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第十四話 グラミーの夜

 1973年7月12日。シカゴ、ロンドン・ハウス。

 ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセンは、楽屋の鏡の前で深呼吸していた。

 二十七歳。黒いスーツに白いシャツ。髪を丁寧に整えている。しかし、手が少し震えていた。

 今夜は特別だった。

 オスカー・ピーターソン、ジョー・パス、そして自分。トリオ。ドラムスなし。

 三つの楽器だけで、音楽を作る。隠れる場所はない。すべてが裸になる。

 ドアがノックされた。

「ニールス、準備はいいか?」オスカーの声。

「はい」ニールスは答えた。

 楽屋を出ると、廊下でジョー・パスが待っていた。小柄な男で、いつも穏やかな笑みを浮かべている。ギターケースを大切そうに抱えていた。

「緊張してるのか?」ジョーが尋ねた。

「少し」

「俺もだ」ジョーは笑った。「オスカーと演奏するのは、いつも緊張する。あの人、完璧主義者だからな」

 オスカーが現れた。大柄な体格。黒い肌に、鋭い目。しかし、その目には温かさもあった。

「さあ、行こう」

 三人は、ステージへの階段を上がった。

 ロンドン・ハウスは、満席だった。

 赤いベルベットの椅子に、二百人ほどの観客が座っている。テーブルにはグラスとキャンドル。薄暗い照明の中で、人々の顔がぼんやりと見える。

 ステージは小さかった。グランドピアノ、ベース、そしてジョーの椅子とマイク。それだけ。

 ニールスは、ベースの前に立った。楽器を抱く。冷たい木の感触。太い弦の張り。

 心臓が激しく打っていた。

 オスカーがピアノの椅子に座った。指を鍵盤の上に置く。

 ジョーがギターを構えた。

 三人が、目を合わせた。

 無言の会話。準備はいいか。いこう。

 オスカーが数を数えた。

「ワン、ツー、スリー、フォー」

 最初の曲は、「Blues for Big Scotia」。

 オスカーのピアノが、ブルースのメロディを奏で始めた。

 右手が軽やかに踊る。左手が力強く和音を刻む。

 ニールスは、二拍待った。そして、ベースが入った。

 ドゥン、ドゥン、ドゥン、ドゥン。

 ウォーキング・ベース。一定のリズム。しかし、機械的ではない。生きている。呼吸している。

 ジョーのギターが、柔らかく和音を添える。

 三つの楽器が、一つになった。

 ニールスは、目を閉じた。

 オスカーの音を聴く。ジョーの音を聴く。そして、自分の音を聴く。

 三つの音が溶け合い、一つの音楽になる。

 オスカーがテンポを上げた。

 ニールスは、即座に対応した。ベースのリズムが加速する。しかし、決してビートを外さない。

 オスカーの右手が、鍵盤の上を駆け抜ける。信じられない速さ。しかし、すべての音符が明瞭だ。

 ニールスは、オスカーの呼吸を感じ取った。

 次に何が来るか。テンポがどう変わるか。

 そして、完璧にサポートした。

 観客は、息を飲んでいた。

 これは、ただの演奏ではない。これは、三人の巨匠による音楽的な対話だ。

 オスカーのソロが続く。

 ニールスは、ベースラインを変化させた。基本のパターンを保ちながら、音を足す。メロディを暗示する。和音を豊かにする。

 ジョーのギターが、繊細に絡む。

 三人が、一つの生き物になった。

 そして、ジョーのソロに移った。

 ジョーの指が、ギターの弦を弾く。

 柔らかく、しかし明確な音。

 ジョーは、メロディを歌わせる。音符一つ一つに、意味がある。物語がある。

 ニールスは、ベースで彼を支えた。

 ジョーが高音に上がれば、ニールスは低音で大地を作る。

 ジョーが静かになれば、ニールスも音量を下げる。

 呼吸が合う。

 観客の中で、一人の女性が目を閉じていた。音楽に浸っている。

 別のテーブルでは、年配の男性が微笑んでいた。かつて自分も演奏していた頃を思い出しているようだった。

 バーテンダーは、グラスを磨く手を止めて聞き入っていた。

 音楽が、部屋全体を包んでいた。

 そして、ニールスのベースソロの番が来た。

 オスカーとジョーが、音を止めた。

 ニールスだけが残った。

 低音が、クラブに響く。

 ニールスの指が、弦の上を動く。

 メロディが生まれる。低音なのに、歌っている。

 彼は、ベースで物語を語った。

 故郷のデンマーク。教会のオルガン。初めてベースに触れた日。そして、今ここにいること。

 すべてが、音楽になった。

 観客は、驚きの表情で聞いていた。

 ベースが、これほど表現力豊かな楽器だとは知らなかった。

 ソロが終わり、オスカーとジョーが戻ってきた。

 三人が再び一つになる。

 テーマに戻る。

 そして、最後の和音。

 ジャーン。

 余韻が消えていく。

 一瞬の静寂。

 それから、拍手が爆発した。

 観客が立ち上がった。スタンディング・オベーション。

 ニールスは、額の汗を拭った。

 オスカーが立ち上がり、ニールスとジョーに向かって拍手した。

 三人が、互いに微笑み合った。

 これだ。これが、音楽だ。

 二曲目、三曲目と演奏は続いた。

 「Secret Love」では、オスカーが繊細なバラードを奏でた。

 ニールスのベースは、囁くように柔らかい。

 ジョーのギターは、夜の風のように優しい。

 女性たちが、ハンカチで目を押さえていた。

 四曲目は、アップテンポの「Satin Doll」。

 オスカーの指が、鍵盤の上で踊り狂う。

 ニールスのベースが、疾走する。

 ジョーのギターが、スウィングする。

 観客は、リズムに合わせて体を揺らしていた。

 五曲目、六曲目。

 曲が進むにつれて、三人の一体感はさらに深まった。

 言葉を交わさなくても、わかる。

 次に何が来るか。どう展開するか。

 音楽が、すべてを教えてくれる。

 アンコールの後、三人は楽屋に戻った。

 汗だくだった。

 オスカーが、タオルで顔を拭きながら笑った。

「最高だったな」

「ああ」ジョーが頷いた。「今夜は特別だった」

 ニールスは、椅子に座り込んだ。疲れていたが、心は満たされていた。

 その時、ドアが開いた。

 ノーマン・グランツが入ってきた。興奮した顔をしている。

「聞いたか、お前たち」

「何を?」オスカーが尋ねた。

「今夜の演奏、録音してある」

「―――」

「全部だ。すべての曲」グランツは続けた。「お前たちに言わなかったのは、意識させたくなかったからだ」

 オスカーは、笑い出した。

「ノーマン、お前はいつもそうだ」

「結果を聞けば、文句は言わないだろう」グランツは言った。「今夜の演奏は、歴史に残る。アルバムにする。『The Trio』というタイトルだ」

 ニールスは、グランツを見た。

「本当に、良かったんですか?」

「良かった?」グランツは目を見開いた。「ニールス、お前は何を言ってるんだ。今夜の演奏は、完璧だった。これ以上のトリオ演奏は、聴いたことがない」

 ジョーが、ニールスの肩を叩いた。

「お前のベース、すごかったぞ。俺、何度も鳥肌が立った」

 オスカーが近づいてきた。

「ニールス、お前は世界最高のベーシストだ。それを忘れるな」

 その夜、ホテルの部屋で、ニールスは一人で窓の外を見ていた。

 シカゴの夜景。光に満ちた街。

 今夜の演奏を思い返していた。

 オスカーのピアノ。ジョーのギター。そして、自分のベース。

 三つの楽器が、完全に一つになった。

 それは、奇跡だった。

 音楽の奇跡。

 ニールスは、ベッドに横たわった。

 明日も、演奏がある。

 そして、その次の日も。

 音楽は、続く。

 永遠に。

 1974年2月。

 アルバム『The Trio』がリリースされた。

 評論家の反応は、嵐のようだった。

「オスカー・ピーターソンの最高傑作」

「ジョー・パスの繊細さが光る」

「ニールス・ペデルセンの完璧なタイム感」

「トリオ演奏の新たな基準」

 アルバムは、世界中で売れた。

 そして、グラミー賞にノミネートされた。

 1975年2月28日。ニューヨーク、ユニスフィア。

 第十七回グラミー賞授賞式。

 ニールスは、黒いタキシードを着て、オスカーとジョーと並んで座っていた。

 周りには、音楽業界のスターたちがいた。

 授賞式が進む。

 様々なカテゴリーで、賞が発表されていく。

 そして、ジャズのカテゴリーが来た。

「Best Jazz Performance by a Group」

 プレゼンターが、封筒を開けた。

「受賞者は...『The Trio』、オスカー・ピーターソン、ジョー・パス、ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセン!」

 拍手。

 三人は立ち上がり、壇上に向かった。

 オスカーがトロフィーを受け取り、簡潔なスピーチをした。

 そして、三人は席に戻った。

 授賞式が終わった後、ホテルの部屋で、ニールスはグラミー・トロフィーを見つめていた。

 金色のグラモフォン。

 しかし、ニールスの心は、シカゴのあの夜にあった。

 ロンドン・ハウスのステージ。

 三つの楽器が一つになった夜。

 音楽の奇跡が起きた夜。

 グラミー賞は素晴らしい。

 しかし、本当の報酬は、あの夜の音楽だった。

 それが、すべてだった。

 翌日、ニールスはコペンハーゲンに戻った。

 空港で、妻のソルヴェイグと子供たちが待っていた。

「おかえりなさい」ソルヴェイグが抱きついた。

「ただいま」

 子供たちが、トロフィーを見て目を輝かせた。

「父さん、これ何?」

「グラミー賞だよ」

「すごい!」

 ニールスは、家族を抱きしめた。

 ここが、自分の場所だ。

 音楽も大切。世界も大切。

 しかし、家族が一番大切だった。





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