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第三十七話 帰郷

 1977年3月2日、午後2時。

 テーゲル空港。

 ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセンは、搭乗ゲートの前に座っていた。

 ベースケースを横に置いて。

 コペンハーゲン行きの便まで、あと30分。

 彼は、ポケットから写真を取り出した。

 娘、アンナの写真。

 笑顔。

 金髪。

 青い目。

 6歳。

 もうすぐ、会える。

 ニールスは、微笑んだ。

 三日間、家を空けていた。

 長くはない。

 しかし、アンナにとっては、長かっただろう。

 毎晩、電話をした。

「パパ、いつ帰ってくる?」

「もうすぐだよ」

「何か、お土産ある?」

「もちろん」

 アンナの声を聴くと、心が温かくなった。

 家族。

 帰る場所。

 それが、ニールスの支えだった。

 しかし、今は、まだベルリンの余韻が残っていた。

 三日間の音楽。

 オイゲン・キケロ。

 トニー・インザラコ。

 三人で作った、あの音楽。

 あれは、何だったのだろう。

 言葉にできない。

 しかし、生々しい熱を持ってそこに息づいていた。

 ニールスは、目を閉じた。

 頭の中で、まだ音楽が鳴っている。

 キケロのピアノ。

 トリルが、きらめく。

 装飾音が、踊る。

 そして、自分のベース。

 低音が、響く。

 大地を歩く。

 インザラコのドラムス。

 リズムを刻む。

 三人が、一つになる。

 搭乗のアナウンスが流れた。

 ニールスは、立ち上がった。

 ベースケースを肩にかけた。

 重い。

 しかし、慣れている。

 この重さが、ニールスの人生だった。

 ゲートを通った。

 飛行機に乗り込んだ。

 窓際の席。

 ベースケースは、頭上の棚に入らない。

 いつものことだ。

 客室乗務員が、特別な場所に置いてくれた。

 ニールスは、席に座った。

 シートベルトを締めた。

 そして、窓の外を見た。

 ベルリン。

 灰色の街。

 壁のある街。

 しかし、音楽に壁はなかった。

 キケロは、15年前、この街で自由になった。

 そして、今、音楽の自由を手に入れた。

 ニールスは、それを助けた。

 いや、助けたというより、一緒に旅をした。

 音楽の旅を。

 飛行機が、動き出した。

 滑走路へ。

 エンジンの音が、大きくなる。

 加速。

 そして、浮き上がった。

 ベルリンの街が、遠ざかる。

 小さくなる。

 そして、雲の中に入った。

 白い世界。

 何も見えない。

 ニールスは、目を閉じた。

 しばらくして、雲を抜けた。

 青い空。

 太陽の光。

 眩しい。

 ニールスは、目を開けた。

 窓の外を見た。

 下には、雲の海。

 白い波。

 その上を、飛んでいる。

 自由。

 ニールスは、深呼吸した。

 音楽家は、自由だ。

 国境を越える。

 言語を越える。

 文化を越える。

 しかし、同時に、孤独でもある。

 いつも、旅をしている。

 いつも、家を離れている。

 キケロは、それを知っている。

 彼には、帰る場所がない。

 故郷は、壁の向こう。

 家庭は、冷たい。

 音楽だけが、彼の居場所。

 ニールスは、幸運だった。

 家族がいる。

 帰る場所がある。

 ソルヴェイグ。

 アンナ。

 温かい家。

 午後4時。

 コペンハーゲン、カストロップ空港。

 飛行機が、着陸した。

 ニールスは、ベースケースを受け取った。

 空港を出た。

 冷たい空気。

 しかし、ベルリンよりは温かい気がする。

 故郷の空気。

 タクシー乗り場へ。

 しかし、その前に。

 誰かが、手を振っていた。

 ソルヴェイグ。

 そして、アンナ。

 ニールスの心臓が、跳ねた。

 迎えに来てくれた。

 アンナが、走ってきた。

「パパ!」

 ニールスは、ベースケースを置いた。

 そして、アンナを抱き上げた。

「ただいま、アンナ」

「おかえり!」

 小さな体。

 温かい。

 柔らかい。

 生きている。

 ニールスは、アンナを抱きしめた。

 強く。

 そして、優しく。

 ソルヴェイグが、近づいてきた。

 微笑んでいる。

「おかえりなさい」

「ただいま」

 二人は、抱擁した。

 短く。

 しかし、深く。

 車で、家へ。

 ソルヴェイグが、運転している。

 ニールスは、後部座席。

 アンナが、隣に座っている。

 ニールスの手を握っている。

「パパ、お土産は?」

「ああ、ある」

 ニールスは、カバンから小さな箱を取り出した。

 ベルリンで買った、チョコレート。

「わあ!」

 アンナの目が、輝いた。

「ありがとう、パパ!」

 ニールスは、微笑んだ。

 この笑顔のために、自分は生きている。

 音楽も、大切だ。

 しかし、家族は、もっと大切だ。

 ソルヴェイグが、尋ねた。

「ベルリンは、どうだった?」

「素晴らしかった」ニールスは答えた。

「録音は、うまくいった?」

「ああ。信じられないくらい、うまくいった」

「キケロは?」

「...孤独だった」

 ソルヴェイグは、バックミラー越しにニールスを見た。

「孤独?」

「ああ」ニールスは頷いた。「彼には、帰る場所がない」

 ソルヴェイグは、何も言わなかった。

 ただ、運転を続けた。

 家に着いた。

 コペンハーゲン郊外。

 小さな、しかし温かい家。

 庭には、雪が積もっている。

 ニールスは、ベースケースを持って、家に入った。

 玄関の匂い。

 木の匂い。

 家の匂い。

 ニールスは、深呼吸した。

 帰ってきた。

 夕食。

 テーブルに、三人が座っている。

 ソルヴェイグが作った、ポークロースト。

 じゃがいも。

 グレービーソース。

 シンプルな、デンマークの料理。

 しかし、美味しい。

 アンナが、話し続けている。

 学校でのこと。

 友達のこと。

 先生のこと。

 ニールスは、黙って聞いていた。

 微笑みながら。

 この日常。

 この温もり。

 これが、自分の居場所。

 夕食後。

 アンナは、ベッドに入った。

 ニールスが、本を読んであげた。

 アンデルセンの童話。

「みにくいアヒルの子」。

 アンナは、すぐに眠った。

 穏やかな寝息。

 ニールスは、アンナの額にキスをした。

 そして、部屋を出た。

 リビング。

 ソルヴェイグが、ソファに座っていた。

 紅茶を飲んでいる。

 ニールスは、隣に座った。

 ソルヴェイグが、尋ねた。

「本当に、どうだった?ベルリンは」

 ニールスは、考えた。

 そして、答えた。

「人生で、最高の三日間だった」

「音楽が?」

「ああ。でも、それだけじゃない」

「何?」

「キケロと出会えた。彼は...俺と真逆の音楽家だ」

「真逆?」

「ああ。俺は、自由に弾く。即興で。感じるままに」ニールスは続けた。「でも、キケロは違う。クラシックの伝統を守る。構造を重視する。しかし、その中で、自由を求めている」

「矛盾してるわね」

「そうだ。でも、その矛盾が、美しかった」

 ソルヴェイグは、紅茶を飲んだ。

「彼には、家族がいるの?」

「いる。妻と息子」ニールスは答えた。「でも、うまくいっていない」

「それは...辛いわね」

「ああ」

 沈黙。

 二人は、黙っていた。

 暖炉の火が、パチパチと音を立てている。

 温かい。

 ニールスは、ソルヴェイグの手を取った。

「ありがとう」

「何が?」

「ここにいてくれて。アンナを育ててくれて」

 ソルヴェイグは、微笑んだ。

「当たり前でしょう。あなたは、私の夫よ」

「でも、俺はいつも旅をしている。家を空けている」

「それが、あなたの仕事」ソルヴェイグは言った。「音楽家は、旅をする。それを、私は知ってる」

 ニールスは、ソルヴェイグを抱きしめた。

 この女性と結婚して、良かった。

 この家族を持てて、良かった。

 深夜。

 ニールスは、地下室にいた。

 ベースを持って。

 練習室。

 防音されている。

 ここで、夜中でも弾ける。

 ニールスは、ベースを構えた。

 そして、弾き始めた。

 「All day All night」。

 ベルリンで弾いた曲。

 しかし、一人で弾くと、違う。

 寂しい。

 キケロのピアノがない。

 インザラコのドラムスがない。

 ただ、ベースだけ。

 低音が、部屋に響く。

 ニールスは、目を閉じた。

 頭の中で、キケロのピアノが鳴っている。

 トリルが、きらめく。

 装飾音が、踊る。

 そして、インザラコのドラムス。

 リズムを刻む。

 三人が、一つになる。

 しかし、それは幻だった。

 今、ここにいるのは、ニールス一人。

 彼は、ベースを止めた。

 深呼吸した。

 そして、思った。

 キケロには、これがないんだ。

 帰る場所が。

 温かい家が。

 待っている家族が。

 彼には、音楽しかない。

 ピアノしかない。

 それは、自由なのか。

 それとも、孤独なのか。

 ニールスには、わからなかった。

 ベースを、ケースに戻した。

 そして、階段を上がった。

 リビングを通り、寝室へ。

 ソルヴェイグは、もう寝ていた。

 穏やかな寝息。

 ニールスは、そっとベッドに入った。

 妻の横に。

 温かい。

 安心する。

 目を閉じた。

 しかし、眠れなかった。

 頭の中で、まだ音楽が鳴っていた。

 ベルリンの音楽が。

 そして、キケロの孤独が。

 ニールスは、知らなかった。

 三日後に、何が起きるのかを。

 キケロの故郷が、揺れることを。

 大地が、裂けることを。

 ブカレストが、崩壊することを。

 そして、キケロがどれほど苦しむのかを。

 今は、まだ知らない。

 今は、ただ、温かいベッドの中にいる。

 妻の横で。

 家族と共に。

 しかし、心の中では、思っていた。

 キケロ。

 お前は、大丈夫か。

 一人で、耐えられるか。

 音楽だけで、生きていけるか。

 窓の外では、雪が降り始めていた。

 静かな、コペンハーゲンの夜。

 ニールスは、ゆっくりと眠りに落ちていった。

 しかし、夢の中でも、音楽が鳴り続けていた。

 ベルリンの、あの三日間の、音楽が。





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