第二十八話 ベルリンからの電話
1977年1月下旬。コペンハーゲン。
雪が降っていた。
ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセンは、自宅のリビングルームで、ベースを弾いていた。
窓の外では、雪が静かに積もっていく。
白い世界。
電話が鳴った。
ニールスは、ベースを置いて、受話器を取った。
「もしもし」
「ニールス・ペデルセンさんですか?」
ドイツ語訛りの英語。聞き覚えのない声。
「はい」
「私は、ヨアヒム・ベーレントと申します。ドイツのジャズ・プロデューサーです」
ニールスは、その名前を知っていた。
ドイツ・ジャズ界の重鎮。多くの伝説的なアルバムをプロデュースしてきた人物。
「ベーレントさん、どうされましたか?」
「突然のお電話で、申し訳ありません」ベーレントは言った。「あなたに、お願いがあります」
「お願い?」
「はい。2月初旬、ベルリンでライブ録音を企画しています。そこで、あなたのベースが必要なんです」
ニールスは、興味を持った。
「ベルリンで?どんなプロジェクトですか?」
「オイゲン・キケロというピアニストをご存知ですか?」
ニールスは、考えた。
「いいえ。聞いたことがありません」
「東欧出身のピアニストです。クラシックとジャズを融合させています」ベーレントは説明した。「非常にユニークな音楽家です」
「クラシックとジャズ?」
「ええ。バッハ、モーツァルト、シューベルト、スカルラッティをジャズにアレンジする。しかし、ただのアレンジではありません。完全に自由なインプロヴィゼーションです」
ニールスは、さらに興味を持った。
「面白そうですね」
「彼には、世界最高のリズムセクションが必要です」ベーレントは続けた。「そして、私はあなたを推薦したい」
「なぜ、僕を?」
「あなたのベースは、クラシックの素養がある」ベーレントは答えた。「ECMでのポール・ブレイとの録音を聴きました。あの空間の使い方。一音一音の明瞭さ。それが、キケロには必要なんです」
ニールスは、黙っていた。
「ドラムスは、トニー・インザラコです」ベーレントは言った。「スイス系アメリカ人。精緻で、力強い」
「インザラコ?」ニールスは記憶を辿った。「1975年、チューリッヒでデクスター・ゴードンと一緒に演奏したことがある」
「そうです!『Swiss Nights』のライブ録音ですね」ベーレントは喜んだ。「あなたとインザラコの相性は、すでに証明されています」
ニールスは、考えた。
「キケロの音楽を、聴いたことがないので...」
「送ります」ベーレントは言った。「今すぐ、レコードを送ります。聴いてから、決めてください」
「わかりました」
「ただし」ベーレントは付け加えた。「録音は2月初旬です。時間がありません」
「考えさせてください」
「お待ちしています」
電話が切れた。
ニールスは、受話器を置いた。
ソルヴェイグが、キッチンから顔を出した。
「誰から?」
「ドイツのプロデューサー。ベルリンでライブ録音がある」
「行くの?」
「わからない。まだ、相手の音楽を聴いてない」
三日後、郵便が届いた。
ドイツからの小包。
中には、三枚のレコードが入っていた。
『Rokoko-Jazz』(1965)
『Swinging Tschaikowsky』(1970)
『Eugen Cicero plays Schubert』(1975)
ニールスは、『Rokoko-Jazz』をターンテーブルに載せた。
針を落とす。
音楽が流れ始めた。
ピアノ、ベース、ドラムス。
しかし、普通のジャズではなかった。
メロディは、C.P.E.バッハ。
しかし、リズムは完全にスウィング。
ピアノが、信じられない速さで走る。
しかし、一音一音がクリア。
クラシックの正確さと、ジャズの自由が、完璧に融合していた。
ニールスは、息を飲んだ。
「これは...面白い」
次に、『Eugen Cicero plays Schubert』を聴いた。
ジャケットを手に取る。
木漏れ日の中で、キケロが上を見て微笑んでいる写真。
背景は、緑の葉と光のボケ。
黒地に金色の文字で「Eugen Cicero plays Schubert」。
1970年代ヨーロッパ・ジャズらしい、優雅なデザイン。
針を落とす。
最初の曲は、「Rosamunde」。
シューベルトのメロディが、スウィングで流れる。
優しく、美しい。
しかし、ただの編曲ではない。
完全に自由なインプロヴィゼーション。
次の曲は、「Ave Maria」。
ニールスは、椅子に深く座り直した。
この曲を、ジャズにするのか。
しかし、流れてきた音楽は、冒涜ではなかった。
祈りだった。
シューベルトのメロディが、そのまま残っている。
しかし、リズムは自由に揺れる。
ピアノが、歌う。
その裏には、何か深いものがあった。
孤独。
そして、祈り。
ニールスは、目を閉じた。
これは、ただの技術ではない。
魂の音楽だ。
曲が終わった後、ニールスはしばらく黙っていた。
そして、囁いた。
「彼はクラシックを弾いているのではない。シューベルトにスウィングを思い出させているんだ」
ニールスは、三枚すべてを聴き終えた。
そして、確信した。
この音楽家は、本物だ。
技術だけではない。
心がある。
魂がある。
しかし、同時に、何か重いものも感じた。
孤独。
深い、深い孤独。
ジャケット写真のキケロは、微笑んでいた。
しかし、その目は、どこか遠くを見ていた。
その夜、ニールスはソルヴェイグと夕食を囲んでいた。
娘のアンナは、もう眠っていた。
「あのピアニスト、どうだった?」ソルヴェイグが尋ねた。
「すごい」ニールスは答えた。「クラシックとジャズを、完璧に融合させてる」
「行くの?ベルリンに」
ニールスは、考えた。
「行きたい。でも...」
「でも?」
「この人の音楽には、何か...孤独がある」
ソルヴェイグは、夫を見た。
「孤独?」
「ああ。技術は完璧だ。美しい。でも、その裏に、深い孤独がある」ニールスは続けた。「『Ave Maria』を聴いた時、感じたんだ。これは祈りだって」
「祈り?」
「そうだ。何かへの、祈り。救いへの、祈り」ニールスは言った。「まるで、音楽だけが、彼の世界なんだ」
「あなたとは、違うのね」
「そうだ」ニールスは頷いた。「俺には、お前とアンナがいる。家族がいる。でも、彼には...」
ソルヴェイグは、夫の手を取った。
「だからこそ、行くべきよ」
「なぜ?」
「あなたの音楽には、家族の温もりがある」ソルヴェイグは言った。「彼の孤独と、あなたの温もりが出会ったら、何か特別なものが生まれるかもしれない」
ニールスは、妻を見た。
「そうかもしれない」
翌朝、ニールスはベーレントに電話した。
「ベーレントさん、ニールス・ペデルセンです」
「ペデルセンさん!レコードは届きましたか?」
「はい。聴きました」
「どうでしたか?」
「やります」ニールスは答えた。「ベルリンに行きます」
ベーレントは、喜んだ。
「素晴らしい!キケロも、あなたと演奏できることを楽しみにしています」
「一つ、質問していいですか?」
「何でしょう?」
「キケロさんは、どんな人ですか?音楽以外で」
ベーレントは、少し黙った。
「難しい質問ですね」彼は答えた。「彼は...非常に複雑な人物です。ルーマニアから亡命してきた。家族を置いてきた。今はドイツで妻と息子がいますが...」
「ですが?」
「音楽に生きている人です」ベーレントは言った。「すべてを音楽に捧げている。それが、彼の強さであり、弱さでもあります」
電話を切った後、ニールスはポケットから、娘アンナの写真を取り出した。
笑顔のアンナ。
キケロには、息子がいる。
しかし、どんな関係なのだろう。
音楽に生きる父親と、その息子。
ニールスは、写真をポケットに戻した。
ベルリン。
壁のある街。
分断された街。
そこで、東欧から来たピアニストと、北欧から来たベーシストが出会う。
何が生まれるのだろう。
わからない。
しかし、それでいい。
音楽は、予測できない。
だから、美しい。




