表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/45

第二十三話 コペンハーゲンの日々

【第23話〜第30話 ニールス編Part②】


 1976年、春。コペンハーゲン。

ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセンは、自宅の庭で、娘のアンナと遊んでいた。

六歳になったアンナが、ボールを投げている。

「パパ、キャッチして!」

ニールスは、ボールを受け取った。そして、投げ返した。

 春の陽光。芽吹き始めた木々。

 デンマークの短い春。しかし、美しい。

 妻のソルヴェイグが、窓から顔を出した。

「ニールス、お茶ができたわよ」

「今行く」

 リビングルームで、ニールスとソルヴェイグは向かい合って座っていた。

「オスカーからの連絡は?」ソルヴェイグが尋ねた。

「ああ。秋にヨーロッパツアーがある」

「参加するの?」

「まだ、決めてない」ニールスは答えた。

 ソルヴェイグは、夫を見た。

「どうしたの?いつもなら、すぐに返事するのに」

「最近、考えることがあるんだ」

「何を?」

 ニールスは、コーヒーカップを見つめた。

「音楽と、家族。どちらを優先すべきか」

「それは...」ソルヴェイグは言葉を探した。「難しい質問ね」

「オスカーとのツアーは、素晴らしい。世界中を回れる。最高の音楽ができる」ニールスは続けた。「でも、家族と離れている時間が、長すぎる」

 ソルヴェイグは、夫の手を取った。

「アンナは、あなたが帰ってくるのをいつも待ってるわ」

「わかってる。だから、辛いんだ」

「でも」ソルヴェイグは微笑んだ。「あなたは、素晴らしい父親よ。アンナは、あなたを誇りに思ってる」

「本当に?」

「ええ。昨日、学校で『お父さんの仕事は何?』って聞かれて、『世界中で音楽を演奏してる』って答えたら、みんな驚いてたわ」

 ニールスは、微笑んだ。

「それは、嬉しいな」

 ある日、ニールスはアンナを連れて、コペンハーゲンの港を散歩していた。

 港には、船が並んでいた。大きな貨物船、小さな漁船。

 カモメが、空を飛んでいた。

「パパ、船、大きいね」アンナが言った。

「ああ。あの船は、世界中を旅するんだ」

「パパも、世界中を旅してるの?」

「そうだよ。アメリカ、日本、ヨーロッパ中」

「すごいね」アンナは父の手を握った。「でも、寂しくない?」

 ニールスは、娘を見た。

「寂しい。でも、いつもアンナのことを考えてる」

「本当?」

「本当だよ。だから、『My Little Anna』って曲を作ったんだ。覚えてる?」

「うん!私の曲」

「そう。ツアーに行く時、いつもアンナの写真を持って行くんだ」ニールスは言った。「そして、演奏する時、心の中でお前に聴かせてる」

 アンナは、嬉しそうに笑った。

「パパ、大好き」

「僕も、アンナが大好きだ」

 夜、子供が眠った後、ニールスは一人でベースを弾いていた。

 リビングルームで、小さな音で。

 ソルヴェイグが、階段から降りてきた。

「まだ起きてたの?」

「ああ。眠れなくて」

「何を弾いてるの?」

「わからない」ニールスは答えた。「ただ、指が動くままに」

 ソルヴェイグは、夫の隣に座った。

「最近、考え事が多いみたいね」

「ああ」

「オスカーのツアーのこと?」

「それもある。でも、それだけじゃない」

 ニールスは、ベースを置いた。

「この5年間、オスカーと世界中を旅してきた。グラミー賞も獲った。『Jaywalkin'』も出した」

「でも?」

「でも、次は何だろう?」ニールスは言った。「ずっとオスカーのトリオにいるべきなのか。それとも、自分の道を探すべきなのか」

 ソルヴェイグは、夫の手を取った。

「あなたは、まだ三十歳よ。焦らなくていい」

「わかってる。でも、音楽家として、次のステップに行きたい」

「それは、何?」

「わからない」ニールスは微笑んだ。「だから、探してるんだ」

 週末、ニールス一家は、コペンハーゲンの北にある森へピクニックに出かけた。

 デンマークの森。白樺の木、苔むした地面。

 アンナが、木の間を走り回っている。

 ニールスとソルヴェイグは、ブランケットの上に座っていた。

「ここ、素敵ね」ソルヴェイグは言った。

「ああ。デンマークの自然は、穏やかだ」

「あなた、ここが好きでしょう?」

「大好きだ」ニールスは頷いた。「世界中のどこよりも」

 アンナが、駆け寄ってきた。

「パパ、見て!」小さな花を持っていた。

「綺麗だね」

「お母さんにあげる」アンナは、花をソルヴェイグに渡した。

 ソルヴェイグは、娘を抱きしめた。

 ニールスは、この光景を見つめていた。

 これが、幸せだ。

 しかし、心の奥底には、まだ何かがあった。

 満たされない、何か。

 それが、何なのか、まだわからなかった。

 夏が近づいてきた。

 デンマークの夏は、特別だった。

 日が長い。夜十時でも、まだ明るい。

 白夜に近い、不思議な季節。

 ある夜、ニールスは一人で、コペンハーゲンの街を歩いていた。

 午後九時。しかし、空はまだ青い。

 運河沿いを歩く。

 カフェでは、人々が外のテーブルで食事をしている。

 笑い声。会話。

 平和な街。

 ニールスは、橋の上で立ち止まった。

 運河を見下ろす。

 水が、ゆっくりと流れている。

 この街で生まれた。

 この街で育った。

 この街から、世界に旅立った。

 そして、いつも、この街に帰ってくる。

 ここが、自分の場所だ。

 オスカーとの世界ツアーは、素晴らしい。

 しかし、それは自分の音楽なのだろうか。

 ケニーとの録音は、楽しい。

 しかし、それで十分なのだろうか。

 ニールスは、空を見上げた。

 青い空。白い雲。

 夏の夜の、不思議な明るさ。

 音楽は、終わらない。

 人生が続く限り、音楽も続く。

 そして、次の段階が、どこかで待っている。

 それを信じて、ニールスは歩き続けた。

 コペンハーゲンの夏の夜に。

 その週、ニールスはポケットに娘の写真を入れて、レコード店に行った。

 自分のアルバム『Jaywalkin'』が、棚に並んでいた。

 店員が、気づいた。

「あの、ペデルセンさんですよね?」

「はい」

「『Jaywalkin'』、素晴らしいアルバムです。特に『My Little Anna』が好きです」

「ありがとうございます」

「お子さんに捧げた曲ですか?」

「はい。娘に」ニールスは微笑んだ。

 店を出た後、ニールスはベンチに座った。

 ポケットから、娘の写真を取り出した。

 笑顔のアンナ。

 この子のために、音楽がある。

 この子のために、家に帰る。

 この子のために、生きている。

 オスカーとのツアーも、ケニーとの録音も、すべて素晴らしい。

 しかし、何よりも大切なのは、家族だ。

 ニールスは、写真をポケットに戻した。

 そして、立ち上がった。

 家に帰ろう。

 家族が待っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ