第十九話 栄光と孤独
1967年、春。ミュンヘン、ダンススタジオ。
オイゲン・キケロは、友人のペーター・ヴィッテに連れられて、見慣れない場所にいた。
「なぜ、ダンススタジオなんだ?」オイゲンは尋ねた。
「俺の妻が、ここでレッスンを受けてるんだ」ペーターは笑った。「お前、いつもピアノの前にいるだろう?たまには、体を動かせ」
「僕は、ダンスなんて...」
「心配するな。初心者クラスだ」
スタジオの中は、明るかった。大きな鏡、木の床、そして軽快な音楽。
十人ほどの生徒が、列を作って立っていた。
そして、前に立っているのが、インストラクターだった。
三十代前半。ブロンドの髪を後ろで束ね、エレガントな動き。笑顔が、明るい。
「皆さん、今日は新しい生徒さんが来ています」彼女は言った。
「自己紹介をお願いします」
ペーターが、オイゲンを前に押した。
「えっと...オイゲン・キケロです」
インストラクターの目が、輝いた。
「キケロさん?あの、ピアニストの?」
「はい」
「まあ!『Rokoko-Jazz』、大好きなんです!」彼女は興奮して言った。
「私はアンジェリーカ。よろしくお願いします」
彼女は、手を差し出した。
オイゲンは、握手した。
温かい手だった。
レッスンが始まった。
基本のステップ。ワルツ、タンゴ、フォックストロット。
オイゲンは、不器用だった。
ピアノでは完璧な指を持っているが、足は別物だった。
「キケロさん、リラックスして」
アンジェリーカが近づいてきた。「音楽を感じてください」
「音楽は、感じています。でも、足が...」
アンジェリーカは、笑った。
「では、私と一緒に。ワン、ツー、スリー」
彼女が、オイゲンの手を取った。
二人で、ゆっくりとステップを踏む。
「そう、それでいいんです」アンジェリーカは微笑んだ。
「あなた、音楽家なのに、リズムに固いですね」
「ピアノは、座って弾くものですから」オイゲンは照れながら答えた。
「じゃあ、立って踊ることを覚えましょう」
彼女の笑顔が、何かを溶かした。
レッスンが終わった後、アンジェリーカがオイゲンに声をかけた。
「キケロさん、少しお時間ありますか?」
「はい」
「近くにカフェがあるんです。お茶、いかがですか?」
二人は、スタジオの近くの小さなカフェに座った。
「あなたの音楽、本当に素晴らしいです」アンジェリーカは言った。
「バッハやショパンが、あんなに楽しくなるなんて」
「ありがとうございます」
「どうして、クラシックをジャズにしようと思ったんですか?」
オイゲンは、コーヒーカップを見つめた。
「ルーマニアでは、ジャズは禁じられていました。西側の音楽だから。でも、僕は両方が好きだった。だから、亡命した後、両方を一つにしようと思ったんです」
「亡命...大変でしたね」
「はい」オイゲンは頷いた。
「でも、今は自由です。好きな音楽を、好きなだけ弾ける」
「家族は?ルーマニアに?」
オイゲンの表情が、曇った。
「はい。父、母、兄。五年前に、置いてきました」
「辛いですね」
「毎日、考えます」オイゲンは言った。
「でも、連絡できない。東側に手紙を送れば、彼らが危険にさらされる」
アンジェリーカは、オイゲンの手に、そっと自分の手を重ねた。
「でも、あなたは一人じゃない。あなたの音楽を愛する人たちが、たくさんいます」
オイゲンは、彼女を見た。
優しい目だった。
「ありがとう」彼は囁いた。
それから、オイゲンは毎週、ダンススタジオに通うようになった。
ペーターが笑った。
「お前、ダンスが好きになったのか?」
「いや」オイゲンは答えた。
「インストラクターが、好きになった」
1967年、夏。
オイゲンとアンジェリーカは、ミュンヘンの公園を歩いていた。
「アンジェリーカ、君に聞きたいことがある」オイゲンは言った。
「何?」
「僕と、結婚してくれないか」
アンジェリーカは、立ち止まった。
「本当に?」
「本当だ。君と一緒にいると、僕は初めて家にいるような気がする」
アンジェリーカの目に、涙が溢れた。
「はい」彼女は答えた。「はい、結婚します」
二人は、抱き合った。
1967年10月。
小さな教会で、結婚式が行われた。
ペーター・ヴィッテが、ベストマンを務めた。チャーリー・アントリーニも来た。ブルナー=シュヴェアも。
オイゲンの友人たちが、祝福した。
しかし、オイゲンの家族は、そこにいなかった。
式の後、オイゲンは一人で教会の外に出た。
空を見上げた。
青い空。白い雲。
「父さん、母さん、兄さん」彼は囁いた。「僕は、結婚しました。アンジェリーカという、素晴らしい女性です。会わせたかった」
アンジェリーカが、そっと近づいてきた。
「大丈夫?」
「ああ」オイゲンは微笑んだ。「大丈夫だ。君がいるから」
1968年、春。
オイゲンとアンジェリーカは、ミュンヘンの小さなアパートで暮らしていた。
ある朝、朝食の席で、アンジェリーカが言った。
「オイゲン、嬉しいニュースがあるの」
「何?」
「赤ちゃんができたわ」
オイゲンは、フォークを落とした。
「本当に?」
「本当よ」
オイゲンは、立ち上がって妻を抱きしめた。
「信じられない。父親になるのか、僕が」
「素晴らしい父親になるわ」アンジェリーカは微笑んだ。
しかし、その喜びの裏で、オイゲンの心には不安もあった。
その夜、ペーターと飲んでいる時、オイゲンは打ち明けた。
「ペーター、怖いんだ」
「何が?」
「良い父親になれるだろうか。僕は、自分の父親と、六年も離れている。父親とは、どうあるべきか、わからない」
ペーターは、友人の肩を叩いた。
「お前なら、大丈夫だ」
「どうして、そう言える?」
「お前は、音楽で人々に喜びを与えている。子供にも、同じことができる」
「でも...」
「オイゲン」ペーターは真剣な顔で言った。
「お前の父親は、お前を音楽家にした。お前も、自分の子供を、幸せにすればいい。それだけだ」
1970年7月6日。
息子、ロジャーが生まれた。
オイゲンは、病院で、小さな赤ん坊を抱いた。
温かい。柔らかい。生きている。
涙が溢れた。
「ロジャー」彼は囁いた。「僕の息子」
アンジェリーカが、ベッドから微笑んでいた。
「抱き方、上手ね」
「怖くて、手が震えてる」オイゲンは笑った。
「大丈夫よ。あなたなら」
オイゲンは、息子を見つめた。
「ロジャー、お前は自由な世界で生まれた。壁も、国境もない。お前は、好きな場所に行ける。好きな音楽を演奏できる」
赤ん坊が、小さな声を上げた。
「聞いてる?」アンジェリーカが笑った。
「ああ」オイゲンは微笑んだ。
「音楽家の血だな」
しかし、その夜、一人になった時、オイゲンは複雑な思いに駆られた。
新しい家族ができた喜び。
しかし、古い家族への罪悪感。
彼は、また送れない手紙を書いた。
「親愛なる兄へ
僕に、息子が生まれた。ロジャーという名前だ。
兄さんにも、子供はいるだろうか。
もしいたら、その子は自由だろうか。
僕の息子は、自由だ。でも、それが正しいのか、わからない。
兄さんの子供が、もし自由でないなら、僕の幸せは不公平だ。
許してくれ。
オイゲン」
1970年、秋。
オイゲンは、MPSスタジオにいた。
新しいアルバムの録音。
『Balkan Rhapsodie』。
今回は、特別だった。
ブルナー=シュヴェア、ペーター、チャーリーが、彼を見た。
「今回は、僕のルーツに戻ります」オイゲンは言った。「バルカンの音楽。ルーマニアの魂」
「今までとは、違うスタイルか?」ブルナー=シュヴェアが尋ねた。
「はい。五拍子、七拍子。変拍子。民族音楽のリズム」
「難しそうだな」チャーリーが言った。
「でも、やらなければならない」オイゲンは言った。
「ロジャーが生まれて、考えたんです。僕は、息子に何を残せるか。お金?名声?違う。ルーツです。僕がどこから来たのか。それを、音楽で残したい」
録音が始まった。
最初の音が鳴った瞬間、スタジオの空気が変わった。
バルカンのリズムが、響く。
オイゲンの指が、故郷の風景を描く。
カルパティア山脈。ソメシュ川。クルジュの教会。
母が歌っていた民謡。兄と聴いたラジオ。
すべてが、音楽になった。
ペーターが、目を閉じてベースを弾く。
チャーリーが、複雑なリズムを完璧に刻む。
三人が、一つになった。
曲が終わった。
長い沈黙。
それから、チャーリーが言った。
「オイゲン...お前、父親になって変わったな」
「変わった?」
「ああ」ペーターも頷いた。「お前の音楽に、温かさが加わった」
ブルナー=シュヴェアが、涙を流していた。
「これが、本物の音楽だ。技術じゃない。魂だ」
録音が終わった後、オイゲンは家に帰った。
アンジェリーカが、ロジャーを抱いて待っていた。
「おかえりなさい。どうだった?」
「素晴らしかった」オイゲンは言った。
「今日、僕は故郷に帰ったんだ。音楽で」
彼は、息子を抱き上げた。
「ロジャー、いつか、お前を連れて行く。本当のルーマニアに。祖父と祖母と、伯父さんに会わせる」
「いつか、必ずね」アンジェリーカが言った。
「ああ。壁がなくなる日が、必ず来る」
1970年12月。
オイゲン・キケロは、ミュンヘンの自宅で、家族と過ごしていた。
アンジェリーカが、料理を作っている。
ロジャーが、ベビーベッドで眠っている。
オイゲンは、ピアノの前に座っていた。
しかし、弾いていなかった。
ただ、家族を見ていた。
これが、幸せだ。
八年前、トイレの窓から逃げた時、想像できなかった幸せ。
しかし、心の奥底には、まだ影があった。
失った家族への思い。
それは、決して消えることはなかった。
オイゲンは、鍵盤に触れた。
静かなメロディが、流れ始めた。
バルカンの子守歌。
母が、彼に歌ってくれた歌。
今、彼は、その歌を息子に伝える。
音楽が、世代をつないでいた。
アンジェリーカが、台所から顔を出した。
「素敵な曲ね。何?」
「ルーマニアの子守歌」オイゲンは答えた。
「母が、僕に歌ってくれた」
「いつか、ロジャーにも教えてあげて」
「ああ」オイゲンは微笑んだ。
「必ず」
窓の外では、雪が降り始めていた。
ミュンヘンの冬。
しかし、部屋の中は、温かかった。
家族の温もり。
オイゲン・キケロは、二つの世界を生きていた。
失った世界と、得た世界。
しかし、今、彼は前を向いていた。
アンジェリーカとロジャーと共に。
いつか、壁がなくなる日まで。
いつか、すべての家族が一つになる日まで。




