第十五話 北欧の冬
1975年、冬。コペンハーゲン。
二十九歳のニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセンは、自宅のリビングルームにいた。
窓の外では、雪が降っていた。デンマークの長い冬。灰色の空。白い世界。
ニールスは、ベースを抱えて座っていた。
オスカー・ピーターソンとの世界ツアーから、一時帰国していた。
次のツアーは、二週間後。また、家を離れる。
妻のソルヴェイグが、コーヒーを持ってきた。
「何を弾いてるの?」
「新しい曲」ニールスは答えた。「まだ、形になってないけど」
彼は、メロディを探していた。
頭の中にある、何か。言葉にならない何か。
ベースの弦を弾く。低音が、部屋に響く。
階段から、小さな足音が聞こえた。
娘のアンナが、パジャマ姿で降りてきた。五歳。
「パパ、まだ起きてたの?」
「ああ。お前こそ、なぜ起きてる?」
「パパの音が聞こえたから」アンナは父の隣に座った。
ニールスは、娘を膝に抱き上げた。
「何弾いてたの?」アンナが尋ねた。
「お前のための曲だよ」
「私の?」
「ああ。『Little Anna』って名前にしようと思ってる」
アンナは、嬉しそうに笑った。
「どんな曲?」
「優しくて、美しくて、お前みたいな曲」ニールスは答えた。
彼は、ベースでメロディを弾き始めた。
シンプルで、温かいメロディ。
北欧の子守歌のような、しかしジャズの自由さもある。
アンナは、目を閉じて聞いていた。
曲が終わると、アンナは父を見上げた。
「綺麗ね」
「ありがとう」
「パパ、また旅行に行くの?」
ニールスは、娘の髪を撫でた。
「ああ。二週間後」
「寂しい」
「お父さんも寂しい」ニールスは娘を抱きしめた。「でも、いつもお前のことを考えてる」
「本当?」
「本当だよ。だから、この曲を作ってるんだ。旅先で、この曲を演奏すれば、お前と一緒にいる気がするから」
アンナは、父の首に抱きついた。
ソルヴェイグが、微笑みながら見ていた。
翌日、ニールスはウーステッドに向かった。
小さな村。変わらない風景。
教会の尖塔が、雪の中に立っている。
両親の家に着くと、母のマルグレーテが玄関で待っていた。
「ニールス!」彼女は息子を抱きしめた。
父のハンスも出てきた。年を取っていたが、背筋は真っすぐだった。
「よく来たな」
家族で夕食を囲んだ。
母の手料理。デンマークの伝統的な料理。フレスケスタイ(ローストポーク)、ブルンカール(キャラメリゼしたポテト)。
ニールスは、窓の外を見た。
雪が降り続けている。
この風景。この静けさ。
ここが、自分のルーツだ。
「ニールス」父が口を開いた。「オスカー・ピーターソンとのツアーは、どうだ?」
「素晴らしいです。世界中を回っています」
「それは、良いことだ」
「でも」ニールスは言葉を探した。「家族と離れている時間が、長すぎます」
母が、心配そうに息子を見た。
「アンナは?」
「寂しがってます。僕も、寂しい」
「音楽家の宿命だな」父が言った。
「はい。でも、正しいのかどうか...」
父は、息子を見た。
「ニールス、お前は世界で最高のベーシストの一人だ」
「ありがとうございます」
「しかし」父は続けた。「音楽家である前に、父親だ。夫だ。その順番を、間違えてはいけない」
ニールスは、頷いた。
夕食の後、ニールスは一人で教会を訪れた。
鍵は、いつもの場所に隠されていた。石の下。
教会のドアを開けると、冷たい空気が顔を打った。
しかし、懐かしい匂いがした。古い木と、蝋燭と、何か神聖なもの。
ニールスは、祭壇に向かって歩いた。
そして、オルガンの前に座った。
父が、毎週ここで演奏している。
ニールスは、鍵盤に触れた。
そして、デンマークの古い賛美歌を弾き始めた。
「Dejlig er jorden」(麗しき地)。
メロディが、教会に響く。
シンプルなメロディ。しかし、深い。
この歌を、ニールスは子供の頃から聞いてきた。母が歌い、父が伴奏した。
この歌には、デンマークの魂がある。
土地への愛。家族への愛。そして、神への感謝。
演奏が終わった後、ニールスは静かに座っていた。
世界中を旅している。
オスカー・ピーターソン。ジョー・パス。世界最高のミュージシャンたち。
グラミー賞。
栄光。
しかし、心の中には、何かが足りなかった。
家族との時間。
娘の成長を見守る時間。
それは、二度と戻らない。
翌日、ニールスは父と一緒に、村を散歩していた。
雪道を歩く。二人とも、黙っていた。
「ニールス」父が口を開いた。「お前は、幸せか?」
ニールスは驚いた。父は、滅多にこういう質問をしない。
「わかりません」
「音楽は?」
「音楽は、素晴らしいです。最高のミュージシャンたちと演奏できる」
「しかし?」
「しかし」ニールスは立ち止まった。「家族と離れている時間が、辛いです」
父は、息子を見た。
「それは、選択だ」
「選択?」
「音楽を取るか、家族を取るか」父は言った。「両方は、難しい」
「両方、欲しいです」
「それなら」父は微笑んだ。「バランスを見つけろ。オスカーとのツアーを減らせ。デンマークでの仕事を増やせ」
「でも、オスカーは...」
「オスカーは、理解してくれるはずだ」父は言った。「彼も、父親だろう?」
コペンハーゲンに戻った後、ニールスはスタジオに向かった。
ケニー・ドリューとの録音セッション。
新しいアルバム『If You Could See Me Now』の準備。
スタジオで、ケニーが待っていた。
「NHØP、久しぶり」
「ケニー、元気だった?」
「ああ。お前は?」
「疲れてる」ニールスは正直に答えた。「オスカーとのツアーが、続いてる」
「大変だな」ケニーは同情した。「でも、今日は休もう。音楽を楽しもう」
録音が始まった。
ケニーのピアノ、ニールスのベース、アルバート・ヒースのドラムス。
最初の曲は、「If You Could See Me Now」。
美しいバラード。
ケニーのピアノが、優しくメロディを弾く。
ニールスのベースが、そっと支える。
そして、ニールスは気づいた。
ここにいる時、自分は自由だ。
オスカーとのツアーは素晴らしい。しかし、プレッシャーもある。
ケニーとの演奏は、違う。
友情がある。信頼がある。
そして、家に近い。
曲が終わった後、ケニーが言った。
「良かったぞ」
「ありがとう」
「NHØP、お前、何か考えてるな」
ニールスは、微笑んだ。
「いつもだよ」
1975年秋。
ニールスは、初めてのリーダーアルバム『Jaywalkin'』を録音した。
ケニー・ドリューがピアノで参加してくれた。
収録曲の中に、「Little Anna」があった。
娘に捧げた曲。
録音の日、ニールスはポケットに娘の写真を入れていた。
演奏が始まった。
ベースだけのイントロ。
シンプルで、美しいメロディ。
北欧の冬の静けさ。雪の白さ。家族の温もり。
すべてが、音楽になった。
ケニーのピアノが、そっと入る。
優しく、メロディを包む。
これは、技術ではなかった。
心だった。
父親の、娘への愛。
曲が終わった後、スタジオは静かだった。
それから、ケニーが言った。
「美しい曲だな」
「ありがとう」
「娘さんに聴かせたか?」
「まだ。でも、今夜、聴かせる」
その夜、ニールスは家族と夕食を囲んでいた。
食事の後、彼はベースを持ってきた。
「アンナ、あの曲、完成したよ」
「本当?」アンナの目が輝いた。
ニールスは、「Little Anna」を弾いた。
妻のソルヴェイグと娘のアンナが、静かに聞いていた。
曲が終わると、アンナが拍手した。
「綺麗!」
「気に入った?」
「大好き!」アンナは父を抱きしめた。
ニールスは、娘を抱き上げた。
この瞬間が、すべてだった。
世界中のどんなステージよりも。
どんな拍手よりも。
この、娘の笑顔が、すべてだった。
その夜、ニールスは一人で海辺を歩いていた。
コペンハーゲンの港。波の音。
星が、空に輝いていた。
ニールスは、これまでの人生を振り返った。
ウーステッドの教会で、初めて音楽を聞いた日。
十三歳で、ベースと出会った日。
十五歳で、モンマルトルでデビューした夜。
バド・パウエル、デクスター・ゴードン、ビル・エヴァンス、オスカー・ピーターソン。
そして、グラミー賞。
すべてが、素晴らしかった。
しかし、今、一番大切なのは、家族だった。
娘のアンナ。妻のソルヴェイグ。
彼らがいなければ、音楽も意味がない。
ニールスは、決心した。
オスカーとのツアーを、少し減らそう。
デンマークでの仕事を、増やそう。
家族と過ごす時間を、もっと作ろう。
音楽は、終わらない。
しかし、娘の成長は、待ってくれない。
ニールスは、空を見上げた。
星が、答えるように輝いていた。
人生には、バランスが必要だ。
音楽と、家族。
そのバランスを、見つけなければならない。
そして、ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセンの旅は、これからも続く。




