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第三十九話 電話

 1977年3月5日、午前10時。

 ミュンヘン、キケロの自宅。

 電話が、鳴った。

 ルーマニアで大地震が起きたというニュースが飛び込んできてから、キケロは一睡もしていなかった。半年前に届いた手紙では、家族はブカレストに住んでいると書かれていたが、それ以上の詳細はわからなかった。

 震える手で受話器を掴む。

「もしもし」

「……オイゲンか」

 雑音の向こうから聞こえたのは、懐かしく、ひどくかすれたルーマニア語だった。

「アドリアン……! 兄さんなのか? 生きているのか!」

「ああ、無事だ。……父さんも母さんも、全員なんとか生きている」

 キケロはその場に崩れ落ちた。受話器を握りしめたまま、言葉にならない嗚咽が漏れる。

「そうか……みんな、無事なんだな……」

 安堵に震えるキケロの声に対し、アドリアンのトーンは重かった。

「ああ。ブカレストの家はめちゃくちゃになったが、命だけは助かった。……オイゲン、半年前の手紙には書けなかったことがある。検閲の目があったからな。……実は、父さんのことだ」

「父さんが……どうしたんだ」

「お前が亡命した直後、父さんは当局に連行された。司祭の身分を剥奪され、長い間、牢獄に入れられていたんだ」

 キケロは絶句した。自分が自由を謳歌していた裏側で、信仰深い父が投獄されていた。

「なぜ……。父さんは今、どこにいる」

「今は釈放されて俺と一緒にいる。地震で家を失い、今は行く当てもないが、怪我はない。……オイゲン、皮肉な話だが、この地震ですべてを失ったことが、出国許可を得るための理由になるかもしれない」

「……どういうことだ? あそこを出るのは、そんなに簡単なことじゃないだろう」

「ああ。だが、家を失った老夫婦を養う余力は今の国にはない。住む場所も職もない年老いた元司祭を抱え込むより、西側の息子に引き取らせる方が、当局にとっても管理の負担が減るという計算が働くはずだ。赤十字を通じた人道支援という名目なら、あの壁に穴が開く可能性がある。今、その申請を出す準備をしているんだ」

 キケロは息を呑んだ。信じられなかった。あれほどまでに厚く、冷たい壁が、震災という悲劇によって揺らいでいる。

「そんなことが……本当に、そんなことが起こり得るのか? 夢じゃないんだな、アドリアン……。父さんに、母さんに……また会えるのか? ああ……信じられない! 素晴らしいよ。震えて、言葉が出ない……。待っている。何があっても、何年かかっても、僕はここで二人を抱きしめる準備をして待っているよ!」

 兄との電話が切れて間もなく、再びベルが鳴った。

「もしもし」

「オイゲンか、ニールスだ」

 コペンハーゲンからの、ニールス・ペデルセンの声だった。

「ニールス……」

「ニュースを見たよ。ルーマニアの震災はひどい状況だ。君の家族は……ご両親はどうなんだ」

「さっき、兄から連絡があった。全員、無事だったよ。……家は失ったようだが、生きていた。それに、近いうちに彼らをこちらへ呼べるかもしれない」

「本当か? だが、ルーマニアの出国制限は相当厳しいはずだろう」

「ああ。だが、地震で住む家を失ったことが『人道的な理由』として認められる可能性があるんだ。国が面倒を見きれない避難民を、西側の身内が引き受けるという形なら、出国許可が降りるかもしれないと兄が言っていた」

「なるほど……。震災が、皮肉にも家族を繋ぐための出口になるということか。よかった……本当によかった。ずっと気になっていたんだ」

 電話を切った後、キケロはしばらく床に座り込んでいた。

 夕方、息子のロジャーがピアノの部屋に入ってきた。

「パパ、どうしたの? 泣いてるの?」

 キケロはロジャーを力強く抱き寄せた。

「いいや、ロジャー。嬉しい知らせがあったんだ。もうすぐ、おじいちゃんとおばあちゃんに会えるかもしれない」

「おじいちゃん? ルーマニアの?」

「ああ。世界一、心の強いおじいちゃんだよ」

 キケロはゆっくりと立ち上がり、ピアノの蓋を開けた。

 鍵盤に置いた指先に、これまでとは違う重みと覚悟が宿っていた。

 制作が決まっているアルバム『For My Friends』。

 これは、自分を支えてくれた友人たちのためのものであり、そして、長い沈黙と弾圧に耐え抜いた父に、自分の「自由」を届けるための音楽になるはずだった。

 キケロは静かに音を紡ぎ始めた。

 その旋律は、ミュンヘンの夜空を越え、遠くブカレストの星空へと繋がっていた。

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