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第二十九話 決断

 1977年1月末。コペンハーゲン。

 ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセンは、自宅のリビングルームで、オイゲン・キケロのレコードを繰り返し聴いていた。

 『Rokoko-Jazz』を三回。

 『Swinging Tschaikowsky』を二回。

 『Eugen Cicero plays Schubert』を四回。

 聴けば聴くほど、この音楽家の深さが見えてきた。

 表面的には、軽快なスウィング・ジャズ。

 しかし、その裏には、何か重いものがある。

 故郷を失った者の孤独。

 それでも音楽を続ける者の強さ。

 ニールスは、ベースを手に取った。

 『Rokoko-Jazz』のA面一曲目、「Bach's Softly Sunrise」を流しながら、一緒に弾いてみた。

 キケロのピアノが、C.P.E.バッハのソルフェジェットを弾く。

 速い。正確。しかし、遊び心もある。

 ニールスのベースが、ウォーキング・ベースラインを刻む。

 合う。

 完璧に合う。

 キケロのピアノは、予測可能なようで、予測不可能だった。

 クラシックの構造がある。しかし、ジャズの自由もある。

 ニールスは、そのバランスを感じ取った。

 これは、面白い。

 非常に、面白い。

 その夜、ニールスはケニー・ドリューに電話した。

「ケニー、相談がある」

「何だ?」

「ベルリンでライブ録音の話がある。オイゲン・キケロというピアニストと」

「キケロ?」ケニーは考えた。「ああ、東欧のピアニストだろう?クラシックをジャズにする」

「知ってるのか?」

「レコードは聴いたことがある。技術は、すごい」ケニーは言った。「シューベルトをスウィングさせるなんて、普通じゃできない」

「やったことあるのか?」

「いや。でも、彼のアルバムは聴いた。特にシューベルトのやつ」ケニーは続けた。「あれは、ただの編曲じゃない。シューベルトにスウィングを思い出させてる」

 ニールスは、驚いた。

「俺も、全く同じことを思った」

「そうだろう?」ケニーは笑った。「だから、面白いんだ」

「ベーレントから、オファーがあった。2月初旬、ベルリンでライブ録音」

「やるのか?」

「迷ってる」ニールスは正直に答えた。「彼の音楽は素晴らしい。でも、何か...掴めないものがある」

「それは、良いことだ」ケニーは言った。

「良いこと?」

「ああ。音楽家として、わからないものに挑戦するのは、成長のチャンスだ」

 ニールスは、黙っていた。

「NHØP、お前は今、自分の道を探してるだろう?」ケニーは続けた。

「ああ」

「だったら、行け。キケロは、お前とは全く違うバックグラウンドを持ってる。東欧、クラシック、亡命。お前には、デンマーク、ジャズ、家族がある」

「その違いが、何を生むんだ?」

「わからない」ケニーは笑った。「でも、それが面白いんだ。行って、確かめてこい」

 翌日、ニールスは娘のアンナを学校に送った後、一人で港を歩いていた。

 冬の港。冷たい風。

 しかし、空は晴れていた。

 ニールスは、ベンチに座った。

 ポケットから、娘の写真を取り出した。

 アンナ。

 自分には、この子がいる。

 家族がいる。

 帰る場所がある。

 キケロには、何があるのだろう。

 ベーレントが言っていた。「音楽に生きている人です」

 それは、美しい。

 しかし、同時に、孤独でもある。

 ニールスは、写真をポケットに戻した。

 そして、決心した。

 行こう。

 ベルリンに。

 キケロという音楽家に会いに。

 そして、音楽で対話しよう。

 言葉はいらない。

 ベースとピアノで、すべてが伝わる。

 その夜、ニールスは家族と夕食を囲んでいた。

 ソルヴェイグが、聞いた。

「ベルリン、行くことに決めたの?」

「ああ」ニールスは頷いた。

「いつ?」

「2月初旬。三日間だけだ」

「短いのね」

「ライブ録音だから」ニールスは説明した。「リハーサルが一日。ライブが三日間」

 娘のアンナが、顔を上げた。

「パパ、ベルリンって何?」

「ドイツの街だよ」

「遠いの?」

「そんなに遠くない。飛行機で一時間半くらい」

「すぐ帰ってくる?」

「すぐ帰ってくる」ニールスは娘の頭を撫でた。「約束する」

 食事の後、ニールスとソルヴェイグは二人でリビングルームに座っていた。

「ニールス」ソルヴェイグが言った。「あなた、何か変わったわね」

「変わった?」

「ええ。オスカーとのツアーが終わってから、迷ってた。でも、今は違う」

「そうかもしれない」ニールスは微笑んだ。「自分が何をすべきか、少しずつ見えてきた」

「それは、何?」

「北欧の音楽家として、自分の音楽を作ること」ニールスは答えた。「アメリカのジャズを真似るのではなく、自分のルーツを大切にすること」

「キケロとの演奏も、その一部?」

「そうだ」ニールスは頷いた。「彼は東欧から来た。クラシックのバックグラウンドがある。俺は北欧から来た。ジャズのバックグラウンドがある」

「その違いが、何を生むの?」

「わからない」ニールスは正直に答えた。「でも、それが楽しみなんだ」

 翌朝、ニールスはベーレントに電話した。

「ベーレントさん、正式にお受けします」

「素晴らしい!」ベーレントは喜んだ。「詳細を送ります」

「一つ、お願いがあります」

「何でしょう?」

「キケロさんに、事前に会えませんか?」ニールスは尋ねた。「ベルリンに行く前に、少し話をしたい」

「難しいですね」ベーレントは答えた。「彼は今、ミュンヘンにいます。ツアー中です」

「では、ベルリンで」

「ええ。リハーサルの日に、ゆっくり話せます」

 電話を切った後、ニールスはベースケースを開けた。

 楽器を点検する。

 弦の状態。ネックの反り。

 すべて、完璧だった。

 この相棒と、ベルリンに行く。

 壁のある街。

 分断された街。

 しかし、音楽に壁はない。

 東欧から来たピアニストと、北欧から来たベーシストが、音楽で一つになる。

 ニールスは、ベースを抱きしめた。

 準備は、できた。

 週末、ニールス一家は、ウーステッドの実家を訪れた。

 ニールスは、父に報告した。

「来週、ベルリンに行きます」

「ベルリン?」父のハンスは尋ねた。

「ライブ録音です。オイゲン・キケロというピアニストと」

「キケロ?聞いたことがない」

「東欧から亡命してきた音楽家です。クラシックとジャズを融合させています」

 父は、息子を見た。

「お前、楽しみにしてるな」

「はい」ニールスは微笑んだ。「新しい挑戦です」

「それは、良いことだ」父は言った。「音楽家は、常に新しいものに挑戦しなければならない」

 夕食の後、ニールスは父と二人で、教会を訪れた。

 オルガンの前に座った。

 父が、「Dejlig er jorden」を弾き始めた。

 ニールスは、その音を聞いていた。

 シンプルな賛美歌。

 しかし、深い。

 この音楽が、自分のルーツだ。

 これを忘れずに、ベルリンに行こう。

 演奏が終わった後、父が言った。

「ニールス、お前はこの教会で育った。この音楽で育った」

「はい」

「それを、忘れるな」父は続けた。「どこに行っても、どんな音楽を演奏しても、お前のルーツは、ここにある」

「わかっています」

「ベルリンで、お前の音楽を聞かせてこい」

 ニールスは、頷いた。

 1月最後の日。

 ニールスは、自宅で荷造りをしていた。

 ベースケース。

 着替え。

 娘の写真。

 すべて、準備ができた。

 ソルヴェイグが、部屋に入ってきた。

「準備、できた?」

「ああ」

「気をつけてね」

「大丈夫だよ。三日間だけだ」

 ソルヴェイグは、夫を抱きしめた。

「素晴らしい演奏をしてきてね」

「ありがとう」

 その夜、ニールスは一人でベースを弾いていた。

 新しいメロディ。

 まだ、形になっていない。

 しかし、何か生まれようとしている。

 ベルリンで、何が起こるのだろう。

 キケロとの出会いで、何が生まれるのだろう。

 わからない。

 しかし、それでいい。

 音楽は、予測できない。

 だから、美しい。

 ニールスは、ベースを置いた。

 そして、窓の外を見た。

 雪が、また降り始めていた。

 白い世界。

 しかし、その向こうに、新しい世界が待っている。

 ベルリン。

 明後日、出発する。





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