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第二十一話 シューベルトの孤独

 1973年、秋。ミュンヘン、キケロ家。

 オイゲンは、自宅のピアノの前に座っていた。

窓の外では、雨が降っている。冷たい、ドイツの秋の雨。

 三歳のロジャーが、床で積み木で遊んでいた。

「パパ、何弾いてるの?」ロジャーが尋ねた。

「シューベルトだよ」オイゲンは答えた。

「シューベルトって、誰?」

「ウィーンの作曲家。ずっと昔の人」

「バッハより、古い?」

「いや、バッハより新しい」オイゲンは微笑んだ。「でも、ロジャーが生まれるずっと前だよ」

 彼は、また鍵盤に触れた。

 「野ばら」。シューベルトの歌曲。

しかし、ただの歌曲ではない。オイゲンの手にかかると、それはジャズになる。

 アンジェリーカが、台所から顔を出した。

「素敵な曲ね。何?」

「シューベルトの『野ばら』」

「ジャズにするの?」

「考えている」オイゲンは言った。

「でも、難しい」

「どうして?」

「シューベルトは...内省的だ。孤独だ。スウィングさせると、その孤独が消えてしまう」

 アンジェリーカは、夫の隣に座った。

「あなたは、孤独がわかるでしょう?」

 オイゲンは、妻を見た。

「なぜ、そう思う?」

「だって、あなたも孤独だったじゃない。ルーマニアから逃げて、一人で」

 オイゲンは、黙った。

「だから」アンジェリーカは続けた。 

「あなたなら、シューベルトの孤独を理解できる。そして、それをジャズにできる」


 1974年、冬。ヴィリンゲン、MPSスタジオ。

 オイゲンは、ブルナー=シュヴェアと向かい合って座っていた。

「シューベルト?」ブルナー=シュヴェアは尋ねた。

「はい」オイゲンは答えた。「次のアルバムは、シューベルトにしたい」

「理由は?」

 オイゲンは、考えた。

「シューベルトは、短い人生を生きた。三十一歳で死んだ。貧しくて、孤独だった」

「そうだな」

「でも、彼の音楽は、美しい。純粋だ」

オイゲンは続けた。「僕は、その孤独を理解したい。そして、それをジャズにしたい」

 ブルナー=シュヴェアは、長い沈黙の後、頷いた。

「わかった。やろう。しかし、これは難しいプロジェクトだぞ」

「わかっています」

「シューベルトは、バッハやモーツァルトとは違う。軽快にスウィングさせればいいというものじゃない」

「だから、やりたいんです」オイゲンは言った。「挑戦したい」


 1975年、春。

 オイゲンは、何ヶ月もかけてシューベルトのアレンジを作った。

 「野ばら」。「未完成交響曲」。「軍隊行進曲」。「アヴェ・マリア」。

 すべてを、ジャズにする。

 しかし、軽快にしすぎない。

 シューベルトの孤独を、保つ。

 ある日、アンジェリーカが尋ねた。

「オイゲン、最近、疲れてない?」

「大丈夫だ」

「嘘。あなた、夜も眠ってないでしょう」

 オイゲンは、何も言えなかった。

「無理しないで」アンジェリーカは夫の手を取った。「あなたは、もう十分成功している」

「でも、これは違う」オイゲンは言った。 

「これは、成功のためじゃない。自分のためだ」

「自分のため?」

「ああ」オイゲンは頷いた。

「シューベルトの孤独を理解することで、自分の孤独も理解したい」

 アンジェリーカは、夫を抱きしめた。

「あなたは、もう一人じゃないのよ。私とロジャーがいる」

「わかってる」オイゲンは言った。

「でも、心の奥底には、まだ孤独がある。家族への思い。故郷への思い」


 1975年5月。ヴィリンゲン、MPSスタジオ。

 オイゲン、ペーター、チャーリーが揃った。

 久しぶりの、黄金トリオ。

「シューベルトか」ペーターが言った。「難しそうだな」

「ああ」オイゲンは答えた。「これまでで、一番難しい」

「でも、お前ならできる」チャーリーが言った。

 録音が始まった。

 最初の曲は、「野ばら」。

 オイゲンの指が、鍵盤に触れた。

 メロディが、静かに流れる。

 シンプルで、美しい。

 そして、ペーターのベースが入る。

 チャーリーのブラシが、優しくリズムを刻む。

 スウィングしている。

 しかし、激しくない。

 静かで、内省的で、孤独だった。

 曲が終わった。

 スタジオは、静まり返っていた。

ブルナー=シュヴェアが、録音ブースから出てきた。

しばらく何も言わなかった。ただ頷いた。

「完璧だ」彼はようやく言った。「次に行こう」

 録音は、三日間続いた。

 すべての曲が、完璧だった。

 しかし、完璧なだけではなかった。

 魂があった。

 最後の曲は、「アヴェ・マリア」。

オイゲンは、この曲を弾く前に、一人でスタジオに残った。

 ピアノの前に座り、目を閉じた。

 母の顔が浮かんだ。

 リヴィア・キケロ。プロの歌手だった母。

彼女が、よく歌っていた。「アヴェ・マリア」を。

 オイゲンは、目を開けた。

 そして、弾き始めた。

 母の声が、聞こえるような気がした。

ペーターとチャーリーが、そっと音を重ねる。

 三人が、一つになった。

 曲が終わった。

 長い沈黙。

それから、ブースから拍手が聞こえた。

エンジニアの一人が、眼鏡を外してハンカチで拭いていた。


 1975年10月。

 アルバム『Cicero's Schubert』がリリースされた。

 反応は、すぐに来た。

 評論家たちが、絶賛した。

「これまでのキケロとは、違う」

「技術ではなく、魂だ」

「シューベルトの孤独を、完璧に表現している」

「ジャズとクラシックの真の融合」

 そして、11月。

 オイゲンは、手紙を受け取った。

 ドイツ・レコード大賞委員会からだった。

 彼は、手紙を開けた。

 読み始めた。

 そして、信じられない顔で、アンジェリーカを見た。

「どうしたの?」アンジェリーカが尋ねた。

「ドイツ・レコード大賞だ」オイゲンは囁いた。

「え?」

「『Cicero's Schubert』が、ドイツ・レコード大賞を受賞した」

 アンジェリーカは、夫を抱きしめた。

「すごいわ!」

 ロジャーが、駆け寄ってきた。

「パパ、どうしたの?」

 オイゲンは、息子を抱き上げた。

「パパ、賞をもらったんだよ」

「すごい?」

「とてもすごいんだ」オイゲンは微笑んだ。 「ドイツで一番すごい賞」 


 1975年12月。授賞式。

 ハンブルク、大ホール。

オイゲンは、燕尾服を着て、舞台に立っていた。

 アンジェリーカとロジャーが、客席にいる。

 ペーターとチャーリーも。

 ブルナー=シュヴェアも。

 司会者が、オイゲンを紹介した。

「オイゲン・キケロ。ドイツ・レコード大賞、ジャズ部門受賞。『Cicero's Schubert』」

 拍手。

 オイゲンは、トロフィーを受け取った。

 そして、マイクの前に立った。

「ありがとうございます」彼は言った。「この賞は、私一人のものではありません」

 彼は、客席を見渡した。

「ペーター・ウィッテ、チャーリー・アントリーニ。彼らなしでは、このアルバムはありませんでした」

 二人が、立ち上がった。拍手。

「そして、プロデューサーのハンス・ゲオルグ・ブルナー=シュヴェア。彼が、私の音楽を信じてくれました」

 ブルナー=シュヴェアが、頷いた。

「しかし」オイゲンは続けた。「この賞を、ここにいない人々に捧げたい」

 会場が、静かになった。

「私の父、母、兄。彼らは、ルーマニアにいます。十三年前、私は彼らを置いて逃げました」

 オイゲンの声が、震えた。

「彼らに、会えません。話せません。でも、この音楽は、彼らへのメッセージです」

 彼は、トロフィーを掲げた。

「父さん、母さん、兄さん。僕は、あなたたちを忘れていません。この賞を、あなたたちに捧げます」

 会場は、静けさを保っていた。

 それから、拍手が起きた。

 スタンディング・オベーション。

 オイゲンは、目を閉じた。深呼吸をした。

 授賞式の後、楽屋で。

 アンジェリーカが、夫を抱きしめた。

「素晴らしいスピーチだった」

「ありがとう」

 ロジャーが、父のトロフィーに触れた。

「パパ、これ、重い?」

「ああ、重いよ」オイゲンは笑った。「でも、心はもっと重い」

「なぜ?」

「これは、喜びだけじゃないからだ。悲しみもある」

 ロジャーは、理解できない顔をした。

 アンジェリーカが、息子の頭を撫でた。

「いつか、わかるわ」


 1976年、春。東京、中野サンプラザ。

 オイゲンは、再び日本にいた。

 2200席のコンサートホール。完売。

 音響設備が素晴らしい会場だった。

舞台袖で、田中健一プロデューサーが言った。

「キケロさん、準備はいいですか?」

「はい」

「今夜のチケット、完売です。皆さん、あなたを待っています」

 オイゲンは、深呼吸した。

「田中さん、一つ聞いてもいいですか」

「何でしょう?」

「なぜ、日本人は、僕の音楽を愛してくれるんでしょう?」

 田中は、微笑んだ。

「それは、あなたの音楽が、心に届くからです」

「心に?」

「ええ。技術だけじゃない。あなたの音楽には、魂がある。孤独がある。そして、希望がある」

 オイゲンは、頷いた。

「日本人も、孤独を理解します」田中は続けた。「だから、あなたの音楽が響くんです」

 コンサートが始まった。

 オイゲンは、ステージに出た。

 満席の拍手。

 彼は、ピアノの前に座った。

 そして、弾き始めた。

 シューベルトの「野ばら」。

 静かなメロディが、ホールに響く。

 2200人が、息を飲んで聞いている。

 曲が終わった。

 長い沈黙。

 それから、拍手が爆発した。

 オイゲンは、微笑んだ。

 ここにいる。日本という、遠い国で。

 十四年前、トイレの窓から逃げた時、こんな日が来るとは思わなかった。

 しかし、今、ここにいる。

 自由な世界で。

 音楽と共に。

 コンサートの後、楽屋で。

 田中が、オイゲンに言った。

「キケロさん、日本のファンから、手紙が山のように届いています」

「本当ですか?」

「読みますか?」

 田中は、一通の手紙を手渡した。

 オイゲンは、読み始めた。

「キケロさんへ

 私は、六十歳の主婦です。夫を戦争で亡くしました。長い間、孤独でした。

しかし、あなたのシューベルトを聴いて、初めて、孤独は悪いことじゃないと思いました。

 孤独の中にも、美しさがある。

 ありがとうございます。東京、田中花子」

 オイゲンは、手紙を握りしめた。

「素晴らしい手紙ですね」田中が言った。

「ええ」オイゲンは答えた。

「音楽は、国境を越える。言葉を越える。そして、孤独を越える」

 その夜、東京のホテルの部屋で。

 オイゲンは、一人で窓の外を見ていた。

 東京の夜景。光に満ちた街。

 しかし、彼の心は、遠くにあった。

 ルーマニア。クルジュ。

 家族がいる場所。

 彼は、また送れない手紙を書いた。

「親愛なる家族へ

 僕は、ドイツ・レコード大賞を受賞しました。

そして、日本で、2000人以上の前で演奏しました。成功しています。

でも、あなたたちがいなければ、意味がありません。

 母さん、あなたが歌っていた『アヴェ・マリア』を、レコードにしました。

聴いてくれているでしょうか。

いつか、壁がなくなる日が来るでしょうか。

いつか、また会えるでしょうか。待っています。ずっと。オイゲン」

 窓の外では、東京の街が眠りについていた。

しかし、オイゲン・キケロの心は、まだ目覚めていた。

 故郷を夢見ていた。

 家族との再会を。

 その日を。






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