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第四十一話 境界を越えた祈り

 1977年、秋。

 フランクフルト空港の到着ロビーは、いつもと変わらぬ日常の風景の中にあった。

 ビジネスバッグを提げて歩く人々、休暇に向かう家族連れ、そして案内放送の声。世界が滞りなく動いているその場所で、キケロはロジャーの手を強く握りしめ、ゲートの向こうを凝視していた。

 数ヶ月前、兄のアドリアンから「出国許可が降りた」という電報が届いた。

 震災で住まいを失った司祭テオドールと母リヴィアに対し、ルーマニア当局がついに人道的な理由での出国を認めたのだ。それは、かつて「国家の裏切り者」とされた息子の元へ、親が向かうことを許された瞬間でもあった。

「パパ、おじいちゃんたちはいつ来るの?」

 ロジャーの声に、キケロは「もうすぐだよ」とだけ答えた。胸が締め付けられ、それ以上の言葉が出なかった。

 やがて、到着ゲートの自動ドアが開いた。

 長旅で疲れ果て、古びたコートを着た数人の乗客に続いて、その夫婦は現れた。

 かつての威厳ある姿より一回り小さくなった、しかし凛とした眼差しを保っている父テオドール。そして、その腕を支えるように寄り添う母リヴィア。

 15年。

 クルジュの駅で別れてから、世界は、そして二人の髪の色はすっかり変わってしまった。

「……父さん」

 キケロの声は、人混みの中でかき消されそうなほど小さかった。

 しかし、テオドールはすぐに息子を見つけた。ゆっくりと、一歩一歩を噛みしめるような足取りでこちらへ歩いてくる。

 二人は、言葉もなく抱き合った。

 父の体からは、古い聖堂の匂いと、ルーマニアの土の匂いがした。

「オイゲン……。お前のピアノは、ブカレストにいても届いていたよ」

 父の低く、温かい声。それはかつて牢獄にいた男の言葉とは思えないほど、慈愛に満ちていた。

「ごめんなさい……。僕のせいで、父さんをあんな場所に」

 キケロが嗚咽とともに漏らすと、テオドールは息子の肩を強く叩いた。

「何を言う。お前が自由の空で奏でた音が、どれほど私を勇気づけてくれたか。私は一度も、お前を恨んだことなどない」

 母リヴィアも、涙を流しながらキケロの頬を撫でた。

「本当に立派になったわね、オイゲン。……そして、この子がロジャー?」

 キケロに促され、ロジャーが恥ずかしそうに前に出た。

「おじいちゃん、おばあちゃん、こんにちは。パパから、おじいちゃんは世界一心が強いって聞いてるよ」

 テオドールは膝をつき、初めて見る孫を抱きしめた。

「そうか、ロジャー。お前も、いつかパパのような美しい音楽を奏でるんだよ」

 その光景を、キケロは涙で霞む視界で見つめていた。

 鉄のカーテンも、独裁政権も、そして恐ろしい地震も、この家族の絆を断ち切ることはできなかった。

 その日の夜、ミュンヘンの自宅で。

 キケロは両親のために、自宅のピアノで一曲だけ弾いた。

 アルバム『For My Friends』の最後の一曲。

 和やかなリビングに響くその音は、もはや亡命者の孤独な叫びではなく、家族を守り抜いた男の、深い感謝の祈りだった。

 テオドールは目を閉じ、十字を切った。

 音楽は、ついに境界を越えたのだ。

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