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第三十話 出発の朝

 1977年2月初旬。コペンハーゲン。

 朝、まだ暗かった。

 ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセンは、自宅の玄関に立っていた。

 ベースケースを肩にかけて。

 旅行鞄を手に持って。

 娘のアンナが、パジャマ姿で階段を降りてきた。

「パパ、もう行っちゃうの?」

「ああ。でも、すぐ帰ってくる」

「本当?」

「本当だよ」ニールスは娘を抱き上げた。「三日間だけだ」

「ベルリンって、どんなところ?」アンナが尋ねた。

 ニールスは、考えた。

 壁のある街。分断された街。

 しかし、娘にそれを説明するのは、難しい。

「大きな街だよ。でも、真ん中に壁がある」

「壁?なぜ?」

「難しい理由があるんだ」ニールスは答えた。「でも、音楽には壁がない。だから、パパは行くんだ」

 アンナは、よくわからない顔をした。

 しかし、父を抱きしめた。

「パパ、頑張ってね」

「ありがとう、アンナ」

 ソルヴェイグが、コーヒーを持ってきた。

「飲んでいって」

「ありがとう」

 二人は、キッチンで向かい合って座った。

「ニールス」ソルヴェイグが言った。「緊張してる?」

「少し」ニールスは正直に答えた。

「どんな人なんだろう、キケロは」

「わからない。でも、音楽で話せばわかる」

 ソルヴェイグは、微笑んだ。

「それが、あなたらしいわ」

 玄関で、ニールスは家族に別れを告げた。

「行ってくる」

「気をつけてね」ソルヴェイグが言った。

「パパ、バイバイ!」アンナが手を振った。

 ニールスは、ドアを開けた。

 外は、まだ暗かった。

 しかし、東の空が、少しずつ明るくなり始めていた。

 タクシーが、コペンハーゲン空港に着いた。

 ニールスは、チェックインカウンターに向かった。

 ベースケースを預ける。

 いつもの手続き。

 しかし、今日は特別だった。

 新しい出会いが、待っている。

 搭乗ゲートで、ニールスはコーヒーを飲みながら待っていた。

 ポケットから、娘の写真を取り出した。

 笑顔のアンナ。

 この写真を、いつも持ち歩いている。

 自分の曲「My Little Anna」は、この子への愛の歌だ。

 アルバム『Jaywalkin'』の4曲目。

 あの曲を録音した時のことを思い出す。

 娘への思いが、すべて音楽になった。

 キケロにも、息子がいる。

 しかし、どんな関係なのだろう。

 もうすぐ、会える。

 もうすぐ、わかる。

 搭乗案内が流れた。

 ニールスは、立ち上がった。

 飛行機の窓から、デンマークの冬景色が見えた。

 雪に覆われた大地。

 凍った湖。

 白い世界。

 飛行機が、雲の中に入った。

 窓の外が、真っ白になった。

 ニールスは、目を閉じた。

 キケロの音楽が、頭の中で流れている。

 『Rokoko-Jazz』の「Bach's Softly Sunrise」。

 速くて、軽快で、しかし深い。

 『Eugen Cicero plays Schubert』の「Ave Maria」。

 優しくて、美しくて、しかし孤独。

 どんな人なんだろう。

 どんな音楽家なんだろう。

 レコードでは、わからない。

 会って、話して、音楽を一緒に作って、初めてわかる。

 飛行機が、雲を抜けた。

 窓の外に、青い空が広がった。

 一時間半後、飛行機はベルリン・テーゲル空港に着陸した。

 ニールスは、荷物を受け取った。

 ベースケース。無事だった。

 空港を出ると、冷たい空気が顔を打った。

 ベルリンの冬。

 コペンハーゲンと同じくらい寒い。

 タクシーに乗った。

「ホテル・アム・クアフュルステンダムまで」ニールスは言った。

 タクシーが、走り始めた。

 窓の外の景色。

 ベルリンの街。

 大きな建物。広い通り。

 しかし、どこか重い雰囲気があった。

 そして、見えた。

 壁。

 灰色のコンクリートの壁。

 高さ三メートル以上。

 街を、真っ二つに分断している。

 ニールスは、息を飲んだ。

「あれが、ベルリンの壁か」彼は囁いた。

 運転手が、振り返った。

「そうです。1961年から、あの壁があります」

「なぜ、壁を?」

「東と西を、分けるためです」運転手は答えた。「政治です。イデオロギーです」

 ニールスは、黙って壁を見つめた。

 人々を分ける壁。

 家族を引き裂く壁。

 しかし、音楽に壁はない。

 今夜、この街で、音楽が壁を超える。

 ホテルに着いた。

 チェックインを済ませた。

 部屋は、五階。

 窓からの景色。

 ベルリンの街が、広がっている。

 そして、遠くに、壁が見えた。

 灰色の線。

 ニールスは、ベースケースを開けた。

 楽器を取り出す。

 弦の状態を確認する。

 問題ない。

 調弦する。

 音が、部屋に響く。

 明日の午後、リハーサル。

 ジ・オンというクラブで。

 そこで、キケロと初めて会う。

 そして、トニー・インザラコとも。

 三人で、音楽を作る。

 どんな音楽が生まれるのだろう。

 わからない。

 しかし、それでいい。

 夕方、ニールスは一人でホテルの近くを散歩した。

 クアフュルステンダム通り。

 カフェ、レストラン、劇場。

 多くの人が歩いている。

 しかし、どこか緊張した雰囲気があった。

 ニールスは、カフェに入った。

 コーヒーを注文した。

 窓際の席に座って、街を眺めた。

 この街には、歴史がある。

 戦争。破壊。分断。

 しかし、それでも、人々は生きている。

 音楽も、生きている。

 ニールスは、ポケットから娘の写真を取り出した。

 見つめる。

 アンナの笑顔。

 この子のために、音楽がある。

 この子のために、帰る場所がある。

 キケロには、何があるのだろう。

 息子がいる、とベーレントは言っていた。

 しかし、家庭は、どうなっているのだろう。

 ベーレントは、多くを語らなかった。

 しかし、音楽を聴けば、わかる。

 あの孤独は、何かを物語っている。

 ニールスは、写真をポケットに戻した。

 そして、コーヒーを飲んだ。

 夜、ホテルの部屋に戻った。

 ニールスは、ベッドに座って、ベースを抱えた。

 弾く。

 メロディを探す。

 しかし、何も出てこなかった。

 頭の中が、空っぽだった。

 いや、空っぽではない。

 期待と、不安でいっぱいだった。

 明日、キケロに会う。

 どんな人なんだろう。

 何を話すのだろうか。

 それとも、黙って音楽を作るのだろうか。

 わからない。

 ニールスは、ベースを置いた。

 窓の外を見た。

 ベルリンの夜景。

 街の灯り。

 しかし、壁の向こうは、暗かった。

 分断された街。

 しかし、明日、音楽で一つになる。

 東欧から来たピアニスト。

 北欧から来たベーシスト。

 スイス系アメリカ人のドラマー。

 三人が、音楽で対話する。

 言葉はいらない。

 音楽が、すべてを語る。

 ニールスは、ベッドに横になった。

 目を閉じた。

 しかし、眠れなかった。

 明日が、楽しみだった。

 明日が、怖かった。

 しかし、それでいい。

 音楽家の人生は、常にそうだ。

 期待と不安の間で、前に進む。

 そして、ステージに立った時、すべてが消える。

 ただ、音楽だけが残る。

 ニールスは、深呼吸した。

 そして、ゆっくりと眠りに落ちていった。

 明日、新しい音楽が生まれる。

 明日、新しい出会いがある。

 明日、ベルリンの夜に、音楽が響く。




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