第二十話 東京の春
1971年3月。羽田空港。
オイゲン・キケロは、飛行機のタラップを降りた。
日本。初めての国。
空気が、違った。湿っていて、どこか甘い匂いがする。
空港のロビーでは、大勢の人々が待っていた。
プラカードを持った人々。カメラを持った記者たち。
そして、ファン。
「キケロさん!」
「ようこそ、日本へ!」
オイゲンは、驚いた。
ペーター・ヴィッテが、隣で笑った。
「すごい歓迎だな」
チャーリー・アントリーニも頷いた。
「日本では、お前は大スターらしいぞ」
日本コロムビアのプロデューサー、田中健一が近づいてきた。四十代、眼鏡をかけた穏やかな顔つき。
「キケロさん、ようこそ日本へ。お待ちしていました」
「ありがとうございます」オイゲンは日本語で答えようとした。「ア...アリガトウ」
田中は、嬉しそうに笑った。
「日本語を勉強されたんですね」
「少しだけ。飛行機の中で」
その夜、東京のホテルの部屋。
オイゲンは、窓から街を見下ろしていた。
ネオンサイン。高層ビル。車の列。
ミュンヘンとも、パリとも、ベルリンとも違う。
すべてが、新しかった。
電話が鳴った。
アンジェリーカからだった。
「オイゲン、着いた?」
「ああ。無事に着いたよ」
「日本は、どう?」
「すごいよ。空港に、何百人もファンが来ていた」
「さすが、私の夫ね」アンジェリーカは笑った。「ロジャーが、パパに会いたいって言ってる」
「帰ったら、たくさん遊んであげる」オイゲンは言った。「約束だ」
「気をつけてね。愛してるわ」
「僕も愛してる」
電話を切った後、オイゲンは再び窓の外を見た。
日本。地球の反対側。
ルーマニアから、どれだけ遠く来たのだろう。
1971年3月15日。東京、厚生年金会館。
オイゲンの初めての日本公演。
舞台袖で、彼は緊張していた。
「大丈夫か?」ペーターが尋ねた。
「わからない」オイゲンは答えた。「日本の観客が、僕の音楽を理解してくれるだろうか」
「心配するな。お前の音楽は、言葉を超える」
司会者が、オイゲンを紹介した。
日本語だったが、「オイゲン・キケロ」という名前ははっきりと聞こえた。
拍手。
オイゲンは、ステージに出た。
満席だった。2000人以上の観客。
静寂。
オイゲンは、ピアノの前に座った。
そして、弾き始めた。
最初の曲は、「Bach's Softly Sunrise」。
高速パッセージが、ホールに響く。
そして、スウィングに変わる。
観客が、息を飲んだ。
曲が終わった。
一瞬の沈黙。
それから、拍手が爆発した。
スタンディング・オベーション。
オイゲンは、驚いた。
これほどの熱狂は、経験したことがなかった。
コンサートの後、楽屋に何人もの人が訪ねてきた。
ファン、評論家、オーディオ・マニア。
一人の男性が、オイゲンに話しかけた。
「キケロさん、素晴らしい演奏でした。私は、高級オーディオの販売店を経営しています。あなたのレコードは、我々の間で『試聴の基準』なんですよ」
「試聴の基準?」
「ええ。あなたのピアノのタッチは、完璧にクリアです。良いオーディオなら、鍵盤に触れる瞬間の音まで聞こえる」
オイゲンは、初めて自分の音楽が、音楽以外の価値も持っていることを知った。
別の女性が、涙を流しながら話しかけてきた。
「キケロさん、私の父は、戦争で亡くなりました。でも、父はショパンが好きでした。今日、あなたのショパンを聴いて、父を思い出しました。ありがとうございます」
オイゲンは、その女性の手を取った。
「こちらこそ、ありがとうございます」
日本ツアーは、大成功だった。
東京、大阪、名古屋、福岡。
どこへ行っても、満員。熱狂。
オイゲンは、日本の文化にも魅了された。
田中プロデューサーが、京都に連れて行ってくれた。
金閣寺。銀閣寺。清水寺。
「美しい」オイゲンは、金閣寺の前で立ち尽くした。
「こんな建築、見たことがない」
「日本の心です」田中は言った。
「シンプルだけど、深い」
その夜、田中は伝統的な日本料理店に、オイゲンを連れて行った。
畳の部屋。低いテーブル。
「座り方、わかりますか?」田中が尋ねた。
「いや」オイゲンは笑った。「教えてください」
二人は、正座した。
料理が運ばれてきた。刺身、天ぷら、
茶碗蒸し。
オイゲンは、箸を持とうとしたが、うまく使えなかった。
田中が笑った。
「難しいでしょう?」
「ピアノより難しい」オイゲンも笑った。
田中が、箸の使い方を教えた。
オイゲンは、何度も練習した。
そして、ようやく刺身を口に運んだ。
「美味しい」
「良かった」田中は微笑んだ。
「キケロさん、一つお願いがあります」
「何でしょう?」
「日本の歌を、あなたのスタイルでアレンジしてくれませんか?」
オイゲンは、驚いた。
「日本の歌?」
「はい。『花』『浜辺の歌』『荒城の月』。日本人なら誰もが知っている歌です」
「でも、僕は日本語がわからない」
「メロディだけで大丈夫です」田中は言った。「あなたのピアノが、言葉を超えて日本人の心に届くはずです」
オイゲンは、考えた。
「やってみます」彼は答えた。
「しかし、一つ条件があります」
「何でしょう?」
「来年、また日本に来て、ここで録音させてください」
田中は、満面の笑みを浮かべた。
「もちろんです」
ミュンヘンに戻った後、オイゲンは日本の歌の楽譜を研究した。
アンジェリーカが、尋ねた。
「日本の歌?難しいの?」
「とても」オイゲンは答えた。「五音音階。ペンタトニック。スウィングさせるのが、難しい」
「でも、あなたなら、できるわ」
オイゲンは、何ヶ月もかけて、アレンジをして作りあげた。
日本の旋律の美しさを保ちながら、ジャズのリズムを加える。
簡単ではなかった。
しかし、少しずつ、形が見えてきた。
1972年2月21日。東京、日本コロムビア・スタジオ。
オイゲンは、再び日本にいた。
今回は、新しいリズム隊と。
ベーシストのギー・ペデルセン。フランス人。
ドラマーのダニエル・ユメール。スイス人。
ペーターとチャーリーは、別のプロジェクトで忙しかった。
スタジオには、田中プロデューサーと、数人の日本コロムビアのスタッフがいた。
「準備はいいですか?」田中が尋ねた。
「はい」オイゲンは答えた。「最初の曲は、『花』です」
演奏が始まった。
滝廉太郎の優しいメロディが、ピアノから流れる。
しかし、すぐにスウィングのリズムが加わる。
日本の春の情景と、ジャズの自由が融合した。
曲が終わった。
スタジオは、静まり返っていた。
それから、田中が拍手した。
涙を流していた。
「キケロさん...これは、素晴らしい」
「本当ですか?」
「本当です。日本の心を、ジャズにしてくれた」
次の曲、「浜辺の歌」。
そして、「荒城の月」。
すべてが、完璧だった。
二日間の録音が終わった後、田中がオイゲンに言った。
「キケロさん、あなたは日本人の心をつかみました。このアルバムは、大ヒットするでしょう」
「ありがとうございます」オイゲンは言った。「でも、僕にとって、これは単なるアルバムではありません」
「どういう意味ですか?」
「僕は、ルーマニアから追われました。故郷を失いました」オイゲンは続けた。「でも、日本は、僕を温かく迎えてくれた。だから、日本は僕の第二の故郷です」
田中は、オイゲンの手を握った。
「ありがとう、キケロさん。日本人として、嬉しいです」
録音の合間、田中はオイゲンを箱根の温泉に連れて行った。
山の中の旅館。静かで、美しい。
温泉に浸かりながら、オイゲンは言った。
「田中さん、これは天国ですね」
「気に入ってくれましたか?」
「ええ。ドイツにも温泉はありますが、これは特別です」
夜、部屋で、田中が日本酒を注いだ。
「乾杯」
「乾杯」
二人は、グラスを合わせた。
「キケロさん」田中は言った。
「あなたには、何か特別なものがあります」
「特別?」
「音楽だけではありません。人間としても」
田中は続けた。
「あなたは、どこへ行っても、人々の心をつかむ」
「それは、音楽のおかげです」
「いいえ」田中は首を振った。
「あなたの誠実さです。亡命者として、苦しみを知っている。だから、人々の痛みがわかる」
オイゲンは、黙っていた。
「だから、あなたの音楽は、心に響くんです」
1972年5月。ベルリン・フィルハーモニー・ホール。
オイゲンは、ヨーロッパに戻っていた。
そして、今夜、歴史的なコンサートが行われる。
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との共演。
ジャズ・ピアニストが、クラシックの聖地で、オーケストラと共演する。
前代未聞だった。
舞台袖で、オイゲンは深呼吸していた。
アンジェリーカが、客席にいる。ロジャーも。
そして、ペーターとチャーリーも。
指揮者が、オイゲンに声をかけた。
「キケロさん、準備はいいですか?」
「はい」
「では、行きましょう」
ステージに出た。
満席。3000人以上の観客。
オイゲンは、ピアノの前に座った。
指揮者が、タクトを上げた。
オーケストラが、演奏を始めた。
そして、オイゲンのピアノが入った。
ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」。
クラシックとジャズの融合。
オイゲンにぴったりの曲。
彼の指が、鍵盤の上で踊る。
オーケストラが、それを支える。
観客は、息を飲んで聞いていた。
曲が終わった。
長い沈黙。
それから、拍手が爆発した。
スタンディング・オベーション。
オイゲンは、立ち上がってお辞儀をした。
客席を見ると、アンジェリーカが涙を流していた。
ロジャーが、手を振っていた。
コンサートの後、楽屋で。
アンジェリーカとロジャーが、オイゲンを抱きしめた。
「パパ、すごかった!」ロジャーが言った。
「ありがとう」オイゲンは息子を抱き上げた。
アンジェリーカが、夫の頬にキスをした。
「誇りに思うわ」
ペーターとチャーリーも、楽屋に来た。
「オイゲン、お前は歴史を作ったぞ」ペーターが言った。
「ああ」チャーリーも頷いた。
「ベルリン・フィルと共演するジャズ・ピアニスト。誰が想像した?」
オイゲンは、微笑んだ。
「十年前、僕は東ベルリンのトイレの窓から逃げた。そして、今、西ベルリンの最高のホールで演奏している」
「信じられないな」ペーターが言った。
「ああ」オイゲンは窓の外を見た。
「でも、本当だ」
その夜、ホテルの部屋で。
アンジェリーカとロジャーが眠った後、オイゲンは一人で窓の外を見ていた。
ベルリンの夜景。
壁が、見えた。
あの壁の向こうに、東ベルリン。
そして、その向こうに、ルーマニア。
オイゲンは、また送れない手紙を書いた。
「親愛なる家族へ
今夜、僕はベルリン・フィルハーモニーで演奏しました。
十年前、僕は東ベルリンから逃げました。
そして、今、西ベルリンで成功しています。
しかし、あなたたちがいなければ、この成功は空っぽです。
日本という、温かい国も見つけました。
しかし、故郷には帰れません。
いつか、壁がなくなる日が来るでしょうか。
いつか、また会えるでしょうか。
信じています。
オイゲン」
窓の外では、ベルリンの街が眠りについていた。
しかし、オイゲン・キケロの心は、まだ目覚めていた。
夢を見ていた。
壁のない世界。
家族が一つになる日。
その日を。




