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第二十五話 オスカーとの最後のツアー

 1976年、秋。ロンドン、ヒースロー空港。

ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセンは、荷物受取所でベースケースを待っていた。

 オスカー・ピーターソン・トリオのヨーロッパツアー。

 1974年から3年間、世界中を旅してきた。

 しかし、今回が最後になるかもしれない。

 ニールスは、それを感じていた。

 ポケットに、娘アンナの写真が入っていた。

いつも持ち歩いている。ツアー中、寂しい時、この写真を見る。

ベースケースが、ベルトコンベアに現れた。

重い。しかし、大切な相棒。

ニールスは、それを持ち上げた。

 ホテルに着くと、オスカー・ピーターソンがロビーで待っていた。

五十代。カナダ出身のピアニスト。ジャズ界の巨人。

「NHØP、よく来た」オスカーが握手した。

「オスカー、久しぶり」

「元気そうだな。『Jaywalkin'』、聴いたぞ。『Little Anna』、素晴らしい曲だった」

「ありがとうございます」

「娘さんのための曲だろう?」

「はい」

「良い父親だな」オスカーは微笑んだ。「俺も、子供のことを考えて曲を書いたことがある。その気持ち、わかるよ」

 二人は、ホテルのバーに座った。

 オスカーが、コーヒーを注文した。

「NHØP、今回のツアーについて話したいことがある」オスカーは言った。

「何ですか?」

「俺は、ツアーのペースを落とそうと思っている」

 ニールスは、驚いた。

「なぜですか?」

「年だよ」オスカーは笑った。「五十を過ぎた。体が、昔のようには動かない」

「でも、演奏は完璧です」

「ありがとう。でも、これからは、もっと選択的にツアーをする」オスカーは続けた。「つまり、お前との定期的なツアーは、これが最後になるかもしれない」

 ニールスは、黙っていた。

「悲しいことじゃない」オスカーは言った。

「お前は、もう俺の生徒じゃない。対等なパートナーだ。そして、お前には自分の道がある」

「でも、オスカー...」

「聞いてくれ」オスカーは身を乗り出した。「お前は、30歳だ。これから、自分の音楽を作る時期だ。俺のトリオにいつまでもいるべきじゃない」

 ニールスは、オスカーを見た。

 師匠。しかし、友人でもある。

「実は」ニールスは言った。「俺も、考えていたんです」

「何を?」

「家族との時間。娘のアンナは、もう六歳です。成長が早い」

「そうだろうな」

「ツアーで家を空けている間に、大きくなってしまう」ニールスは続けた。「その時間は、二度と戻らない」

 オスカーは、頷いた。

「わかる。俺も、子供たちが小さい頃、ツアーばかりしていた。今、後悔してる」

「だから」ニールスは言った。「もっとデンマークにいたい。家族と一緒に」

「それが、正しい選択だ」オスカーは微笑んだ。「じゃあ、この最後のツアー、最高のものにしよう」

「はい」

 ツアーが始まった。

ロンドン、ロニー・スコッツ・ジャズクラブ。

 オスカー・ピーターソン・トリオ。

 ピアノ:オスカー・ピーターソン。

 ギター:ジョー・パス。

 ベース:ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセン。

 ドラムレス編成。三人だけ。

 満員の観客。

 オスカーが、ステージに出た。

 拍手。

 ニールスとジョーも、続いた。

 最初の曲は、「C Jam Blues」。

 オスカーのピアノが、テーマを弾く。

 ニールスのベースが、ウォーキング・ベースを刻む。

 ジョーのギターが、コードを奏でる。

 三人が、一つになった。

 しかし、今夜は特別だった。

 ニールスは、いつもより自由に弾いていた。

 オスカーのピアノと対等に会話する。

 時には、リードを取る。

 オスカーが、驚いたように振り返った。

 そして、微笑んだ。

 これだ。

 これが、オスカーが望んでいたことだった。

 曲が終わった。

 拍手が爆発した。

 パリ、オランピア劇場。

 二日目のコンサート。

 曲目は、「You Look Good to Me」。

 オスカーのオリジナル。

 しかし、今夜の演奏は、これまでと違った。

 ニールスのベースソロが、長かった。

 メロディックで、歌うようなベース。

 観客が、息を飲んで聞いていた。

 3本指を使った超絶技巧。

 ベースが、まるでもう一つのメロディ楽器のように歌う。

 ソロが終わった後、オスカーが弾き始めた。

 しかし、ニールスのソロに触発されて、いつもより情熱的だった。

 ピアノとベースが、対話する。

 対等な対話。

 ジョーのギターが、その間を埋める。

 三人の音が、完璧に調和した。

 曲が終わった後、オスカーが立ち上がって、ニールスを指差した。

 観客が、スタンディング・オベーション。

 ニールスは、照れながらお辞儀をした。

 アムステルダム、コンセルトヘボウ。

 ツアー最終日の前日。

 楽屋で、オスカーとニールスは二人きりだった。

 ジョーは、外で友人と話していた。

「NHØP、お前、変わったな」オスカーが言った。

「変わった?」

「ああ。もっと自信がある。もっと自由だ」

「それは、オスカー、あなたのおかげです」

「いや」オスカーは首を振った。「お前自身が掴み取ったんだ」

 ニールスは、黙っていた。

「1974年、初めて一緒に演奏した時のこと、覚えてるか?」オスカーが尋ねた。

「もちろんです」

「お前は、緊張してた。でも、俺はすぐにわかった。お前には、何か特別なものがあるって」

「ありがとうございます」

「この3年間、お前は成長した」オスカーは続けた。「もう、俺の影に隠れる必要はない。お前自身が、太陽だ」

 ニールスは、目頭が熱くなった。

「オスカー、俺は...」

「言葉はいらない」オスカーは手を上げた。

「明日の最終公演、楽しもう。そして、その後、お前は自分の道を行け」

「でも、またいつか一緒に?」

「もちろん」オスカーは微笑んだ。「いつでも、お前を呼ぶ。でも、お前の人生は、お前のものだ」

 1976年10月15日。アムステルダム、コンセルトヘボウ。

 ツアー最終日。

 ニールスは、楽屋で一人、ベースの調弦をしていた。

 ポケットから、娘の写真を取り出した。

 見つめる。

 アンナの笑顔。

「今夜は、お前のためにも弾くよ」彼は囁いた。

 写真をポケットに戻した。

 ドアがノックされた。

 オスカーが入ってきた。

「準備はいいか?」

「はい」

 コンサートが始まった。

 満員の観客。

 最初から最後まで、素晴らしい演奏だった。

 そして、最後の曲。

「Hymn to Freedom」。

 オスカーのオリジナル。深く、美しい曲。

 三人の演奏が、一つになった。

 ニールスのベースが、大地のように支える。

 オスカーのピアノが、空のように広がる。

 ジョーのギターが、その間を飛ぶ。

 音楽が、自由を歌う。

 曲が終わった。

 長い沈黙。

 それから、拍手が爆発した。

 スタンディング・オベーション。

 観客全員が立ち上がった。

 オスカーが、立ち上がって、ニールスとジョーを抱きしめた。

「よくやった」オスカーが囁いた。

 コンサートの後、楽屋で。

 三人は、シャンパンで乾杯した。

「素晴らしいツアーだった」ジョーが言った。

「ああ」オスカーも頷いた。「最高の終わり方だ」

 ニールスは、グラスを持ったまま、言葉が出なかった。

「NHØP、泣くなよ」オスカーが笑った。

「泣いてません」ニールスは目を拭いた。

「これは、終わりじゃない」オスカーは言った。「新しい始まりだ。お前の、新しいchapterの始まりだ」

「でも、オスカー、あなたとの演奏は...」

「また一緒に演奏する」オスカーは遮った。

「いつか。しかし、お前は今、自分の音楽を作る時期だ。そして、家族との時間を作る時期だ」

 ニールスは、頷いた。

「ありがとうございます。すべてに」

「こちらこそ、ありがとう」オスカーは言った。「お前と演奏できて、幸せだった」

 翌朝、アムステルダムの空港。

 オスカーとジョーは、カナダとアメリカに帰る。

 ニールスは、コペンハーゲンに帰る。

 別れの時。

 三人は、握手した。

「また会おう」オスカーが言った。

「必ず」ニールスは答えた。

 オスカーとジョーが、搭乗ゲートに向かって歩いていく。

 ニールスは、その背中を見送った。

 師匠。友人。仲間。

 3年間、一緒に旅してきた。

 そして、今、別れの時。

 しかし、これは終わりではない。

 新しい始まりだ。

 ニールスは、自分の搭乗ゲートに向かった。

 コペンハーゲンへ。

 家族が待っている。

 そして、新しい音楽が待っている。

 ポケットの中で、娘の写真に触れた。

 次は、何だろう。

 どこへ行くのだろう。

 わからない。

 しかし、それでいい。

 音楽家の人生は、常に旅だから。

 そして、旅は続く。

 家族と共に。

 音楽と共に。





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