第四十話 再会への旋律
1977年3月、春。
ルーマニアの大地震から数週間が過ぎた。
世界を揺るがしたニュースは徐々にメディアから消え、新しい出来事がそれを上書きしていく。
しかし、オイゲン・キケロにとっては、この数週間こそが人生で最も激しく時間が動いたときだった。
ミュンヘンの自宅。
キケロは机の前で便箋を広げていた。
母への手紙。15年という歳月を埋めるための、初めての言葉。
書きたいことは山ほどある。父が投獄されていたことを知った衝撃。自分がどれほど家族を思い、夜を越えてきたか。
しかし、ペン先が綴るのは、検閲を潜り抜け、かつ確実に家族へ希望を届けるための言葉だった。
「愛する母へ
無事だと聞いて、言葉にならないほどの安堵を感じています。
兄から聞きました。こちらへ来るための準備を始めているそうですね。
僕は今、その日が来ることを信じて、ミュンヘンで家を整えています。
父さんと母さんの部屋も、陽の光が入る場所に用意するつもりです。
どうか、希望を捨てずに待っていてください。
先日、ベルリンで録音したアルバムが『For My Friends』というタイトルで発売されます。
この収益はすべて、ルーマニアの被災者支援に回すことにしました。
僕にできるのは音楽だけですが、その音が壁を越え、いつか二人の耳に届くことを願っています。
次に会うときは、僕のピアノを直接聴いてほしい。
愛を込めて。オイゲンより」
キケロは手紙を封筒に入れ、銀の十字架のペンダントを一度握りしめてから、それを机に置いた。
明日、この手紙は鉄のカーテンを越えてブカレストへ向かう。
「パパ!」
玄関が開く音とともに、7歳のロジャーが駆け込んできた。
「おかえり、ロジャー」
「パパ、今日ね、学校で言われたよ。『君のおじいちゃんとおばあちゃん、こっちに来るかもしれないんだって?』って。本当なの?」
キケロはロジャーの頭を優しく撫でた。これまでは「遠くに住んでいるから会えない」としか言えなかった。だが、今は違う。
「ああ。本当だよ。パパもさっき、おばあちゃんにお手紙を書いたところだ」
「わあ! 僕、会ったらピアノ弾いてあげたいな」
「そうか。じゃあ、練習しないとな」
二人はピアノの前に並んで座った。
ロジャーの小さな指が鍵盤を叩く。ド、レ、ミ。
キケロはその隣で、かつて母が口ずさんでいたルーマニアの民謡をそっと添えた。
かつては孤独を紛らわせるための調べだったものが、今は再会を祝うための予行演習のように響いた。
夜、ロジャーが眠りについた後。
キケロは届いたばかりの『For My Friends』のレコードをプレーヤーに乗せた。
針を落とすと、ベルリンのあの三日間の熱気が部屋に満ちる。
ニールスの力強いベース、インザラコの躍動するドラムス。
三人が笑い合いながら、自由に、境界を越えて音を交わした奇跡の記録。
「この音を、父さんに聴かせたい……」
自由のために戦い、沈黙を守り抜いた父。
その父が、間もなくこのミュンヘンの土を踏むかもしれない。
震災という悲劇が、皮肉にも政治の分厚い壁を揺るがし、人道支援という名の光を差し込ませていた。
5月になると、アルバムへの反響はさらに大きくなった。
音楽プロデューサーのベーレントから、興奮した声で電話が入る。
「オイゲン、大変なことになっているぞ! 評論家たちが『これはジャズとクラシックの真の融合だ』と絶賛している。何より、収益による義援金がルーマニアへ送られ始めた。君の音楽が、実際に人を救い始めているんだ」
「ありがとうございます。……でも、僕が一番救われているのかもしれません」
電話を切った後、キケロは窓の外を見た。
ミュンヘンの街には初夏の風が吹き、雪解けの季節は完全に終わっていた。
孤独な亡命ピアニストとしての旅は、もうすぐ終わろうとしている。
これからは、自分を支えてくれた友人たち、そしてようやく再会を果たす家族とともに歩む、新しい人生の楽章が始まるのだ。
キケロは再びピアノに向かった。
その指先から零れる音は、もはや祈りだけではなかった。
それは、確信に満ちた「喜び」の調べだった。




