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第三十六話 別れ

 1977年3月2日、朝。

 オイゲン・キケロは、ホテルの部屋で荷造りをしていた。

 スーツケースに、衣類を詰める。

 楽譜を重ねる。

 母からもらった十字架のペンダントを、小さなケースに入れる。

 すべてが、いつもの作業だった。

 ツアーの終わり。

 ホテルをチェックアウトする。

 次の街へ移動する。

 いつものこと。

 しかし、今朝は違った。

 何かが、終わった気がする。

 大きな何かが。

 窓の外を見た。

 ベルリンの朝。

 雪が、やんでいた。

 空は、灰色。

 しかし、どこか明るい。

 遠くに、壁が見えた。

 灰色のコンクリート。

 この街を、分断している。

 しかし、昨夜、音楽に壁はなかった。

 三人が、一つになった。

 国境も、言語も、すべてを超えて。

 キケロは、深呼吸した。

 そして、スーツケースを閉めた。

 午前10時。

 クライネス・シアター。

 楽屋。

 キケロが、最後の荷物を持って入ると、ニールスとインザラコがすでにいた。

 二人とも、旅支度を終えている。

 ニールスは、ベースケースを肩にかけていた。

 インザラコは、スティックバッグを手に持っていた。

「おはよう」ニールスが声をかけた。

「おはよう」キケロは答えた。

 三人は、顔を見合わせた。

 そして、微笑んだ。

 言葉はいらなかった。

 昨夜のことは、すべて音楽で語った。

 今さら、言葉で説明する必要はない。

 ベーレントが、入ってきた。

 手に、テープを持っていた。

 録音テープ。

 三日間の、すべてが入っている。

「これを聴いた」ベーレントは言った。「信じられない」

 三人は、黙っていた。

「特に、昨夜」ベーレントは続けた。「最後の『sunny』。あれは、奇跡だ」

「本当ですか」キケロが尋ねた。

「ああ」ベーレントは頷いた。「三日間で、お前たちは変わった。初日は、探り合いだった。二日目は、対話だった。そして三日目は...」

 ベーレントは、言葉を探した。

「一つになった」ニールスが言った。

「そうだ」ベーレントは微笑んだ。「一つになった」

 沈黙。

 四人は、黙っていた。

 楽屋の時計が、時を刻んでいる。

 もうすぐ、別れの時間。

 ベーレントが、口を開いた。

「オイゲン、このアルバムのタイトルを決めたい」

「タイトル?」

「ああ。何がいい?」

 キケロは、考えた。

 窓の外を見た。

 ベルリンの街。

 壁のある街。

 しかし、音楽に壁はなかった。

「『For My Friends』」キケロは囁いた。

「友人たちのために?」

「ああ」キケロは頷いた。「故郷の友人たちへ。ここにいる友人たちへ。すべての友人たちへ」

 ニールスは、キケロを見た。

 そして、微笑んだ。

「いいタイトルだ」

 インザラコも、頷いた。

「賛成だ」

 ベーレントは、メモを取った。

「『For My Friends』。決まりだ」

 午前11時。

 劇場の外。

 タクシーが、二台待っていた。

 一台は、テーゲル空港行き。ニールス用。

 もう一台は、中央駅行き。キケロとインザラコ用。

 三人は、劇場の前に立っていた。

 荷物を持って。

 別れの時。

 ニールスが、最初に口を開いた。

「オイゲン、ありがとう」

「こちらこそ」キケロは答えた。「お前のおかげで、俺は自由になれた」

「自由?」

「ああ」キケロは頷いた。「音楽の檻から、出られた。お前が、扉を開けてくれた」

 ニールスは、首を振った。

「いや。扉は、お前自身が開けたんだ。俺は、ただそばにいただけだ」

 二人は、握手をした。

 強く。

 長く。

 そして、離した。

 インザラコが、二人に声をかけた。

「また、やろうぜ」

「ああ」ニールスは答えた。「いつか」

「いつか」キケロも繰り返した。

 しかし、三人とも知っていた。

 おそらく、もう二度と、この三人は集まらない。

 人生は、そういうものだ。

 一度きりの出会い。

 一度きりの奇跡。

 それを、大切にするしかない。

 ニールスが、タクシーに乗り込んだ。

 窓を開けた。

 最後に、キケロを見た。

「オイゲン、故郷に帰れる日が来る」

 キケロは、何も言わなかった。

 ただ、頷いた。

 目が、潤んでいた。

 タクシーが、走り出した。

 キケロとインザラコは、手を振った。

 ニールスも、窓から手を振った。

 タクシーが、角を曲がった。

 見えなくなった。

 キケロは、手を下ろした。

 深呼吸をした。

 そして、インザラコを見た。

「俺たちも、行くか」

「ああ」

 二人は、もう一台のタクシーに乗り込んだ。

 中央駅へ。

 キケロは、ミュンヘン行きの列車に乗る。

 インザラコは、チューリッヒ行き。

 タクシーが、走り出した。

 キケロは、窓の外を見た。

 ベルリンの街が、流れていく。

 石畳の道。

 古い建物。

 そして、遠くに見える壁。

 15年前、この街で自由になった。

 そして、今、この街で音楽の自由を手に入れた。

 ベルリン。

 この街は、キケロにとって特別な場所だった。

 中央駅。

 二人は、タクシーを降りた。

 プラットフォームに向かった。

 インザラコの列車が、先に出発する。

 15分後。

 二人は、ホームで待った。

 列車が、入ってきた。

 チューリッヒ行き。

 インザラコが、キケロに手を差し出した。

「オイゲン、良い三日間だった」

「ああ」キケロは握手した。「俺の人生で、最高の三日間だった」

「また、どこかで」

「ああ。また、どこかで」

 インザラコが、列車に乗り込んだ。

 窓から、手を振った。

 キケロも、手を振った。

 汽笛が鳴った。

 列車が、動き出した。

 徐々に、速くなる。

 そして、見えなくなった。

 キケロは、一人、ホームに残された。

 次の列車まで、30分。

 キケロは、ホームのベンチに座った。

 カバンから、母の十字架のペンダントを取り出した。

 手のひらに乗せた。

 小さな、銀の十字架。

 15年間、持ち歩いている。

 母、リヴィア。

 今、どこにいるのか。

 元気でいるのか。

 わからない。

 しかし、音楽で繋がっている。

 昨夜、ルーマニアの民謡を弾いた。

 母が歌っていた歌を。

 それが、届いただろうか。

 壁を越えて。

 国境を越えて。

 故郷に。

 キケロは、ペンダントを握りしめた。

 そして、囁いた。

「母さん、俺は元気です」

 列車が、入ってきた。

 ミュンヘン行き。

 キケロは、立ち上がった。

 ペンダントをポケットに入れた。

 カバンを持った。

 そして、列車に乗り込んだ。

 車窓から、ベルリンの街が遠ざかっていく。

 建物が、小さくなる。

 そして、見えなくなる。

 キケロは、座席に深く座った。

 目を閉じた。

 しかし、興奮は冷めやまなかった。

 頭の中で、まだ音楽が鳴っていた。

 ニールスのベース。

 インザラコのドラムス。

 そして、自分のピアノ。

 三人の音楽。

 三日間の奇跡。

 それは、もう終わった。

 しかし、録音されている。

 テープに。

 そして、いつか、アルバムになる。

 『For My Friends』。

 友人たちのために。

 列車は、走り続けた。

 ベルリンから、南へ。

 ミュンヘンへ。

 キケロの家へ。

 しかし、その家に、温もりはあるだろうか。

 妻、アンジェリーカとの距離。

 冷たい会話。

 沈黙の食卓。

 息子、ロジャーだけが、救いだった。

 キケロは、窓の外を見た。

 ドイツの冬の風景。

 白い雪。

 灰色の空。

 そして、遠くに見える森。

 彼は、知らなかった。

 三日後に、何が起きるのかを。

 故郷が、揺れることを。

 大地が、裂けることを。

 ブカレストが、崩壊することを。

 母が、無事なのかどうか、わからなくなることを。

 そして、このアルバム『For My Friends』が、別の意味を持つようになることを。

 ルーマニア被災者支援のアルバムとして。

 今は、まだ知らない。

 今は、ただ、列車に揺られている。

 ベルリンから、遠ざかりながら。

 しかし、心の中には、まだ音楽が鳴っている。

 三日間の、音楽が。


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