第十六話 西ベルリンの朝
【第16話〜第22話:オイゲン編PART②】
1962年2月28日。西ベルリン。
二十一歳のオイゲン・キケロは、難民受け入れセンターの小さな部屋で目を覚ました。
窓の外には、見知らぬ街が広がっていた。
昨日、彼は東ベルリンから逃げてきた。トイレの窓から飛び降り、路地を走り、バスに飛び乗り、そしてここに辿り着いた。
自由。
しかし、自由は、孤独だった。
オイゲンは、ベッドに座ったまま、手を見つめた。
ピアニストの手。長い指。これが、彼の持つすべてだった。
荷物はほとんどない。小さなカバンに、楽譜と写真と、母がくれた十字架のペンダント。
それだけ。
故郷は、壁の向こうにあった。
家族も、友人も、過去も。
すべてが、向こう側に残された。
オイゲンは立ち上がり、窓に近づいた。
西ベルリンの朝。太陽が昇っている。建物が、光を反射している。
東側とは違う。明るい。活気がある。
しかし、オイゲンの心は、重かった。
午前十時、難民担当官のハンス・ミュラーが部屋を訪ねてきた。
「おはよう、キケロさん。よく眠れましたか?」
「はい」オイゲンは嘘をついた。実際には、ほとんど眠れなかった。
「今日から、正式な手続きが始まります。まず、身元確認。それから、住居と仕事の斡旋」
「わかりました」
「あなたの職業は、ピアニストですね?」
「はい」
ミュラーは書類に目を通した。
「音楽家の仕事を見つけるのは、簡単ではありません。西ベルリンには、すでに多くの音楽家がいます」
「わかっています」
「しかし」ミュラーは微笑んだ。「あなたは才能がある。ルーマニアでの経歴を見ました。クルジュ・フィルハーモニーとの共演、ジャズ・クインテット。これは、役に立つでしょう」
オイゲンは頷いた。
「実は」ミュラーは続けた。「あなたのような音楽家のために、いくつかの選択肢があります」
「選択肢?」
「西ベルリンで仕事を探すこともできます。しかし、もう一つの道もある」
ミュラーは、別の書類を取り出した。
「スイスです」
「スイス?」
「そうです。スイスの音楽業界は、東側から来た才能ある音楽家を歓迎しています。特に、ジャズとクラシックの両方ができるピアニストは、需要があります」
オイゲンは、驚いて書類を見た。
「私たちは、いくつかのスイスの音楽団体と連絡を取っています。彼らは、あなたのような音楽家に、仕事と住居を提供できます」
「いつ、行けるんですか?」
「手続きが終われば、すぐに。おそらく、二週間後」
オイゲンは、複雑な気持ちだった。
スイス。さらに西へ。ルーマニアから、もっと遠くへ。
しかし、それは同時に、チャンスでもあった。
新しい場所。新しい人生。
「考えさせてください」オイゲンは言った。
「もちろん。しかし、長く考える時間はありません。他の亡命者も、同じ機会を待っています」
その日の午後、オイゲンは西ベルリンの街を歩いた。
クーダム大通り。ネオンサイン。ショーウィンドウ。
東側では見たことのない光景。
カフェでは、人々が笑い、コーヒーを飲んでいた。
レコード店には、何百枚ものアルバムが並んでいた。ジャズ、ロック、クラシック。すべてが自由に買える。
オイゲンは、店の中に入った。
ジャズのセクション。デューク・エリントン、マイルス・デイヴィス、ビル・エヴァンス。
彼は、一枚のアルバムを手に取った。オスカー・ピーターソン・トリオ。
これを、ルーマニアでは禁じられた音楽だった。
しかし、ここでは、誰でも買える。
オイゲンは、レジに向かおうとした。しかし、財布を開けると、ほとんどお金がなかった。
彼は、アルバムを棚に戻した。
いつか、買える日が来るだろう。
いつか。
店を出て、通りを歩きながら、オイゲンは考えた。
西ベルリンに留まるか、スイスに行くか。
西ベルリンは、壁のすぐそばだ。家族に、近い。
しかし、それは同時に、危険でもあった。
東ドイツの秘密警察は、西ベルリンにも潜入している。拉致された亡命者の話も聞いた。
スイス。
安全だ。中立国。東側から遠い。
そして、音楽の機会もある。
オイゲンは、ベンチに座った。
空を見上げた。
青い空。雲が流れている。
同じ空が、ルーマニアの上にもある。
兄のアドリアンも、今、この空を見ているだろうか。
オイゲンは、ポケットから家族の写真を取り出した。
四人で写っている。父、母、アドリアン、そして自分。
幸せだった頃の写真。
「兄さん」オイゲンは囁いた。「僕は、どうすればいい?」
写真の中のアドリアンは、微笑んでいた。
オイゲンは、兄の最後の言葉を思い出した。
「気をつけろ」
「家族のことを忘れるな」
そして、もう一つ。
「お前は行け。お前には、世界を見る権利がある」
オイゲンは、写真をポケットに戻した。
決めた。
スイスに行く。
そこで、音楽家として成功する。
そして、いつか、家族を迎えに行く。
それが、彼の道だった。
1962年3月15日。
オイゲンは、西ベルリンの駅に立っていた。
スイス行きの列車が、ホームに入ってきた。
ハンス・ミュラーが、見送りに来ていた。
「キケロさん、これを」
ミュラーは、封筒を渡した。
「何ですか?」
「スイスの連絡先。そして、推薦状。あなたの経歴と才能について書いてあります」
「ありがとうございます」
「スイスで、頑張ってください。あなたなら、きっと成功します」
二人は握手した。
「ミュラーさん」オイゲンは言った。「もし、僕の家族から連絡があったら...」
「わかっています」ミュラーは頷いた。「すぐに、あなたに知らせます」
オイゲンは、列車に乗り込んだ。
窓際の席に座った。
列車が動き出した。
西ベルリンの街が、後ろに流れていく。
壁が見えた。
あの壁の向こうに、東ベルリン。そして、その向こうに、ルーマニア。
オイゲンは、窓に手を当てた。
「さようなら」彼は囁いた。「また、会いましょう」
列車は、西へ向かって走っていく。
オイゲンは、前を向いた。
スイス。
新しい国。新しい人生。
そして、新しい音楽。
窓の外では、ドイツの田園風景が広がっていた。
緑の丘。小さな村。教会の尖塔。
ルーマニアと、似ている。
しかし、違う。
ここは、自由な世界だった。
列車の中で、オイゲンは小さなノートを開いた。
そして、書き始めた。
音楽のアイデア。メロディ。和音。
バッハのインヴェンションを、ジャズ風にアレンジするアイデア。
ショパンのノクターンに、スウィングのリズムを加える構想。
指が、ペンを走らせる。
音符が、五線紙に並んでいく。
これが、彼の武器だった。
音楽。
言葉を超えた、普遍的な言語。
これで、彼は世界と対話する。
これで、彼は自由を表現する。
そして、いつか、これで、家族を救い出す。
列車は、国境を越えた。
西ドイツから、スイスへ。
オイゲンは、パスポートを国境警備隊に見せた。
難民証明書。西ドイツ政府発行。
警備隊員は、書類を確認した。
「目的は?」
「音楽家として、働きます」
「どこで?」
「チューリッヒです」
警備隊員は、スタンプを押した。
「ようこそ、スイスへ」
列車が、再び動き出した。
オイゲンは、深呼吸した。
スイス。
中立国。平和な国。
そして、音楽の国。
ここで、彼は新しいスタートを切る。
窓の外には、アルプスの山々が見え始めていた。
雪をかぶった峰。青い空。
美しい。
しかし、オイゲンの心の中には、別の風景があった。
カルパティア山脈。ルーマニアの山々。
故郷の風景。
それは、決して消えることはなかった。
どこに行っても、何を成し遂げても。
彼は、ルーマニア人だった。
クルジュの息子だった。
そして、それを忘れることはなかった。
列車は、チューリッヒに向かって走り続けた。
オイゲン・キケロの、スイス時代が始まろうとしていた。




