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第三十四話 二夜目

 1977年2月28日、午後7時30分。

 クライネス・シアター。

 客席、最前列から三列目。

 ヴェルナー・シュミットは、プログラムを手に座っていた。

 五十代。音楽評論家。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の元クラリネット奏者。

 今は、『ベルリナー・ムジーク・ツァイトゥング』(ベルリン音楽新聞)で評論を書いている。

 隣には、友人のクラウス・メイヤー。

 四十代。ジャズ評論家。

「ヴェルナー、昨夜は来なかったのか?」クラウスが尋ねた。

「いや。昨夜は別の取材があった」ヴェルナーは答えた。「しかし、お前の記事を読んだ。『奇跡のライブ』と書いていたな」

「誇張じゃない」クラウスは真剣な顔で言った。「本当に、奇跡だった」

「そんなに?」

「ああ。キケロのピアノは知ってるだろう?」

「もちろん」ヴェルナーは頷いた。「クラシックをジャズにアレンジする。技術は素晴らしいが、少し...安全すぎる」

「その『安全』が、昨夜、崩れた」クラウスは言った。「NHØPとインザラコが、キケロを壊した。良い意味で」

 ヴェルナーは、眉を上げた。

「それは、見ものだな」

 午後8時。

 客席の明かりが落ちた。

 ステージに、スポットライトが当たった。

 三人が、楽器の前に座った。

 オイゲン・キケロ。ピアノ。

 ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセン。ベース。

 トニー・インザラコ。ドラムス。

 観客が、視線を向けた。

 ヴェルナーは、身を乗り出した。

 キケロが、鍵盤に触れた。

 最初の音。

 C音。

 ピアニッシモ。

 しかし、その音には、重みがあった。

 クラシックのタッチ。

 指の腹で、鍵盤を撫でるように。

「聴こえたか?」ヴェルナーが囁いた。

「何が?」クラウスが尋ねた。

「あのタッチ。クラシックだ。ジャズピアニストは、あんな音を出さない」

 メロディが始まった。

 「枯葉」。

 しかし、普通の「枯葉」ではなかった。

 キケロの右手が、メロディを弾く。

 そして、突然、トリルが入った。

 細かく震える音。

 tr~~~

 半音上の音と、元の音を、高速で交互に鳴らす。

 クラシックの装飾技法。

「トリルだ」ヴェルナーが囁いた。

「トリル?」

「装飾音だ。バロック時代から使われている。メロディに、煌めきを加える」

 キケロの指が、信じられない速さで動く。

 トリルが、きらめく。

 しかし、それはクラシックの楽譜通りではない。

 即興で、入れている。

 ジャズの自由さで。

「すごい」クラウスが息を飲んだ。「クラシックの技法を、ジャズの即興に持ち込んでる」

 ニールスのベースが入った。

 ウォーキング・ベース。

 4ビート。

 しかし、キケロのトリルに反応して、ラインが変わった。

 予測できない動き。

 二人が、対話している。

 キケロの左手が、和音を弾いた。

 厚い和音。

 六つの音が、同時に鳴る。

 しかし、濁らない。

 クラシックの和声学に基づいている。

「和音が、美しい」ヴェルナーが囁いた。

「ジャズの和音とは、違うのか?」

「全く違う」ヴェルナーは答えた。「ジャズは、テンション・ノートを使う。9th、11th、13th。不協和を楽しむ。しかし、キケロは違う。ロマン派の和声だ。シューマン、ショパンのような」

 そして、変化が訪れた。

 キケロの両手が、鍵盤の上で踊り始めた。

 右手は高音域。

 左手は低音域。

 二つの手が、別々のメロディを弾く。

 対位法。

 バッハの技法。

「対位法だ」ヴェルナーが興奮した。

「何?」

「二つの独立したメロディが、同時に進行する。バッハが得意とした」

 右手のメロディ。

 左手のメロディ。

 二つが、絡み合う。

 しかし、衝突しない。

 完璧に調和している。

 ニールスのベースが、その間を縫う。

 三つの声。

 いや、インザラコのドラムスを入れれば、四つの声。

 四つの声が、一つの音楽を作っている。

 そして、ダイナミクスの変化。

 キケロのピアノが、突然、弱くなった。

 ピアニッシモ。

 pp。

 ほとんど聞こえないくらい。

 観客が、息を潜めた。

 この小さな音を聴くために。

 そして、次の瞬間。

 フォルティッシモ。

 ff。

 両手が、鍵盤を叩く。

 爆発する音。

 クレッシェンドではない。

 突然の、強音。

「これだ」ヴェルナーが囁いた。

「何が?」

「ダイナミクス。強弱の幅」ヴェルナーは興奮して説明した。「クラシックでは、ピアニッシモからフォルティッシモまで、六段階ある。pp、p、mp、mf、f、ff。しかし、ジャズでは、普通、そこまで幅を使わない」

「なぜ?」

「グルーヴを保つためだ。極端な強弱は、リズムを崩す。しかし、キケロは違う。クラシックのダイナミクスを、ジャズに持ち込んでいる」

 曲が進む。

 キケロのピアノが、さらに自由になっていく。

 メロディが、崩れ始めた。

 いや、崩れているのではない。

 変形している。

 「枯葉」のメロディ。

 しかし、もはや原型をとどめていない。

 モルデントが入る。

 短い装飾音。

 主音の上下の音を、素早く鳴らす。

 アッポジャトゥーラが入る。

 前打音。

 主音の前に、短い音を入れる。

 これらすべてが、即興で入っている。

「信じられない」ヴェルナーが囁いた。「クラシックの装飾技法を、即興で使っている」

「それは、難しいのか?」

「非常に」ヴェルナーは答えた。「クラシックでは、装飾音は楽譜に書いてある。演奏者は、それを読む。しかし、キケロは、即興で入れている。しかも、音楽的に完璧だ」

 ニールスのベースソロ。

 3本の指が、弦を弾く。

 信じられない速さ。

 しかし、正確。

 一音一音が、クリア。

 メロディを紡いでいる。

「このベーシストは、何者だ?」ヴェルナーが尋ねた。

「NHØP。ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセン」クラウスは答えた。「世界最高のベーシストの一人だ。オスカー・ピーターソンのトリオにいた」

「技術が、すごい」

「技術だけじゃない」クラウスは言った。「耳だ。彼の耳は、異常に良い。キケロの複雑な和音を、瞬時に理解している」

 ニールスのベースが、高音域に跳躍した。

 ベースが、歌っている。

 いや、叫んでいる。

 自由に。

 何にも縛られずに。

 キケロのピアノが、再び入った。

 しかし、今度は、ニールスのベースに合わせている。

 従っている。

 いや、違う。

 対等に、対話している。

 ピアノが質問する。

 ベースが答える。

 ベースが質問する。

 ピアノが答える。

 これは、会話だった。

 音楽という言語での、会話。

「これは...」ヴェルナーが言葉を失った。

「何だ?」

「クラシックでもない。ジャズでもない」ヴェルナーは囁いた。「新しい何かだ」

 そして、頂点。

 三人の音が、一つになった。

 キケロの両手が、鍵盤を叩く。

 フォルティッシシモ。

 fff。

 可能な限りの、強音。

 ニールスのベースが、最低音を鳴らす。

 大地が揺れる。

 インザラコのシンバルが、クラッシュする。

 光の爆発。

 すべてが、一つになった。

 巨大な音の塊。

 それが、クラブを満たした。

 ヴェルナーは、椅子を掴んでいた。

 体が、震えていた。

 これは、何だ。

 今、自分は何を聴いているんだ。

 そして、突然の静寂。

 すべてが、止まった。

 無音。

 完全な、無音。

 観客は、呼吸するのも忘れていた。

 ヴェルナーも、動けなかった。

 ただ、ステージを見つめていた。

 ニールスのベースが、一つの音を鳴らした。

 ピアニッシモ。

 低音域の、C。

 キケロのピアノが、応えた。

 高音域の、C。

 同じ音。

 しかし、オクターブ違い。

 二つの音が、空間で響き合う。

 そして、徐々に消えていく。

 余韻。

 長い、長い余韻。

 完全な静寂。

 曲が終わった。

 観客は、動けなかった。

 ヴェルナーも、動けなかった。

 ただ、呆然としていた。

 5秒の沈黙。

 それから、一人が拍手を始めた。

 次に、もう一人。

 そして、波のように。

 拍手が、クラブを満たした。

 ヴェルナーは、立ち上がった。

 拍手をした。

 涙が、頬を伝っていた。

 クラウスも、立ち上がっていた。

 二人は、顔を見合わせた。

「信じられるか?」クラウスが言った。

「いや」ヴェルナーは首を振った。「でも、確かに聴いた」

「これを、どう書く?」

「わからない」ヴェルナーは答えた。「言葉にできない」

 拍手が鳴り止まない。

 ステージ上の三人が、立ち上がった。

 お辞儀をした。

 観客が、さらに大きく拍手した。

 叫び声。

「ブラボー!」

「アンコール!」

 ヴェルナーは、拍手を続けながら、考えていた。

 今夜、自分は歴史的な瞬間を目撃した。

 クラシックとジャズの、真の融合。

 対立ではない。

 支配でもない。

 融合。

 二つの世界が、一つになった。

 そして、新しい音楽が生まれた。

 三人が、再び座った。

 アンコール。

 キケロが、鍵盤に触れた。

 そして、弾き始めた。

 ゆっくりとしたメロディ。

 哀愁がある。

 しかし、美しい。

「何の曲だ?」クラウスが囁いた。

「わからない」ヴェルナーは答えた。「聞いたことがない」

 キケロの右手が、メロディを弾く。

 そして、声が詰まるように止まる。

 そして、また始まる。

 これは、歌だった。

 人間の声のような、ピアノ。

 ニールスのベースが、そっと入った。

 ロングトーン。

 メロディを支える。

 しかし、邪魔しない。

 ただ、そこにいる。

 寄り添っている。

「これは...民謡か?」ヴェルナーが囁いた。

「たぶん」クラウスは答えた。「ルーマニアの、かもしれない」

 メロディが、進む。

 キケロの表情が、変わった。

 目を閉じている。

 しかし、涙が、頬を伝っている。

 これは、個人的な曲だ。

 ヴェルナーは、それを感じ取った。

 故郷への思い。

 家族への思い。

 失われたものへの、祈り。

 曲が終わった。

 最後の和音が、消えていく。

 長い余韻。

 静寂。

 観客は、動けなかった。

 拍手も、できなかった。

 ヴェルナーも、動けなかった。

 涙が、止まらなかった。

 それから、一人の老人が、立ち上がった。

 ゆっくりと拍手をした。

 深い、敬意を込めた拍手。

 次々と、観客が立ち上がった。

 しかし、誰も叫ばなかった。

 ただ、一心に拍手をした。

 涙を流しながら。

 ライブが終わった後。

 ヴェルナーとクラウスは、クラブの外に出た。

 雪が、降っていた。

 二人は、黙って歩いていた。

 しばらくして、ヴェルナーが口を開いた。

「クラウス、今夜の演奏を、どう書く?」

「わからない」クラウスは首を振った。「お前は?」

「俺も、わからない」ヴェルナーは答えた。「でも、一つだけ確かなことがある」

「何だ?」

「今夜、音楽の歴史が変わった」

 クラウスは、頷いた。

「ああ。そして、俺たちは、それを目撃した」

 二人は、雪の中を歩き続けた。

 ベルリンの夜。

 冷たく、しかし美しい。

 そして、音楽が、まだ心の中で鳴り続けていた。






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