第二十三話 コペンハーゲンの日々
【第23話〜第30話 ニールス編Part②】
1976年、春。コペンハーゲン。
ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセンは、自宅の庭で、娘のアンナと遊んでいた。
六歳になったアンナが、ボールを投げている。
「パパ、キャッチして!」
ニールスは、ボールを受け取った。そして、投げ返した。
春の陽光。芽吹き始めた木々。
デンマークの短い春。しかし、美しい。
妻のソルヴェイグが、窓から顔を出した。
「ニールス、お茶ができたわよ」
「今行く」
リビングルームで、ニールスとソルヴェイグは向かい合って座っていた。
「オスカーからの連絡は?」ソルヴェイグが尋ねた。
「ああ。秋にヨーロッパツアーがある」
「参加するの?」
「まだ、決めてない」ニールスは答えた。
ソルヴェイグは、夫を見た。
「どうしたの?いつもなら、すぐに返事するのに」
「最近、考えることがあるんだ」
「何を?」
ニールスは、コーヒーカップを見つめた。
「音楽と、家族。どちらを優先すべきか」
「それは...」ソルヴェイグは言葉を探した。「難しい質問ね」
「オスカーとのツアーは、素晴らしい。世界中を回れる。最高の音楽ができる」ニールスは続けた。「でも、家族と離れている時間が、長すぎる」
ソルヴェイグは、夫の手を取った。
「アンナは、あなたが帰ってくるのをいつも待ってるわ」
「わかってる。だから、辛いんだ」
「でも」ソルヴェイグは微笑んだ。「あなたは、素晴らしい父親よ。アンナは、あなたを誇りに思ってる」
「本当に?」
「ええ。昨日、学校で『お父さんの仕事は何?』って聞かれて、『世界中で音楽を演奏してる』って答えたら、みんな驚いてたわ」
ニールスは、微笑んだ。
「それは、嬉しいな」
ある日、ニールスはアンナを連れて、コペンハーゲンの港を散歩していた。
港には、船が並んでいた。大きな貨物船、小さな漁船。
カモメが、空を飛んでいた。
「パパ、船、大きいね」アンナが言った。
「ああ。あの船は、世界中を旅するんだ」
「パパも、世界中を旅してるの?」
「そうだよ。アメリカ、日本、ヨーロッパ中」
「すごいね」アンナは父の手を握った。「でも、寂しくない?」
ニールスは、娘を見た。
「寂しい。でも、いつもアンナのことを考えてる」
「本当?」
「本当だよ。だから、『My Little Anna』って曲を作ったんだ。覚えてる?」
「うん!私の曲」
「そう。ツアーに行く時、いつもアンナの写真を持って行くんだ」ニールスは言った。「そして、演奏する時、心の中でお前に聴かせてる」
アンナは、嬉しそうに笑った。
「パパ、大好き」
「僕も、アンナが大好きだ」
夜、子供が眠った後、ニールスは一人でベースを弾いていた。
リビングルームで、小さな音で。
ソルヴェイグが、階段から降りてきた。
「まだ起きてたの?」
「ああ。眠れなくて」
「何を弾いてるの?」
「わからない」ニールスは答えた。「ただ、指が動くままに」
ソルヴェイグは、夫の隣に座った。
「最近、考え事が多いみたいね」
「ああ」
「オスカーのツアーのこと?」
「それもある。でも、それだけじゃない」
ニールスは、ベースを置いた。
「この5年間、オスカーと世界中を旅してきた。グラミー賞も獲った。『Jaywalkin'』も出した」
「でも?」
「でも、次は何だろう?」ニールスは言った。「ずっとオスカーのトリオにいるべきなのか。それとも、自分の道を探すべきなのか」
ソルヴェイグは、夫の手を取った。
「あなたは、まだ三十歳よ。焦らなくていい」
「わかってる。でも、音楽家として、次のステップに行きたい」
「それは、何?」
「わからない」ニールスは微笑んだ。「だから、探してるんだ」
週末、ニールス一家は、コペンハーゲンの北にある森へピクニックに出かけた。
デンマークの森。白樺の木、苔むした地面。
アンナが、木の間を走り回っている。
ニールスとソルヴェイグは、ブランケットの上に座っていた。
「ここ、素敵ね」ソルヴェイグは言った。
「ああ。デンマークの自然は、穏やかだ」
「あなた、ここが好きでしょう?」
「大好きだ」ニールスは頷いた。「世界中のどこよりも」
アンナが、駆け寄ってきた。
「パパ、見て!」小さな花を持っていた。
「綺麗だね」
「お母さんにあげる」アンナは、花をソルヴェイグに渡した。
ソルヴェイグは、娘を抱きしめた。
ニールスは、この光景を見つめていた。
これが、幸せだ。
しかし、心の奥底には、まだ何かがあった。
満たされない、何か。
それが、何なのか、まだわからなかった。
夏が近づいてきた。
デンマークの夏は、特別だった。
日が長い。夜十時でも、まだ明るい。
白夜に近い、不思議な季節。
ある夜、ニールスは一人で、コペンハーゲンの街を歩いていた。
午後九時。しかし、空はまだ青い。
運河沿いを歩く。
カフェでは、人々が外のテーブルで食事をしている。
笑い声。会話。
平和な街。
ニールスは、橋の上で立ち止まった。
運河を見下ろす。
水が、ゆっくりと流れている。
この街で生まれた。
この街で育った。
この街から、世界に旅立った。
そして、いつも、この街に帰ってくる。
ここが、自分の場所だ。
オスカーとの世界ツアーは、素晴らしい。
しかし、それは自分の音楽なのだろうか。
ケニーとの録音は、楽しい。
しかし、それで十分なのだろうか。
ニールスは、空を見上げた。
青い空。白い雲。
夏の夜の、不思議な明るさ。
音楽は、終わらない。
人生が続く限り、音楽も続く。
そして、次の段階が、どこかで待っている。
それを信じて、ニールスは歩き続けた。
コペンハーゲンの夏の夜に。
その週、ニールスはポケットに娘の写真を入れて、レコード店に行った。
自分のアルバム『Jaywalkin'』が、棚に並んでいた。
店員が、気づいた。
「あの、ペデルセンさんですよね?」
「はい」
「『Jaywalkin'』、素晴らしいアルバムです。特に『My Little Anna』が好きです」
「ありがとうございます」
「お子さんに捧げた曲ですか?」
「はい。娘に」ニールスは微笑んだ。
店を出た後、ニールスはベンチに座った。
ポケットから、娘の写真を取り出した。
笑顔のアンナ。
この子のために、音楽がある。
この子のために、家に帰る。
この子のために、生きている。
オスカーとのツアーも、ケニーとの録音も、すべて素晴らしい。
しかし、何よりも大切なのは、家族だ。
ニールスは、写真をポケットに戻した。
そして、立ち上がった。
家に帰ろう。
家族が待っている。




