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第三十八話 地震

 1977年3月4日、午後9時。

 ミュンヘン。

 オイゲン・キケロの自宅。

 リビングは、もの寂しさが満ちていた。

 暖炉に火が灯っている。

 しかし、温かくない。

 キケロは、ソファに座っていた。

 グラスを手に。

 ウイスキー。

 一口、飲む。

 喉が、焼ける。

 しかし、心は冷たいままだった。

 ベルリンから戻って、三日。

 あの三日間の余韻は、まだ残っていた。

 しかし、現実は冷たかった。

 妻、アンジェリーカは、寝室にいる。

 早く寝た。

 いや、キケロを避けたのだろう。

 最近、二人は会話をしていない。

 必要最低限の言葉だけ。

「夕食は?」

「いらない」

「ロジャーは?」

「もう寝た」

 それだけ。

 息子、ロジャーだけが、救いだった。

 7歳。

 無邪気な笑顔。

 ピアノを弾く父を、尊敬している。

 しかし、ロジャーももう寝ている。

 キケロは、一人だった。

 ウイスキーを、もう一口。

 グラスが、空になった。

 立ち上がる。

 ボトルを取る。

 また、注ぐ。

 座る。

 飲む。

 この繰り返し。

 ベルリンから戻ってから、毎晩こうだった。

 酒を飲む。

 一人で。

 暖炉の前で。

 何も考えずに。

 しかし、頭の中では、音楽が鳴り続けていた。

 ニールスのベース。

 インザラコのドラムス。

 そして、自分のピアノ。

 三人の音楽。

 あれは、何だったのだろう。

 奇跡だったのか。

 それとも、ただの幻だったのか。

 午後9時20分。

 キケロは、テレビをつけた。

 ニュースを見るつもりはなかった。

 ただ、静寂が耐えられなかった。

 画面が、明るくなった。

 ニュースキャスターが、何かを話している。

 キケロは、聞いていなかった。

 ただ、グラスを傾けている。

 しかし、次の瞬間。

 画面が、変わった。

 速報。

 赤い文字。

 「Erdbeben in Rumänien」

 ルーマニアで地震。

 キケロの手が、止まった。

 グラスを、テーブルに置いた。

 画面を見た。

 ニュースキャスターが、話している。

「本日午後9時22分、ルーマニアのヴランチャ地方でマグニチュード7.2の大地震が発生しました」

 キケロの心臓が、止まった。

 画面が、切り替わった。

 ブカレストの映像。

 建物が、崩壊している。

 煙が、上がっている。

 人々が、走っている。

 叫んでいる。

 瓦礫の下に、人がいる。

 キケロは、立ち上がった。

 テレビに、近づいた。

 画面を、食い入るように見た。

 ニュースキャスターが、続ける。

「首都ブカレストで、多数の建物が倒壊。死傷者の数は、まだ不明です」

 映像が、流れる。

 崩れたアパート。

 割れた窓。

 散乱した瓦礫。

 泣き叫ぶ人々。

 これは、悪夢か。

 キケロは、自分の頬を叩いた。

 痛い。

 これは、現実だ。

 「被害は、ブカレストだけでなく、ルーマニア全土に及んでいます」

 キケロの頭が、真っ白になった。

 母。

 リヴィア。

 彼女は、ブカレストにいる。

 いや、クルジュかもしれない。

 最後の手紙では、ブカレストと書いてあった。

 いつの手紙だ。

 半年前か。

 それとも、一年前か。

 わからない。

 兄。

 アドリアン。

 彼は、どこにいる。

 クルジュか。

 それとも、別の街か。

 わからない。

 何もわからない。

 キケロは、電話に駆け寄った。

 受話器を取った。

 震える手で、ダイヤルを回す。

 国際電話。

 ルーマニア。

 ブカレスト。

 母の番号。

 覚えている。

 15年前の番号。

 変わっていないはずだ。

 呼び出し音。

 ツー、ツー、ツー。

 繋がらない。

 もう一度、ダイヤル。

 ツー、ツー、ツー。

 繋がらない。

 キケロは、受話器を叩きつけた。

 机を、拳で叩いた。

 痛い。

 しかし、心の痛みに比べれば、何でもない。

 テレビに戻った。

 画面には、まだブカレストの映像が流れている。

 救急車。

 消防車。

 人々が、瓦礫を掘っている。

 誰かを、探している。

 生存者を。

 しかし、見つかるのは、遺体ばかり。

 ニュースキャスターが、言う。

「死者は、1000人を超える見込みです」

 1000人。

 その中に、母がいるのか。

 兄がいるのか。

 わからない。

 キケロは、ソファに崩れ落ちた。

 頭を抱えた。

 涙が、溢れた。

 止まらない。

 15年間、故郷を離れていた。

 母に会えなかった。

 兄に会えなかった。

 亡命者として。

 裏切り者として。

 そして、今。

 故郷が、崩壊している。

 家族が、どうなったのか、わからない。

 何もできない。

 ただ、ここで、テレビを見ているだけ。

 時間が、過ぎた。

 午後10時。

 11時。

 深夜0時。

 キケロは、ずっとテレビの前にいた。

 ニュースが、繰り返される。

 同じ映像。

 同じ言葉。

「ルーマニア大地震」

「ブカレスト壊滅」

「死者1500人以上」

 数字が、増えていく。

 しかし、それは数字ではない。

 人間だ。

 生きていた人間だ。

 母かもしれない。

 兄かもしれない。

 友人かもしれない。

 深夜1時。

 アンジェリーカが、リビングに降りてきた。

 寝間着姿。

 キケロを見た。

 テレビを見た。

 そして、理解した。

「オイゲン...」

 キケロは、振り返った。

 顔は、涙で濡れていた。

 目は、赤く腫れていた。

「ルーマニアで、地震が」キケロの声は、震えていた。「ブカレストが...」

 アンジェリーカは、何も言わなかった。

 ただ、キケロの隣に座った。

 そして、そっと肩に手を置いた。

 久しぶりの、温もり。

 キケロは、アンジェリーカに寄りかかった。

 そして、泣いた。

 声を上げて、泣いた。

 アンジェリーカは、黙って抱きしめた。

 深夜2時。

 キケロは、ピアノの前に座っていた。

 アンジェリーカは、寝室に戻っていた。

 キケロは、一人。

 鍵盤に、手を置いた。

 しかし、弾けなかった。

 指が、動かない。

 心が、空っぽだった。

 ただ、母の顔が浮かんだ。

 リヴィア。

 オペラ歌手。

 美しい声。

 優しい笑顔。

 最後に会ったのは、いつだったか。

 1962年2月。

 15年前。

 亡命する前。

 母は、言った。

「行きなさい。自由を掴みなさい」

 そして、十字架のペンダントをくれた。

「これを持っていきなさい。いつも、あなたを守ってくれる」

 キケロは、ポケットからペンダントを取り出した。

 小さな、銀の十字架。

 15年間、持ち歩いている。

 母の、最後の贈り物。

 キケロは、それを握りしめた。

 そして、囁いた。

「母さん、生きていてくれ」

 翌朝。

 1977年3月5日。

 キケロは、ソファで眠っていた。

 いや、眠ったというより、気を失っていた。

 疲労と、悲しみで。

 朝日が、窓から差し込んできた。

 テレビは、まだついている。

 ニュースが、流れている。

「ルーマニア大地震、死者1500人以上」

「ブカレスト、歴史的建造物多数崩壊」

「国際社会、支援を表明」

 キケロは、目を覚ました。

 体が、重い。

 頭が、痛い。

 しかし、心はもっと痛い。

 電話が、鳴った。

 キケロは、飛び起きた。

 受話器を取った。

「もしもし」

「オイゲン、ヨアヒム・ベーレントだ」

 ベーレント。

 プロデューサー。

「ベーレントさん」

「ニュースを見た」ベーレントの声は、重かった。「ルーマニアの地震」

「ええ」

「お母さんは?」

「わからない」キケロは答えた。「電話が、繋がらない」

 「一一一」。

 それから、ベーレントが言った。

「オイゲン、あのベルリンの録音を、アルバムにする」

「はい」

「タイトルは、お前が言った通り『For My Friends』」ベーレントは続けた。「しかし、今、それは別の意味を持つ」

 キケロは、黙っていた。

「このアルバムを、ルーマニア被災者支援のために出す」ベーレントは言った。「収益は、すべて支援に回す」

 キケロの目から、涙が溢れた。

「ありがとう」キケロは囁いた。

「友人のために」ベーレントは言った。「お前の、故郷の友人のために」

 電話が、切れた。

 キケロは、受話器を握りしめたまま、泣いていた。

 『For My Friends』。

 友人たちのために。

 三日前、ベルリンで弾いた音楽。

 あの時、キケロは知らなかった。

 三日後に、故郷が崩壊することを。

 そして、この録音が、別の意味を持つことを。

 支援のアルバムとして。

 祈りのアルバムとして。

 しかし、今は、それしかできない。

 音楽で、故郷を支える。

 音楽で、友人たちを支える。

 それが、キケロにできる、唯一のことだった。

 キケロは、ピアノの前に座った。

 鍵盤に、手を置いた。

 そして、弾き始めた。

 ルーマニアの民謡。

 母が、歌っていた歌。

 ベルリンで、弾いた歌。

 しかし、今は違った。

 祈りだった。

 母への祈り。

 兄への祈り。

 故郷への祈り。

 すべての友人たちへの、祈り。

 音楽だけが、壁を越える。

 音楽だけが、国境を越える。

 音楽だけが、届く。

 キケロは、そう信じて、弾き続けた。

 涙を流しながら。




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