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第十八話 Rokoko-Jazz

 1965年3月13日。南ドイツ、ヴィリンゲン。

 オイゲン・キケロは、森の中の道を歩いていた。

 案内してくれているのは、MPSレコードのプロデューサー、ハンス・ゲオルグ・ブルナー=シュヴェア。五十代、痩せた体格、鋭い目。

「ここが、我々のスタジオです」

 ブルナー=シュヴェアは、森の中に佇む建物を指した。

 モダンな建築。ガラスと木材。周りには、木々しかない。

「なぜ、こんな場所に?」オイゲンは尋ねた。

「音です」ブルナー=シュヴェアは答えた。

「完璧な静寂。車の音も、人の声もない。ただ、音楽だけがある」

 建物の中に入った。

広いスタジオ。天井が高い。壁は、特殊な音響パネルで覆われている。

そして、中央に、スタインウェイのグランドピアノ。

「触ってみてください」

 オイゲンは、ピアノに近づいた。

 鍵盤に触れる。

 音が響いた。

クリスタルのような音色。完璧な調律。

「これは...」オイゲンは息を飲んだ。

「世界最高のピアノです」ブルナー=シュヴェアは言った。「そして、世界最高の録音機材で、あなたの音を記録します」

 彼は、録音機器を指した。

巨大なテープレコーダー。何本ものマイク。

「私は、完璧な音を求めています」ブルナー=シュヴェアは続けた。「あなたの指が鍵盤に触れる瞬間。その音さえも、記録したい」

 オイゲンは、プロデューサーの情熱を感じた。

「明日、録音です。準備はいいですか?」

「はい」オイゲンは答えた。

「今夜は、ゆっくり休んでください。そして、明日、あなたの音楽を、世界に届けましょう」

 その夜、オイゲンはホテルの部屋で一人、ピアノの練習をしていた。

ホテルには、小さなアップライトピアノが置かれていた。

 明日の曲目を、頭の中で確認する。

 C.P.E.バッハのソルフェジェット。

同じくC.P.E.バッハのフルート・ソナタ、第2楽章。

 モーツァルトの「春への憧れ」。

そして、C.P.E.バッハのソルフェッジョ、ハ短調。

 メヌエット。

最後に、ブルースを基調にした自分のオリジナル。

すべて、スイスで何百回も演奏してきた曲だった。

 しかし、明日は違う。

 これは、レコードになる。

 永遠に残る。

 オイゲンは、窓の外を見た。

 森が、月光に照らされている。

 静かな夜。

 故郷のルーマニアの夜を思い出した。

カルパティア山脈。クルジュの教会。家族。

「父さん、母さん、兄さん」彼は囁いた。「明日、僕の夢が叶います。見守っていてください」

 1965年3月14日。午前10時。

 MPSスタジオ。

 オイゲンは、スタジオに入った。

すでに、二人のミュージシャンが待っていた。

 一人は、ベーシストのペーター・ヴィッテ。三十代、長身、穏やかな顔つき。

もう一人は、ドラマーのチャーリー・アントリーニ。四十代、エネルギッシュな雰囲気。

「オイゲン・キケロです」オイゲンは自己紹介した。

「ペーター・ヴィッテ」ベーシストが握手した。「君の噂は聞いてるよ。スイスで、クラシックをジャズにアレンジしてるって」

「チャーリー・アントリーニだ」ドラマーも握手した。「さあ、どんな音楽か、聴かせてくれ」

 三人は、楽器の前に座った。

ブルナー=シュヴェアが、録音ブースから声をかけた。

「まず、リハーサルをしましょう。最初の曲は?」

「C.P.E.バッハのソルフェジェットです」オイゲンは答えた。「タイトルは『Bach's Softly Sunrise』にしました」

「良いタイトルですね。では、始めてください」

 オイゲンは、深呼吸した。

 そして、弾き始めた。

右手が、信じられない速さで駆け抜ける。

ソルフェジェット。ピアノ学習者なら誰もが知っている、あの超絶技巧の練習曲。

しかし、オイゲンの手にかかると、それは練習曲ではなくなった。

高速パッセージが、まるで朝日が昇るように優雅に流れる。

そして、突然、左手がスウィングのリズムを刻み始めた。

 ペーターのベースが入ってくる。完璧なタイミング。ウォーキング・ベース。

チャーリーのドラムスが、軽くブラシでリズムを刻む。

 三人が、一つになった。

クラシックの完璧な構造と、ジャズの自由が融合した。

 曲が終わった。

 ブースから、ブルナー=シュヴェアの声。

「完璧です。もう、本番で録りましょう」

「え?」オイゲンは驚いた。「リハーサルじゃないんですか?」

「あれが、本番です。これ以上、良くなりません」

 チャーリーが笑った。

「キケロ、お前のピアノが鳴り出した瞬間、スタジオの空気が変わったんだ。俺たちは、ただお前の魔法に乗っかるだけでいい」

 ペーターも頷いた。

「次の曲に行こう」

 録音は、驚異的な速さで進んだ。

二曲目、「L'Adagio」。C.P.E.バッハのフルート・ソナタの第2楽章。

 ゆったりとした、優美な旋律。

オイゲンのクリスタルのようなタッチが、メロディを歌わせる。

ペーターのベースが、深い音で支える。

チャーリーのブラシが、優しくリズムを刻む。

 ワンテイクでOK。

三曲目、「Spring Song」。モーツァルトの「春への憧れ」。

 軽やかで、明るい。

 オイゲンの指が、鍵盤の上で踊る。

モーツァルトの天真爛漫さと、ジャズのスウィングが完璧に調和した。

 これもワンテイクでOK。

 A面、完成。

ブースでは、ブルナー=シュヴェアが満足そうに頷いていた。

「素晴らしい。この音色。このタッチ。すべてが、完璧に録れている」

 エンジニアも、驚いていた。

「こんな録音、初めてです。まるで、スタジオが楽器になったようだ」

 昼休憩の後、B面の録音が始まった。

最初の曲は、「Solfeggio in C-Minor」。C.P.E.バッハのソルフェッジョ、ハ短調。

 オイゲンは、鍵盤に手を置いた。

「これは、ピアノを学ぶ人なら誰もが知っている練習曲です」彼はマイクに向かって言った。「しかし、今日、この曲は生まれ変わります」

 演奏が始まった。

右手と左手が、独立したメロディを奏でる。

しかし、ただの練習曲ではない。

スリリングで、モダンで、ジャズだった。

チャーリーのドラムスが、アクセントを加える。

ペーターのベースが、グルーヴを作る。

ブースで、ブルナー=シュヴェアが拳を握りしめた。

「これだ。これが、俺が求めていた音楽だ」

 曲が終わった。

 エンジニアが親指を立てた。

 完璧。

五曲目、「Rococo Menuet」。C.P.E.バッハのメヌエット。

 優雅な宮廷舞踏会の雰囲気。

 最初は、ゆったりとしたテンポで。

しかし、中盤から、トリオのグルーヴが炸裂する。

 エレガンスと、力強さ。

ロココ時代の気品と、現代ジャズのエネルギー。

 すべてが、一つになった。

ペーターのベースが、しっかりとした土台を作る。

チャーリーのドラムスが、リズムに変化を加える。

 オイゲンのピアノが、その上で自由に踊る。

 ワンテイクでOK。

 最後の曲。六曲目、「Blues at Castle Sant'Angelo」。

これは、オイゲンのオリジナルに近い曲だった。スカルラッティからのインスピレーションを受けているが、ほとんどオイゲン自身の作品。

「この曲は」オイゲンは言った。「僕が、自由を手に入れた喜びを表現しています」

 演奏が始まった。

ブルース。しかし、クラシックの気品を失わない。

オイゲンの右手が、ブルースのメロディを奏でる。

 左手が、複雑な和音を作る。

ペーターとチャーリーが、完璧にサポートする。

これは、オイゲン・キケロのすべてだった。

ルーマニアのクラシックの伝統。

アウレリア・チョンカから学んだリスト直系の超絶技巧。

アナ・ピティシュから教わった輝かしいタッチ。

 スイスで学んだジャズのスウィング。

 そして、自由への渇望。

 すべてが、この曲に込められていた。

 曲が終わった。

 長い沈黙。

 それから、ブースから拍手が聞こえた。

ブルナー=シュヴェアが、スタジオに降りてきた。

 涙を流していた。

「オイゲン、あなたは歴史を作りました」

 午後3時。

 すべての曲の録音が終わった。

 わずか、5時間。

 A面3曲、B面3曲。

 すべて、ほぼワンテイク。

通常なら、数日かかる作業が、あっという間に完了した。

 オイゲンは、信じられなかった。

「本当に、終わったんですか?」

「終わりました」ブルナー=シュヴェアは言った。「これ以上、完璧な録音はありません」

 三人は、互いに抱き合った。

「やったぞ」チャーリーが叫んだ。

 ペーターが、オイゲンの肩を叩いた。

「お前のピアノ、信じられないよ。まるで魔法だ」

 ブルナー=シュヴェアが言った。

「このアルバムのタイトルを、考えました。『Rokoko-Jazz』。ロココ時代の音楽を、ジャズにする。C.P.E.バッハを中心に、あなたのスタイルを完璧に表現しています」

 オイゲンは、タイトルを口の中で繰り返した。

「Rokoko-Jazz」

「完璧です」

 その夜、祝賀会が開かれた。

 スタジオの隣の部屋で、ワインとチーズ。

ペーター、チャーリー、ブルナー=シュヴェア、エンジニアたち。

 みんなが、オイゲンの成功を祝った。

「乾杯!」

 グラスが鳴った。

 しかし、オイゲンは、どこか上の空だった。

 ペーターが気づいた。

「大丈夫か、オイゲン?」

「ああ」オイゲンは微笑んだ。「ただ、信じられないだけだ」

「何が?」

「三年前、僕は東ベルリンのトイレの窓から逃げた。何も持たずに。ただ、音楽への夢だけを持って」

 部屋が、静かになった。

「そして、今日、僕は自分のレコードを録音した」オイゲンは続けた。「これが、夢だった。ずっと」

 ブルナー=シュヴェアが言った。

「オイゲン、あなたの夢は、これから現実になります。このアルバムは、世界中で売れるでしょう」

「本当に、そう思いますか?」

「確信しています。そして、ジャケットも、特別なものを用意します」

「ジャケット?」

「そうです。このアルバムのコンセプトを、視覚的に表現するんです。古いクラシックと、現代のジャズの融合。ロココ時代と、あなたの出会い」

 ブルナー=シュヴェアは、メモを取り出した。

「18世紀風のカツラを被った人物の横顔。モノクロのハイコントラストで、背景は真っ黒。白く浮かび上がるカツラと横顔のラインが、モダンでスタイリッシュな印象を与える」

「面白いアイデアですね」オイゲンは言った。

「ただの演奏写真ではなく、芸術作品として。リビングに飾っておきたくなるようなジャケットを作ります」

 1965年5月。

アルバム『Rokoko-Jazz』がリリースされた。

ジャケットは、ブルナー=シュヴェアの言った通りだった。

18世紀風の白い巻き毛のカツラを被った人物の横顔。

 ハイコントラストな写真。その中に白く浮かび上がるカツラと顔のライン。

 ロココ時代の宮廷音楽の象徴と、1960年代のモダン・ジャズの感性が融合した、芸術的なアートワーク。

タイトル:「Rokoko-Jazz - Eugen Cicero Trio」

 裏には、収録曲が記されていた。

 A面:Bach's Softly Sunrise / L'Adagio / Spring Song

 B面:Solfeggio in C-Minor / Rococo Menuet / Blues at Castle Sant'Angelo

 最初は、静かなスタートだった。

 しかし、数週間後、何かが起き始めた。

 レコード店で、売れ始めた。

 口コミが広がった。

「この新しいピアニスト、聴いた?」

「クラシックを、ジャズにしてるらしい」

「信じられない技術だ。しかも、録音が素晴らしい」

「ジャケットも、カッコいい。リビングに飾りたくなる」

 オーディオ愛好家たちが、このアルバムを発見した。

 MPSの最高品質の録音。オイゲンのクリスタルのようなタッチ。

 左側にピアノ、中央にドラム、右側にベース。

 三人の息遣いまで聞こえるような臨場感。

「このレコードで、オーディオ機器の性能をチェックできる」

 そう言われるようになった。

 音楽評論家も、注目し始めた。

 しかし、反応は分かれた。

 保守的なジャズ評論家は、批判した。

「これは、ジャズではない」

「ただのキワモノだ」

「C.P.E.バッハの冒涜だ」

 しかし、大衆は、そんな批判を無視した。

 レコードは、飛ぶように売れた。

 ドイツ、フランス、イタリア、日本。

 世界中で。

 6月には、10万枚。

 8月には、50万枚。

 年末には、100万枚を超えた。

 オイゲン・キケロは、一夜にして、スターになった。

 1965年9月。

 オイゲンは、ミュンヘンの高級ホテルのスイートルームにいた。

 窓からは、街が見渡せた。

テーブルの上には、世界中から届いた手紙が山積みになっていた。

ファンレター。コンサートの依頼。インタビューの申し込み。

 オイゲンは、一通の手紙を手に取った。

 日本からだった。

「Dear Mr. Cicero, あなたの音楽は、私の人生を変えました...」

 彼は、微笑んだ。

 電話が鳴った。

 ブルナー=シュヴェアからだった。

「オイゲン、良いニュースです」

「何ですか?」

「『Rokoko-Jazz』が、150万枚を突破しました。そして、次のアルバムの契約を用意しています」

「次のアルバム?」

「ええ。あなたのスタイルを、さらに発展させましょう。今度は、どの作曲家を取り上げますか?」

 オイゲンは、考えた。

「チャイコフスキーは、どうでしょう?」

「素晴らしい。『Swinging Tschaikowsky』。完璧なタイトルです」

 その夜、オイゲンは一人でピアノの前に座っていた。

ホテルのスイートルームには、グランドピアノが置かれていた。

 彼は、静かに鍵盤に触れた。

 チャイコフスキーの「白鳥の湖」のテーマ。

 しかし、スウィングのリズムで。

 美しいメロディが、新しい命を得た。

 オイゲンは、目を閉じた。

 成功した。

 夢が叶った。

 しかし、心の中には、まだ空虚さがあった。

 家族。

 三年間、何の連絡もない。

 生きているのか。無事なのか。

 わからない。

 オイゲンは、演奏を止めた。

そして、ポケットから家族の写真を取り出した。

 四人で写っている。もう、古くなった写真。

「父さん、母さん、兄さん」彼は囁いた。「僕は、成功しました。でも、あなたたちがいなければ、意味がありません」

 彼は、写真を胸に抱いた。

 窓の外では、ミュンヘンの夜が広がっていた。

 光に満ちた街。

しかし、オイゲンの心には、まだ影があった。

 成功と孤独。

 自由と喪失。

 それが、彼の人生だった。

 




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