第三十三話 壁の向こう
1977年2月28日、朝。
オイゲン・キケロは、ホテルの窓際に立っていた。
外は、まだ薄暗い。
ベルリンの冬の朝。
灰色の空。白い雪。
そして、遠くに見える、壁。
ベルリンの壁。
灰色のコンクリート。高さ3メートル以上。
この街を、真っ二つに分断している。
キケロは、その壁を見つめていた。
コーヒーカップを手に。
湯気が、顔を撫でる。
しかし、彼の目は、壁を見ている。
記憶が、蘇る。
1962年2月27日。
15年前の、この街。
東ベルリン。
音楽学校の窓から、飛び降りた日。
ヴィクトルの目を盗んで。
一日通行証を持って、西ベルリンに視察に来るはずだった。
しかし、戻らなかった。
窓から飛び降りた。
裏庭に着地した。
足をひねりそうになった。
しかし、走った。
路地を抜け、通りに出た。
人混みに紛れた。
バスに飛び乗った。
マリーエンフェルデ難民受け入れセンターへ。
息が切れた。
心臓が破裂しそうだった。
しかし、止まらなかった。
自由。
それだけを、求めて。
キケロは、コーヒーを飲んだ。
冷めていた。
しかし、気にならなかった。
あれから、15年。
自由を手に入れた。
音楽家として、成功した。
しかし、何を失ったのか。
母、リヴィア。今も元気でいるのか。
兄、アドリアン。あの手紙を読んだだろうか。
故郷、クルジュ。変わっただろうか。
ブカレスト。美しい街だった。
わからない。
手紙は、時々来る。
しかし、検閲されている。
本当のことは、書けない。
壁。
ベルリンにも、壁がある。
ルーマニアにも、壁がある。
見えない壁。
そして、目前にある現実の壁。
人々を分ける壁。
家族を引き裂く壁。
ノックの音。
キケロは、振り返った。
「どうぞ」
ドアが開いた。
ニールス・ペデルセンが入ってきた。
背が高い。金髪。穏やかな笑顔。
「おはよう。起きてたか」
「ああ」キケロは答えた。「眠れなくて」
「昨夜のことを、考えてた?」
「いや」キケロは首を振った。「別のことを」
ニールスは、窓の外を見た。
壁が見えた。
「あの壁か」
「ああ」
ニールスは、キケロの隣に立った。
二人は、黙って壁を見ていた。
しばらくして、ニールスが口を開いた。
「オイゲン、散歩しないか」
「散歩?」
「ああ。リハーサルまで、時間がある。少し、外を歩こう」
キケロは、考えた。
そして、頷いた。
「いいだろう」
30分後。
二人は、ベルリンの街を歩いていた。
雪が、うっすらと積もっている。
足音が、雪に飲み込まれていく。
冷たい空気。
しかし、清々しい。
ニールスは、両手をポケットに入れて歩いていた。
キケロは、コートの襟を立てていた。
二人とも、黙っていた。
言葉はいらなかった。
彼らは、壁の近くまで来た。
西ベルリン側から。
壁は、目の前にあった。
灰色のコンクリート。
高さ3.6メートル。
冷たく、無機質。
しかし、その向こうには、人々が暮らしている。
東ベルリン。
そして、その向こうには、東ドイツ。
さらに向こうには、ポーランド。
そして、ルーマニア。
キケロは、壁に触れた。
冷たかった。
石のように。
「15年前」キケロが囁いた。
「この街で、俺は自由になった」
ニールスは、黙って聞いていた。
「音楽学校の窓から、飛び降りた」キケロは続けた。「ヴィクトルという監視役がいた。トイレに行くと言って、窓から逃げた」
「怖かったか?」
「死ぬほど」キケロは頷いた。「着地した時、足をひねりそうになった。でも、走った。バスに飛び乗って、マリーエンフェルデまで」
「難民センターか」
「ああ」キケロは壁に額を当てた。
「そこで、自由を手に入れた。しかし、その代償は...」
声が、震えた。
「この向こうに」キケロが囁いた。
「俺の故郷がある」
「ブカレスト?」
「いや。クルジュ。ルーマニアの北部。小さな街」キケロは答えた。
「そこで生まれた。母がオペラを歌っていた。兄と一緒に、丘の上でラジオを聴いた」
「今は?」
「わからない」キケロは首を振った。「15年、帰っていない。帰れない」
「なぜ?」
「亡命者だから」キケロは答えた。「国を裏切った者として、扱われている」
ニールスは、何も言わなかった。
ただ、キケロの隣に立っていた。
「母は、今も生きているのか」キケロの声が、震えた。「兄は、どうしているのか」
「連絡は?」
「時々、手紙が来る。しかし、検閲されている。本当のことは、書けない」
キケロは、ポケットから何かを取り出した。
小さな十字架のペンダント。
銀色。古びている。
「母がくれた」キケロは囁いた。「逃げる前に。これだけは、持っていけた」
ニールスは、それを見つめた。
「俺は、自由を選んだ」キケロは囁いた。「音楽のために。しかし、その代償は、大きかった」
ニールスは、ポケットから何かを取り出した。
写真。
娘、アンナの写真。
「これ、俺の娘だ」
キケロは、顔を上げた。
写真を見た。
笑顔の少女。金髪。青い目。
「可愛いな」
「ああ。俺の宝物だ」ニールスは微笑んだ。「この子のために、俺は音楽をやってる」
「羨ましい」キケロは囁いた。
「何が?」
「お前には、帰る場所がある」キケロは答えた。「家族がいる。故郷がある」
ニールスは、写真をポケットに戻した。
そして、キケロを見た。
「オイゲン、お前にも音楽がある」
「音楽?」
「ああ。昨夜、お前のピアノを聴いた。あれは、故郷への祈りだった」
キケロは、何も言わなかった。
「お前は、音楽で故郷と繋がっている」ニールスは続けた。「シューベルトを弾く時、お前はヨーロッパの伝統を守っている。バッハを弾く時、お前はクラシックの魂を歌っている」
「でも、それは...」
「それは、故郷だ」ニールスは遮った。「音楽が、お前の故郷だ。壁は、それを分断できない」
キケロは、ニールスを見た。
この北欧から来たベーシストは、なぜこんなにも理解してくれるのか。
「ありがとう」キケロは囁いた。
二人は、壁から離れた。
歩き始めた。
息を潜めた街。
雪が、また降り始めた。
小さな雪片。
空から、光を孕んで落ちてくる。
「ニールス」キケロが言った。
「お前は、なぜ音楽家になったんだ?」
ニールスは、考えた。
「父が、教会のオルガニストだった」彼は答えた。「子供の頃、教会で音楽を聴いた。それが、すべての始まりだ」
「教会か」
「ああ。小さな村の、小さな教会。ウーステッド。しかし、そこには、神がいた」
「神?」
「音楽の神」ニールスは微笑んだ。「俺は、そこで音楽に出会った。そして、人生が変わった」
「俺も、似たようなものだ」キケロは言った。「母、リヴィアが、歌手だった。プロのオペラ歌手。彼女の声を聴いて、俺は音楽家になろうと決めた」
「お母さんは、今も歌ってるのか?」
「わからない」キケロは首を振った。「手紙には、何も書いてない」
二人は、カフェに入った。
小さな、古いカフェ。
暖かい空気。コーヒーの香り。
窓際の席に座った。
ウェイトレスが、コーヒーを持ってきた。
二人は、黙ってコーヒーを飲んだ。
窓の外では、雪が降り続けていた。
「ニールス」キケロが言った。「お前は、幸せか?」
ニールスは、カップを置いた。
「幸せ?」
「ああ。家族がいる。音楽がある。故郷がある」
ニールスは、考えた。
「幸せかどうか、わからない」彼は答えた。「でも、満たされてる」
「満たされてる?」
「ああ。音楽があるから。家族があるから」ニールスは続けた。「でも、完璧じゃない。いつも、何かを探してる」
「何を?」
「わからない」ニールスは微笑んだ。「でも、それが人生だろう」
キケロは、頷いた。
「そうだな」
午後1時。
二人は、クライネス・シアターに戻った。
リハーサルの時間。
インザラコが、すでに来ていた。
ドラムスの前に座って、軽く叩いている。
「遅いぞ」彼が笑った。
「散歩してた」ニールスは答えた。
「散歩?こんな寒い日に?」
「ああ。良い散歩だった」
キケロは、ピアノの前に座った。
鍵盤に触れる。
冷たい。
しかし、徐々に温まっていく。
彼の手で。
彼の心で。
「今日は、何を弾く?」インザラコが尋ねた。
キケロは、考えた。
そして、答えた。
「故郷の歌を」
「故郷?」
「ああ」キケロは頷いた。「ルーマニアの民謡を、ジャズにしたものがある。それを弾こう」
ニールスは、微笑んだ。
「いいな」
リハーサルが始まった。
キケロが、ルーマニアの民謡を弾き始めた。
哀愁のあるメロディ。
しかし、美しい。
母、リヴィアが歌っていた歌。
子供の頃、聴いた歌。
故郷の歌。
ニールスのベースが、そっと入った。
メロディを支える。
しかし、支配しない。
インザラコのブラシが、優しくリズムを刻む。
三人の音が、溶け合った。
これは、故郷への祈りだった。
失われたものへの、祈り。
しかし、同時に、希望でもあった。
音楽は、壁を越える。
音楽は、時間を越える。
音楽は、すべてを越える。
曲が終わった。
三人は、顔を見合わせた。
そして、微笑んだ。
今夜、この曲を演奏しよう。
ベルリンの観客に。
そして、壁の向こうの人々に。
聴こえないかもしれない。
しかし、心は届く。
音楽で、届く。




