第二十六話 冬の帰郷
1976年11月。コペンハーゲン。
ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセンは、自宅のリビングルームで、ベースを抱えて座っていた。
窓の外では、雨が降っていた。冷たい、秋の雨。
もうすぐ冬が来る。
オスカー・ピーターソンとのツアーが終わって、一ヶ月が経っていた。
長い一ヶ月。
しかし、平穏な一ヶ月。
ニールスは、ベースの弦を弾いた。
しかし、メロディが出てこなかった。
何か、足りない。
何か、欠けている。
妻のソルヴェイグが、コーヒーを持ってきた。
「また、弾いてるの?」
「ああ。でも、何も出てこない」
ソルヴェイグは、夫の隣に座った。
「疲れてるのよ。休んだ方がいいわ」
「休んでる。もう一ヶ月も」
「でも、心は休んでない」ソルヴェイグは言った。「あなた、何か探してるでしょう」
ニールスは、窓の外を見た。
「そうかもしれない」
「何を?」
「わからない」
数日後、ニールスはウーステッドに向かった。
列車に揺られて、二時間。
小さな村。変わらない風景。
教会の尖塔が、灰色の空に立っている。
両親の家に着くと、母のマルグレーテが玄関で待っていた。
「ニールス!」彼女は息子を抱きしめた。
父のハンスも出てきた。
「よく来たな。どうした?元気がないぞ」
「大丈夫です」ニールスは微笑んだ。
しかし、父は見抜いていた。
夕食の後、ニールスは父と二人で、暖炉の前に座っていた。
薪がパチパチと音を立てている。オレンジ色の光が、二人の顔を照らしていた。
「ニールス」父が口を開いた。「何があった?」
「何も」
「嘘をつくな。お前は、子供の頃から、困った時は黙る」
ニールスは、炎を見つめた。
「オスカーとのツアーが、終わったんです」
「それは知ってる」
「これから、どうすればいいのか、わからないんです」
父は、黙って聞いていた。
「オスカーと演奏している時は、明確だった。やるべきことが、はっきりしていた」
ニールスは続けた。「でも、今は...」
「自由だな」
「はい。でも、その自由が、怖いんです」
父は、パイプに火をつけた。
「ニールス、お前は三十歳だ。人生で一番大事な時期だ」
「わかっています」
「この時期に、お前は何をしたい?」
ニールスは、考えた。
「音楽を、やりたいです」
「それは、わかってる。でも、どんな音楽だ?」
「―――わかりません」
父は、微笑んだ。
「それを見つけるんだ。それが、お前の仕事だ」
ニールスは、父を見た。
「でも、どうやって?」
「制約があれば、簡単だ」父は言った。
「オスカーのトリオにいれば、役割がある。しかし、自由には役割がない。自分で作らなければならない」
「難しいです」
「そうだ。しかし、それが成長だ」父は続けた。「自由の中で道を見つけた者だけが、本当の音楽家になれる」
翌朝、ニールスは一人で村を歩いていた。
霧が、立ち込めている。
教会、学校、郵便局。
すべてが、小さい。
しかし、すべてが、大切だった。
ここで、自分は生まれた。
ここで、音楽を学んだ。
ここから、世界に旅立った。
そして、いつも、ここに帰ってくる。
ニールスは、教会の前で立ち止まった。
中に入った。
誰もいなかった。
ただ、静寂があった。
ニールスは、オルガンの前に座った。
父が、毎週ここで演奏している。
彼は、鍵盤に触れた。
デンマークの古い賛美歌「Dejlig er jorden」を弾き始めた。
メロディが、教会に響く。
シンプルで、深い。
この歌には、すべてがある。
土地への愛。家族への愛。神への感謝。
そして、ニールスは気づいた。
自分が探しているものは、ここにある。
遠くにあるのではない。
ここに。
自分のルーツに。
演奏が終わった後、ニールスは鍵盤だけを見つめて座っていた。
そして、決心した。
次のアルバムは、ここから始めよう。
デンマークから。
ルーツから。
コペンハーゲンに戻った後、ニールスはケニー・ドリューに電話した。
「ケニー、話がある」
「何だ?」
「次のアルバム、北欧の音楽をやりたい」
ケニーは、興味を示した。
「デンマークの民謡か?」
「ああ。それと、オリジナルも。でも、すべて北欧の魂を入れたい」
「面白いな。やろう」
12月。
クリスマスが近づいていた。
ニールスの自宅には、ツリーが飾られていた。
娘のアンナが、飾り付けを手伝っている。
「パパ、これ、どこに置く?」
「そこがいいんじゃないか」
ソルヴェイグが、キッチンから顔を出した。
「ニールス、最近、元気になったわね」
「そうかな」
「ええ。何か見つけたみたい」
ニールスは、微笑んだ。
「まだ、完全には見つけてない。でも、方向は見えた」
「それは、良かったわ」
クリスマスイブ。
ニールス一家は、ウーステッドの実家にいた。
両親、ニールス、ソルヴェイグ、アンナ。
五人で、夕食を囲んでいた。
母の手料理。伝統的なデンマークのクリスマス料理。
アンデ(ローストダック)、リゼンゴレ(ライスプディング)。
食事の後、父が聖書を読んだ。
そして、みんなで賛美歌を歌った。
ニールスは、この瞬間を大切にした。
これが、自分のルーツだ。
これが、自分の音楽の源だ。
世界中を旅しても、ここが帰る場所だ。
夜、子供たちが眠った後、ニールスは父と二人で、外に出た。
雲が晴れていた。満天の星空。
息が白い。
「ニールス」父が言った。
「お前、答えを見つけたか?」
「まだ、完全には」ニールスは答えた。「でも、方向は見えました」
「それは、何だ?」
「ルーツです。自分がどこから来たのか。それを、音楽で表現したい」
父は、頷いた。
「それが、正しい」
「でも、怖いんです」ニールスは言った。
「オスカーのような巨人と演奏するのとは、違う。自分一人で、道を作らなければならない」
「それが、成長だ」父は言った。「お前は、もう生徒じゃない。先生だ」
ニールスは、父を見た。
「先生?」
「ああ。これから、お前は自分の音楽で、人々に何かを教える。それが、お前の役割だ」
二人は、しばらく星を見上げていた。
冬の星座。オリオン。カシオペア。
無限の空。
しかし、ニールスの足は、大地に根付いていた。
この土地。この国。この家族。
それが、彼の音楽の土台だった。
年末。
ニールスは、自宅で一人、ベースを弾いていた。
新しいメロディ。
北欧の冬の静けさ。雪の白さ。家族の温もり。
すべてが、音楽になった。
ソルヴェイグが、階段から降りてきた。
「綺麗な曲ね」
「新しい曲だよ」
「タイトルは?」
ニールスは、考えた。
「まだ、決めてない。でも、これは、故郷への歌だ」
ソルヴェイグは、夫の隣に座った。
「あなた、見つけたのね。探してたもの」
「まだ、途中だよ。でも、道は見えた」
「良かったわ」
窓の外では、また雨が降り始めていた。
1976年が、終わろうとしていた。
そして、1977年が、始まろうとしていた。
ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセンは、新しい道に足を踏み出そうとしていた。
ルーツを胸に。
家族と共に。
音楽と共に。




