、クライネス・シアター。
三人が、孤独と自由を溶け合わせ、一つの音楽へと昇華させたあの奇跡を、彼らは生涯忘れなかった。




