第三十五話 最終夜
1977年3月1日。
三日目の夜。
ベルリンの空気は、乾いていた。
昼の冷気が、まだ石畳に残っている。
クライネス・シアターの前には、人だかりができていた。
チケットを持っていない者たちが、諦めきれずに立っている。
中に入れる者たちは、幸運だった。
劇場の中は、すでに満席だった。
100の椅子。
すべて埋まっている。
立ち見の者もいる。
壁際に、肩を寄せ合って。
観客のざわめきは、前の二日より明らかに違う。
期待。
興奮。
緊張。
人々は、もう知っているのだ。
今夜もまた、奇妙なことが起きる。
クラシックが、途中からジャズになる。
あの演奏が。
あの奇跡が。
客席の中央。
ヴェルナー・シュミットは、座っていた。
プログラムを開いている。
しかし、もう曲順など意味がないことを、彼は知っている。
この三人は、書かれた音符など守らない。
音楽は、舞台の上で、その瞬間に生まれる。
予測できない。
制御できない。
しかし、美しい。
隣には、今夜もクラウス・メイヤー。
二人とも、黙っていた。
言葉はいらなかった。
ただ、待つ。
音楽が始まるのを。
午後8時。
照明が落ちた。
ざわめきが、止まった。
期待の静寂。
ステージに、スポットライトが当たった。
三つの椅子。
ピアノ。
ベース。
ドラムス。
そして、三人が入ってきた。
オイゲン・キケロ。
ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセン。
トニー・インザラコ。
拍手。
しかし、すぐに止んだ。
観客は、息を呑んで待っている。
キケロは、吸い込まれるようにピアノの前へ座った。
挨拶はない。
頭を下げることもない。
ただ、鍵盤に向かう。
そして、指を置く。
深呼吸。
一瞬の沈黙。
それから。
最初の音。
驚くほど、小さかった。
まるで、水滴が落ちたような音。
高音域の、C。
ピアニッシモ。
透明な音。
それが、静寂の中に落ちた。
次の音。
E♭。
そして、G。
音が、階段を上っていく。
速く。
軽く。
光の粒のように。
ヴェルナーは、心の中で頷いた。
C.P.E.バッハ。
「Solfeggietto in C minor」。
均等な十六分音符が、流れ出す。
正確だ。
バロックの、機械的な美しさ。
学生の練習曲のような作品。
しかし、ピアニストの技術は隠せない。
キケロの指が、鍵盤の上で走る。
音が、光の粒のように転がる。
きらめく。
跳ねる。
客席は、息を飲んでいた。
しかし、30秒ほどしたとき。
低い音。
ドン。
ヴェルナーの足元の床が、わずかに震えた。
彼は、視線を上げた。
舞台を見る。
ニールスの右手が、弦を引いていた。
ベースが入ったのだ。
その瞬間。
音楽の形が、変わった。
ほんのわずかだ。
しかし、ヴェルナーには分かる。
スウィングしている。
クラシックの均等なリズムが、柔らかく揺れ始めた。
自由になった。
客席の後ろで、誰かが小さく笑った。
隣の若い男が、友人に囁く。
「今の、ジャズになった?」
ヴェルナーは、微笑んだ。
そうだ。
今、曲は変わった。
バロックが、ジャズになった。
しかし、完全に変わったわけではない。
その中間。
奇妙な場所に、音楽が立っている。
キケロの右手は、相変わらずバッハを弾いている。
しかし、左手が違う。
和音が、厚くなる。
ロマン派の和声。
そこに、ジャズのテンションが加わる。
インザラコのブラシが、入った。
ハイハットを撫でる。
シャア……
雨のような音。
風のような音。
ピアノは、さらに速くなる。
ニールスのベースが、歩き始めた。
いや、歩くというより、跳ねている。
ウォーキング・ベース。
しかし、踊っている。
ヴェルナーは、椅子の背にもたれた。
これは、もうクラシックではない。
しかし、完全なジャズでもない。
その中間。
境界線の上。
どちらでもなく、どちらでもある。
新しい何か。
ニールスのベースが、再び弦を叩いた。
ドン。
低音が、床を通ってくる。
ヴェルナーは、靴底に振動を感じた。
かなり、強い。
彼は、少し眉をひそめた。
ベースは、大きな楽器だ。
低音は、空気を震わせる。
それは、知っている。
しかし、これは妙に重い。
振動が、空気ではなく、地面から来るように感じる。
まるで。
地面の奥で、何かが動いているような。
キケロの指は、止まらない。
バッハの音型が、いつの間にか完全なジャズのフレーズに変わっている。
トリルが入る。
装飾音が、きらめく。
右手と左手が、対話する。
ニールスのベースが、その間を縫う。
インザラコのドラムスが、リズムを刻む。
三人が、一つになった。
しかし、一つであると同時に、三つだった。
三つの声が、対話している。
観客が、拍手を始めた。
まだ、曲は終わっていない。
それでも、拍手が起こる。
興奮しているのだ。
抑えきれないのだ。
曲が、終わった。
最後の音が、消えた。
客席が、爆発したように拍手した。
スタンディング・オベーション。
全員が、立ち上がった。
ヴェルナーも、立ち上がった。
拍手をした。
深く、息を吐いた。
次の曲。
ヴェルナーは、プログラムをめくった。
リスト。
「Liebestraum No.3」。
愛の夢。
今度は、静かだった。
キケロは、ゆっくりと旋律を弾く。
甘い音。
ロマン派の夢。
優しく。
切なく。
ニールスのベースは、低く長い音を支える。
ロングトーン。
メロディの下で、しなやかに歌う。
客席は、完全に静まった。
誰も、動かない。
呼吸の音さえ、聞こえない。
しかし、ヴェルナーは、また感じた。
低音。
椅子の脚が、わずかに震える。
ベースの音のはずだ。
そうに決まっている。
しかし。
彼は、ふと考えた。
地面の奥で、何か巨大なものが動いている。
ゆっくりと、鈍く、重く。
それでいて、抗いようのない確信を持って。
その考えは、すぐに消えた。
馬鹿げている。
音楽の振動だ。
それだけのことだ。
曲が、終わった。
長い余韻。
そして、波紋のように広がる拍手。
涙を流している者がいた。
ヴェルナーも、目が潤んでいた。
舞台では、次の曲が始まった。
チャイコフスキー。
「Swan Lake」。
白鳥の湖。
誰もが知っている旋律。
キケロが、イントロを弾く。
優雅に。
美しく。
しかし、ドラムスが入った瞬間。
客席に、笑いが起きた。
白鳥は、もうバレエではない。
完全なジャズになっていた。
ニールスのベースが、跳ねる。
キケロのピアノが、旋律を崩す。
いや、解放する。
観客は、手拍子を始めた。
リズムに乗る。
会場は、熱気で満ちていく。
ニールスのベースソロ。
3本の指が、弦を弾く。
速い。
激しい。
しかし、音楽的だ。
メロディを紡いでいる。
弦が、強く引かれる。
ドン。
低音。
ドン。
床。
ドン。
椅子。
ドン。
空気。
すべてが、震える。
ヴェルナーは、息を止めた。
この低音は、どこまで届いているのだろう。
劇場の床を通り。
石畳の下を通り。
ベルリンの地面の奥へ。
そんなことを、ふと思った。
まるで、音楽が地球そのものを震わせているような。
巨大な心臓が、地面の奥で鼓動しているような。
底から、突き上げるような衝撃。
一打。また、一打。
それは着実に、世界の亀裂を広げていく。
曲が、終わった。
最後の音が、消えた。
客席が、爆発した。
拍手。
歓声。
叫び声。
全員が、立ち上がった。
ヴェルナーも、拍手を続けた。
しかし、心の奥で、何かが引っかかっていた。
あの振動。
あの低音。
それは、本当に音楽だけのものだったのか。
その夜。
1977年3月1日。
ベルリンの誰も、知らなかった。
三日後。
1977年3月4日。
ルーマニア、ヴランチャ地方で、大地震が起きることを。
マグニチュード7.2。
ブカレストが、崩壊することを。
1500人以上が、亡くなることを。
そして本当に。
地面が、揺れることを。
そのとき。
ヴェルナー・シュミットは、思い出すだろう。
三日前の夜。
ベルリンの小さな劇場で。
あのベースの低音を。
あの振動を。
地面の奥から来るような、あの揺れを。
それは、予兆だったのか。
それとも、ただの偶然だったのか。
わからない。
しかし、私は感じた。
あの夜。
何かが、動いていた。
地面の奥で。
世界の底で。
そして、三日後。
それは、現実になった。
しかし、今は、まだ知らない。
今は、ただ、音楽がある。
アンコール。
三人が、再び座った。
キケロが、鍵盤に触れた。
そして、弾き始めた。
「枯葉」。
最初の曲と、同じ曲。
しかし、まったく違った。
三日間で、何かが変わった。
三人が、変わった。
音楽が、変わった。
そして、世界が、変わろうとしていた。
しかし、それは、まだ誰も知らない。
曲が、終わった。
最後の音が、消えていく。
長い、長い余韻。
そして、静寂。
観客は、動けなかった。
拍手も、できなかった。
ただ、呆然としていた。
それから、一人が立ち上がった。
拍手をした。
次々と、観客が立ち上がった。
拍手が、波のように広がった。
しかし、誰も叫ばなかった。
ただ、拍手は鳴り止まなかった。
敬意を込めて。
感謝を込めて。
別れを告げるように。
三人が、立ち上がった。
お辞儀をした。
深く。
長く。
そして、ステージを去った。
明かりが、ついた。
観客が、ゆっくりと席を立ち始めた。
しかし、誰も急いでいなかった。
余韻に浸っている。
ヴェルナーも、席を立った。
しかし、足が重かった。
クラウスが、声をかけた。
「ヴェルナー、感じたか?」
「何を?」
「あの低音。床が震えていた」
ヴェルナーは、頷いた。
「ああ。感じた」
「音楽の振動だよな?」
ヴェルナーは、答えなかった。
ただ、窓の外を見た。
ベルリンの夜。
静かな街。
しかし、その下で。
地面の奥で。
何かが、動いている。
そんな気がした。




