第二十四話 ケニーとの午後
1976年、夏。コペンハーゲン、モンマルトル。
ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセンは、ジャズハウス・モンマルトルの楽屋にいた。
十五年前、十五歳でここでデビューした。
壁に貼られた古いポスター。色褪せた写真。
変わらない階段。変わらないドア。
タバコと、ビールと、何か温かいものの匂い。
ドアが開いた。
ケニー・ドリューが入ってきた。
四十代後半。アメリカ出身のピアニスト。しかし、もう二十年近くヨーロッパに住んでいた。
「NHØP、久しぶり」ケニーが握手した。
「ケニー、元気だった?」
「ああ。お前は?『Jaywalkin'』、良いアルバムだったぞ」
「ありがとう。『My Little Anna』、気に入ってくれた?」
「ああ。娘さんへの愛が伝わってきた」ケニーは微笑んだ。「俺も、家族のために曲を書いたことがある。その気持ち、わかるよ」
二人は、ステージに向かった。
今夜は、特別なセッション。招待客だけの、プライベートな夜。
ベースとピアノ。デュオ。
シンプルだが、誤魔化しが効かない編成。
セッションが始まった。
最初の曲は、「Autumn Leaves」。
ケニーのピアノが、イントロを弾く。
ニールスのベースが入る。
二人の音が、絡み合う。
会話のような演奏。
ケニーが質問する。ニールスが答える。
ニールスが提案する。ケニーが応える。
言葉はない。しかし、対話がある。
曲が終わった。
小さな拍手。
観客は、三十人ほど。しかし、みんな真剣に聞いていた。
次の曲は、「My Little Anna」。
ニールスのオリジナル。
ケニーは、この曲をすぐに理解した。
今夜の演奏は、特別だった。
ケニーのピアノが、メロディを優しく包む。
ニールスのベースが、大地のように支える。
デンマークの魂が、音楽になった。
曲が終わった後、長い沈黙。
それから、拍手。
セッションが終わった後、二人は楽屋で座っていた。
ビールを飲みながら。
「良い夜だったな」ケニーが言った。
「ああ」
「お前のベース、変わったな」
「変わった?」ニールスは尋ねた。
「ああ。もっと...歌ってる」ケニーは答えた。「技術は前からすごかった。でも、今は違う。心がある」
ニールスは、黙っていた。
「それが、他の誰とも違うんだ」ケニーは続けた。
「世界中に素晴らしいベーシストがいる。レイ・ブラウン、ロン・カーター、チャーリー・ヘイデン。でも、お前のベースは歌う。それが特別なんだ」
「ありがとう、ケニー」
ケニーは、ビールを一口飲んだ。
「でも、お前、何か探してるな」
ニールスは、驚いた。
「なぜ、わかる?」
「音楽に出てる。満足してない。もっと何か、求めてる」
ニールスは、グラスを見つめた。
「そうなんだ。でも、それが何かわからない」
「それは、良いことだ」ケニーは言った。
「良いこと?」
「ああ。満足したら、成長が止まる」ケニーは微笑んだ。
「音楽家は、常に何かを探してる。それが、俺たちを生かしてるんだ」
二人は、モンマルトルを出た。
夏の夜。まだ明るい。
コペンハーゲンの街を、ゆっくりと歩いた。
「ケニー、お前はなぜヨーロッパに残ったんだ?」ニールスは尋ねた。
ケニーは、アメリカで成功していた。しかし、1960年代にヨーロッパに移住した。
「アメリカは、競争が激しすぎた」ケニーは答えた。
「みんな、スターになりたがってる。俺は、ただ音楽をやりたかった」
「ヨーロッパは違う?」
「ああ。ここでは、音楽家は尊敬される。芸術家として」ケニーは立ち止まった。
「アメリカでは、エンターテイナーだ。ヨーロッパでは、アーティストだ」
ニールスは、頷いた。
「俺も、それを感じる」
二人は、運河沿いのベンチに座った。
水が、粛々(しゅくしゅく)と流れている。
「NHØP、俺たち、何枚一緒に録音したっけ?」ケニーが尋ねた。
「えっと」ニールスは指を折った。「73年に『Duo』と『Everything I Love』。74年に『Duo 2』と『Duo Live in Concert』と『Dark Beauty』。そして去年『If You Could See Me Now』」
「六枚か」ケニーは頷いた。「でも、一枚一枚、覚えてる。特別だった」
「『Dark Beauty』、日本で大ヒットしたって聞いたよ」
「そうだ。日本人は、良い耳を持ってる」ケニーは笑った。
「あのアルバムは、何か特別なものがあった」
「アルバート・ヒースのドラムスも、素晴らしかった」
「ああ。でも、一番素晴らしかったのは、お前のベースだ」ケニーは言った。
「お前は、ベースを歌わせる。それが、あのアルバムを特別にした」
ニールスは、友人を見た。
ケニー・ドリュー。1973年から一緒に演奏してきた。
言葉はいらなかった。
音楽で、すべてが伝わる。
「ケニー」ニールスは言った。
「お前と演奏する時、俺は自由だ」
「俺もだ」
「オスカーとのツアーは素晴らしい。でも、プレッシャーもある」ニールスは続けた。「お前との演奏は、違う。友情がある。信頼がある」
「それが、音楽の基本だ」ケニーは言った。
「技術じゃない。心だ」
夜、ニールスは一人で家に帰った。
ソルヴェイグと子供は、すでに眠っていた。
ニールスは、リビングルームで、ベースを抱えて座った。
しかし、弾かなかった。
ただ、考えていた。
ケニーの言葉。
「満足したら、成長が止まる」
そうだ。
自分は、まだ満足していない。
オスカー・ピーターソンとの演奏。グラミー賞。『Jaywalkin'』。ケニーとの六枚のアルバム。
すべて、素晴らしかった。
しかし、まだ何かが足りない。
次は、何だろう。
どこへ行くべきなのだろう。
ニールスは、窓の外を見た。
夏の夜。空が、ゆっくりと暗くなっていく。
しかし、完全には暗くならない。デンマークの夏の夜。
音楽は、終わらない。
探求も、終わらない。
そして、どこかで、答えが待っている。
数日後、ニールスは再びケニーと会った。
今度は、カフェで。
新しいプロジェクトの打ち合わせ。
「ケニー、フィリップ・キャサリンって知ってるか?」ニールスは尋ねた。
「ギタリストの?ベルギーの」
「ああ。彼と一緒に、何か録音したいと思ってる」
ケニーは、興味を示した。
「面白いな。ピアノ、ベース、ギター」
「デュオじゃなく、トリオだ」ニールスは言った。「もっと色彩豊かな音楽ができる」
「やろう」ケニーは即答した。「いつやる?」
「今年中に。アルバムタイトルは『Morning』にしようと思ってる」
「良い名前だ」
二人は、コーヒーを飲みながら、新しい音楽について話し合った。
可能性は、無限だった。
その夜、ニールスは家族と夕食を囲んでいた。
ソルヴェイグが作った、デンマークの伝統料理。
アンナが、笑いながら食べている。
ニールスは、この瞬間を大切にした。
家族がいる。
音楽がある。
友人がいる。
それで十分なはずだった。
しかし、心の奥底には、まだ何かがあった。
次への期待。
新しい音楽への渇望。
それが、消えることはなかった。
食事の後、ソルヴェイグが尋ねた。
「今日、ケニーと何を話したの?」
「新しいアルバムのこと。フィリップ・キャサリンと一緒に」
「ギタリストの?」
「ああ。新しい音楽を作りたいんだ」
ソルヴェイグは、夫の手を取った。
「あなた、最近、生き生きしてるわね」
「そうかな?」
「ええ。何か新しいことを見つけたみたい」
ニールスは、微笑んだ。
「まだ、見つけてない。でも、探してる」
「見つかるといいわね」
「ああ。いつか、必ず」




