第三十二話 初夜
1977年2月27日、午後8時15分。
最初の曲が終わった。
拍手が鳴り止んだ。
観客の視線が、ステージに集中している。
キケロは、鍵盤に手を置いたまま、動かなかった。
額に、汗が光っていた。
息が、浅い。
次の曲。
何を弾こう。
頭の中で、無数の選択肢が回転している。
バッハ。モーツァルト。スカルラッティ。
しかし、決められない。
ニールスが、そっと声をかけた。
「オイゲン」
キケロが、顔を上げた。
「お前に任せる」
短い言葉。
しかし、その中に、信頼があった。
キケロは、頷いた。
そして、鍵盤に触れた。
最初の音。
ピアニッシモ。
C.P.E.バッハ。
「Softly Sunrise」。
ソルフェジェット。
右手が、高音域で囁く。
速く。しかし、軽く。
羽が舞うように。
左手が、そっと和音を置く。
薄い和音。透明な響き。
観客が、身を乗り出した。
この小さな音を聴くために。
ニールスのベースが入った。
しかし、音は小さい。
ピチカート。
弦を指で弾く音だけ。
ウォーキング・ベース。
しかし、囁くように。
大地を、そっと歩く。
インザラコのブラシが、ハイハットを撫でる。
シュ-ッ、シャ-ッ、フッ。
風の音のように。
三人の音が、小さな空間に溶け合う。
弱音。
しかし、その中に、緊張がある。
張り詰めた糸のような、緊張。
そして、変化が訪れた。
キケロの右手が、徐々に速くなった。
音が、増えていく。
トリルが現れる。
細かく震える音。
装飾音が、きらめく。
左手の和音が、厚くなる。
二音から、三音へ。
三音から、四音へ。
和声が、重なっていく。
ニールスのベースが、応える。
音量が上がる。
弓を使い始めた。
アルコ。
低音が、うねる。
波のように。
インザラコが、スティックに持ち替えた。
スネアに、アクセント。
シンバルが、揺れる。
音楽が、膨らんでいく。
クレッシェンド。
徐々に、徐々に。
しかし、まだ爆発しない。
我慢している。
溜めている。
キケロの両手が、鍵盤の上で踊り始めた。
右手は高音域。
左手は低音域。
二つの世界が、同時に動く。
メロディと、ベースライン。
しかし、どちらも主役。
どちらも従者。
入れ替わる。
対話する。
戦う。
ニールスのベースが、叫んだ。
高音域に跳躍する。
3本の指が、信じられない速さで動く。
ベースが、歌う。
いや、吠える。
インザラコのドラムスが、炸裂した。
スネア。
タム。
シンバル。
すべてが、一斉に鳴る。
リズムが、複雑に絡み合う。
しかし、崩れない。
中心がある。
グルーヴがある。
そして、頂点。
フォルティッシモ。
キケロの両手が、鍵盤を叩く。
厚い和音。
10本の指が、同時に鳴らす。
クラスターのような響き。
しかし、混沌ではない。
その中に、構造がある。
和声がある。
ニールスのベースが、最低音を鳴らす。
ズン、という重い音。
大地が揺れるような。
インザラコのシンバルが、クラッシュする。
金属の叫び。
光の爆発。
三人の音が、一つになった。
巨大な音の塊。
それが、クラブ全体を満たした。
壁が震える。
天井が震える。
観客の心臓が震える。
そして、突然の静寂。
キケロの手が、止まった。
ニールスのベースが、止まった。
インザラコのスティックが、止まった。
無音。
完全な、無音。
観客は、息をするのも忘れていた。
1秒。
2秒。
3秒。
キケロの右手が、動いた。
ピアニッシモ。
たった一つの音。
高音域の、C。
透明な音。
それが、静寂の中に落ちた。
水面に落ちる雫のように。
波紋が広がる。
ニールスのベースが、そっと応える。
ピチカート。
たった一つの音。
低音域の、C。
同じ音。
しかし、数オクターブ違い。
二つの音が、空間で響き合う。
インザラコのブラシが、シンバルを撫でる。
シュー、という息のような音。
余韻。
消えていく音。
そして、完全な静寂。
曲が終わった。
観客は、動けなかった。
拍手も、できなかった。
ただ、呆然としていた。
何が起きたのか。
今、自分たちは何を聴いたのか。
5秒の沈黙。
それから、一人の男が拍手を始めた。
ゆっくりとした、拍手。
次に、隣の女性が拍手した。
そして、次々と。
波が広がるように。
拍手が、クラブを満たした。
大きく。
激しく。
誰かが、立ち上がった。
次々と、観客が立ち上がった。
スタンディング・オベーション。
聴者全員が、立っていた。
キケロは、ピアノの前に座ったまま、動けなかった。
手が、震えていた。
全身に、汗が流れていた。
心臓が、激しく鳴っていた。
しかし、心は、穏やかだった。
今、何かが起きた。
それは、眩いまでの生命感だった。
ニールスが、キケロの肩に手を置いた。
「すごかった」
キケロは、顔を上げた。
ニールスも、汗だらけだった。
しかし、笑っていた。
「お前も」キケロは囁いた。
インザラコが、スティックを回しながら、言った。
「これ、録れてるんだよな?」
ベーレントが、客席から親指を立てた。
録れている。
この瞬間が、録音されている。
拍手が鳴り止まない。
キケロが、立ち上がった。
お辞儀をした。
ニールスとインザラコも、立ち上がった。
三人で、お辞儀をした。
拍手が、さらに大きくなった。
誰かが、叫んだ。
「アンコール!」
他の観客も、叫び始めた。
「アンコール!」
「アンコール!」
キケロは、ニールスを見た。
ニールスは、頷いた。
「もう一曲」
三人は、再び楽器の前に座った。
観客のざわめきが消えた。
期待の静寂。
何が来るのか。
キケロは、考えた。
次は、何を弾こう。
激しい曲の後。
叙情的な曲。
そうだ。
シューベルト。
彼は、鍵盤に触れた。
そして、弾き始めた。
「Ave Maria」。
祈りの歌。
最初の和音。
ゆっくりと。
重く。
しかし、優しく。
シューベルトのメロディが、浮かび上がる。
右手が、歌う。
人間の声のように。
母が歌う子守歌のように。
左手が、和音を支える。
教会のオルガンのように。
ニールスのベースが、入った。
しかし、ウォーキング・ベースではない。
長い音。
ロングトーン。
和音の根音を、そっと支える。
インザラコは、動かなかった。
ブラシも、スティックも持たない。
ただ、聴いている。
これは、ピアノとベースだけの音楽。
キケロの右手が、メロディを進める。
しかし、途中で、装飾が入る。
トリル。
細かく震える音。
クラシックの奏法。
しかし、それがジャズのニュアンスを生む。
自由な揺れ。
予測できない動き。
ニールスのベースが、応える。
メロディに寄り添う。
しかし、同じではない。
少しずらす。
少し遅れる。
少し早まる。
対話。
二つの声が、絡み合う。
観客は、涙を流していた。
この音楽は、美しかった。
しかし、それだけではない。
その裏に、何かがあった。
祈り。
孤独。
そして、愛。
曲が終わった。
最後の和音が、消えていく。
長い余韻。
静寂。
観客は、動けなかった。
拍手も、できなかった。
ただ、呆然と座っていた。
それから、一人の老婦人が、立ち上がった。
拍手をした。
ゆっくりとした、深い拍手。
次々と、観客が立ち上がった。
誰も叫ばなかった。
ただ、釘付けになったまま拍手をした。
敬意を込めて。
感謝を込めて。
キケロは、ピアノの前に座ったまま、目を閉じていた。
涙が、頬を伝っていた。
ニールスは、それを見ていた。
何も言わなかった。
言葉はいらなかった。
音楽が、すべてを語った。
午後10時。
初日のライブが終わった。
観客が、ゆっくりと帰っていく。
余韻に浸っている。
今夜、何かを目撃した。
それを、心に刻んでいる。
楽屋で。
三人は、座っていた。
誰も、話さなかった。
ただ、ビールを飲んでいた。
疲労。
しかし、満足。
そして、明日がある。
2日目。
また、この舞台に立つ。
また、音楽を作る。
キケロが、ようやく口を開いた。
「今夜、ありがとう」
ニールスは、微笑んだ。
「こちらこそ」
インザラコが、言った。
「明日も、頼むぜ」
三人は、笑った。
疲れた、しかし幸せな笑い。
深夜。
キケロは、一人でホテルの部屋にいた。
窓から、ベルリンの夜景が見えた。
遠くに、壁がある。
灰色の線。
しかし、今夜、音楽に壁はなかった。
東欧から来たピアニスト。
北欧から来たベーシスト。
アメリカで学んだドラマー。
三人が、一つになった。
音楽で、一つになった。
キケロは、ベッドに横になった。
しかし、眠れなかった。
頭の中で、まだ音楽が鳴っていた。
ニールスのベース。
インザラコのドラムス。
そして、自分のピアノ。
これは、何だったのだろう。
今夜、起きたことは。
彼は、まだ理解できていなかった。
しかし、一つだけわかっていた。
何かが、変わった。
自分の中で、何かが変わった。
音楽が、自由になった。
檻から、出た。
そして、それは、怖かった。
しかし、同時に、美しかった。
キケロは、目を閉じた。
そして、ゆっくりと眠りに落ちていった。
明日、また舞台に立つ。
また、音楽を作る。
そして、さらに深く、潜っていく。




