第三十一話 出会い
1977年2月27日、午後2時。ベルリン、クライネス・シアター。
ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセンがクラブの扉を開けた瞬間、冷たい空気が顔を打った。
外の雪とは対照的に、中は薄暗く、しかし温かかった。
天井は低い。壁は煉瓦。客席は100ほどの椅子が並んでいるだけ。
しかし、ステージだけが明るく照らされていた。
スポットライトの下に、グランドピアノがこの時を待つかのよう佇んでいる。
そして、そのピアノの前に、一人の男が座っていた。
黒いセーター。やせた体。黒髪。
鍵盤に触れているが、弾いてはいない。
ただ、何かを考えているように見えた。
ニールスは、ベースケースを肩にかけたまま、ゆっくりとステージに近づいた。
男が顔を上げた。
オイゲン・キケロ。
四十代前半。鋭い目。しかし、その目の奥に、深い疲労があった。
口元には、かすかな緊張。
初めて会う相手を前にした、音楽家特有の警戒心。
しかし同時に、期待も見えた。
ドアが再び開いた。
ヨアヒム・ベーレントが入ってきた。白髪、黒いコート、鋭い目。
「NHØP、よく来てくれた」ベーレントが声をかけた。「オイゲン、紹介しよう。ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセンだ。世界最高のベーシストの一人だ」
ニールスは、ステージに上がった。
キケロが立ち上がった。
二人は、向かい合った。
身長差は20センチ以上ある。ニールスが見下ろす形になった。
しかし、キケロの目には、怯えはなかった。
ただ、測っている。
この男は、どんな音楽家なのか。
「ニールス・ペデルセンです」ニールスは手を差し出した。「NHØPと呼んでください」
「オイゲン・キケロです」キケロが握手した。
手は、冷たかった。
しかし、握りは強かった。
ピアニストの手。指が長く、しなやか。
「あなたのレコードを聴きました」ニールスは言った。「『Eugen Cicero plays Schubert』。素晴らしかった」
キケロの表情が、わずかに緩んだ。
「ありがとうございます。あなたのベースも聴きました。オスカー・ピーターソンとの録音」
「ああ」
「信じられないテクニックでした」キケロは続けた。「しかし、それ以上に...歌っていた」
ニールスは、微笑んだ。
「それが、俺の目指すところです」
ドアが、また開いた。
中肉中背の男が入ってきた。鋭い目。エネルギッシュな雰囲気。
「トニー・インザラコだ」ベーレントが紹介した。「スイス系アメリカ人。ドラマーだ」
「トニー・インザラコです」彼がステージに上がって握手した。「よろしく」
「オイゲン・キケロです」
「NHØP、久しぶり」インザラコがニールスの肩を叩いた。「チューリッヒ以来だな。デクスターとのライブ、覚えてるか?」
「もちろん」ニールスは笑った。「1975年。あの時のお前のドラムス、すごかった」
三人は、それぞれの楽器の前に座った。
ニールスは、ベースケースを開けた。
楽器を取り出す。
木の香り。弦の張り。
この相棒と、何年旅をしてきただろう。
調弦する。
低音が、クラブに響く。
インザラコは、ドラムスの前に座った。
スティックを手に取る。
軽く叩いてみる。
スネア。ハイハット。
良い音だった。
キケロは、ピアノの鍵盤に触れた。
しかし、まだ音は出さない。
ただ、指を鍵盤の上で滑らせている。
準備している。
心を、整えている。
ベーレントが、客席の前列に座った。
「さあ、始めよう」彼が言った。「まず、何か一曲。何でもいい」
沈黙。
三人は、顔を見合わせた。
言葉はなかった。
しかし、空気が動いていた。
ニールスが、口を開いた。
「シューベルトを弾く」
キケロが、驚いた表情を見せた。
眉が上がる。目が見開かれる。
「シューベルト?」
「ああ。お前のアルバムを聴いた。素晴らしかった」ニールスは続けた。「シューベルトにスウィングを思い出させてる」
キケロは、何も言わなかった。
しかし、目が潤んでいた。
唇が、わずかに震えた。
そして、小さく頷いた。
「『Rosamunde』を」キケロが囁いた。
「キーは?」
「変ロ長調」
「OK」
それだけ。
キケロは、深呼吸した。
そして、鍵盤に触れた。
最初の音が、クラブに響いた。
シューベルトのメロディ。
優しく、美しく。
しかし、ただのクラシックではなかった。
キケロの右手が、メロディを奏でる。
しかし、その指の動きには、装飾がある。
トリル。
細かく震える音。
クラシックの奏法。
しかし、リズムは自由だった。
左手が、和音を弾く。
厚い和音。
ロマン派の和声。
シューベルトの世界を、守っている。
尊重している。
ニールスは、聴いていた。
目を閉じて。
メロディの構造を、理解していく。
和声の流れを、感じ取っていく。
そして、ベースを弾き始めた。
しかし、クラシックの伴奏ではなかった。
ウォーキング・ベース。
4ビート。
スウィング。
低音が、大地のように歩き始めた。
シューベルトのメロディの下で、ジャズのリズムが脈打ち始めた。
キケロの手が、一瞬止まった。
目がニールスを見た。
驚き。
しかし、次の瞬間、何かが変わった。
キケロの顔に、笑みが浮かんだ。
そして、右手が再び動き始めた。
しかし、今度は違った。
メロディは同じ。
しかし、リズムが自由になった。
スウィングし始めた。
トリルが、きらめく。
装飾音が、踊る。
強弱が、激しく揺れる。
ピアニッシモからフォルテッシモへ。
これは、クラシックのダイナミクス。
しかし、ジャズのスウィングと融合している。
インザラコのブラシが、そっと入った。
ハイハットを、優しく撫でる。
スネアに、かすかなアクセント。
三人が、一つになった。
しかし、一つであると同時に、三つだった。
三つの声が、対話している。
キケロのピアノが、質問する。
ニールスのベースが、答える。
インザラコのドラムスが、さらに問いかける。
そして、キケロが、また答える。
しかし、その答えは、予測できない。
突然の弱音。
次の瞬間、爆発する強音。
トリルが雨のように降る。
左手の和音が、厚く重なる。
これは、会話だった。
音楽という言語での、会話。
言葉はいらない。
すべてが、音で伝わる。
曲が終わった。
最後の音が、クラブに響いた。
そして、消えた。
沈黙。
三人は、顔を見合わせた。
キケロの顔には、汗が浮かんでいた。
目が、輝いていた。
ニールスは、微笑んでいた。
インザラコは、スティックを回しながら、笑っていた。
「すごいな」インザラコが最初に声を出した。
「ああ」ニールスも頷いた。「これは、面白くなりそうだ」
キケロは、何も言わなかった。
ただ、鍵盤を見つめていた。
そして、囁いた。
「もう一曲」
リハーサルは、三時間続いた。
「枯葉」。
「Bach's Softly Sunrise」。
スカルラッティのソナタ。
一曲ごとに、三人の距離が近くなっていった。
最初は、探り合いだった。
お互いの音楽を、測っていた。
しかし、徐々に、信頼が生まれた。
音楽で、信頼が生まれた。
キケロのピアノは、複雑だった。
クラシックの構造。
厚い和声。
予測できない装飾。
しかし、ニールスは、それに完璧についていった。
彼の耳は、異常に良かった。
和声を瞬時に理解する。
キケロの意図を読み取る。
そして、ベースで応える。
時には、キケロを支える。
時には、キケロを押す。
時には、キケロと対等に戦う。
インザラコは、二人を見ながら、笑っていた。
「お前ら、初対面とは思えないな」
「音楽に、初対面はない」ニールスは答えた。
午後5時。リハーサルが終わった。
三人は、楽屋で休んでいた。
ビールを飲みながら。
キケロは、疲れていた。
しかし、目は輝いていた。
「ニールス」キケロが言った。「あなたは、どうやってあんなに自由に弾けるんですか?」
「自由?」
「ええ。譜面も見ない。事前の打ち合わせもない。しかし、完璧についてくる」
ニールスは、ベースの弦に触れた。
そして、強く引いた。
ブーン、という音が楽屋に響いた。
キケロが、驚いた。
「壊れないんですか?」
「壊れる前に弾く」ニールスは微笑んだ。「俺は、譜面を見ない。頭で考えない。感じるままに弾く」
「それが、ジャズですか」
「いや」ニールスは首を振った。「それが、俺の音楽だ。ジャズには、ジャズの文法がある。コード進行。リズム。でも、俺はそれに縛られたくない」
キケロは、黙っていた。
「お前は、どうだ?」ニールスが尋ねた。
「僕は...」キケロは言葉を探した。「僕は、クラシックの人間です。構造を重視する。和声を守る。旋律を尊重する」
「でも、お前の音楽は自由だ」
「自由?」キケロは首を傾げた。「僕は、自由じゃない。いつも、何かに縛られている気がする」
「何に?」
「クラシックの伝統に」キケロは答えた。「シューベルトを弾く時、僕はシューベルトを壊したくない。尊重したい。でも、同時に、自由にもなりたい」
ニールスは、頷いた。
「それが、お前の音楽だ」
「でも、矛盾してます」
「音楽は、矛盾だ」ニールスは言った。「構造と自由。伝統と革新。孤独と対話。すべてが、矛盾してる。でも、それが美しい」
キケロは、ニールスを見た。
この北欧から来たベーシストは、何者なんだろう。
技術は完璧。
しかし、それ以上に、何か深いものがある。
音楽への愛。
そして、自由への渇望。
午後7時。
ベーレントが、楽屋に入ってきた。
「素晴らしいリハーサルだった」彼は言った。「今夜、期待してる」
「観客は?」キケロが尋ねた。
「満員だ。100席、すべて埋まった。しかし、録音のことは知らない」
「知らない?」
「ああ。普通のライブだと思っている」ベーレントは微笑んだ。「その方が、自然な反応が録れる」
「でも、それは...」キケロは言葉を探した。
「何だ?」
「騙してるような」
「いや」ベーレントは首を振った。「観客は、本物の音楽を聴く。それだけだ。録音は、二次的なものだ」
キケロは、黙った。
「オイゲン」ベーレントが近づいた。「お前は、完璧を求めすぎる。でも、音楽に完璧はない。あるのは、瞬間だけだ」
「瞬間?」
「ああ。今夜から、この3日間。それが、すべてだ。後から修正はしない。やり直しもしない。ただ、今を録る」
キケロは、頷いた。
「わかりました」
午後8時。
クライネス・シアターは、満員だった。
客席には、100人の観客。
ビールを飲んでいる者。
タバコを吸っている者。
会話している者。
しかし、ステージに明かりがついた瞬間、客の会話は消えた。
三人が、ステージに出た。
拍手。
しかし、大きくはない。
ベルリンの観客は、冷静だった。
音楽を聴いてから、判断する。
キケロは、ピアノの前に座った。
手が、わずかに震えていた。
深呼吸。
鍵盤に触れる。
ニールスが、ベースを構えた。
インザラコが、スティックを持った。
そして、キケロが最初の音を弾いた。
「枯葉」。
メロディが、クラブに響く。
優しく、しかし深く。
ニールスのベースが入る。
ウォーキング・ベース。
大地を歩くような、重く、しかし自由な音。
インザラコのブラシが、ハイハットを撫でる。
三人が、一つになった。
しかし、一つであると同時に、三つだった。
三つの声。
三つの世界。
しかし、音楽で一つになっている。
観客は、息を飲んで聞いていた。
ビールを持つ手が、止まっていた。
タバコの煙が、ゆっくりと上がっていた。
これは、ただのジャズ・ライブではなかった。
これは、三つの魂の対話だった。
曲が終わった。
最後の音が消えた。
長い沈黙。
それから、拍手が起きた。
最初は小さく。
しかし、徐々に大きくなった。
そして、爆発した。
キケロは、ニールスとインザラコを見た。
二人も、キケロを見ていた。
そして、三人は、微笑んだ。
これが、始まりだった。




