リセット
「お父さん、離れて!」
荘太に電気ショックが与えられた。
『生きたい、生きてたい!』
父親が荘太に話しかけたあの時にいったん止んで以来、荘太の『悲鳴』は止んでいない。
電気ショックの後すぐに心臓マッサージが再開された。
荘太の心電図は、まだ回復していない。
『生きたい!俺は、皆と生きたいんだ!』
心臓マッサージをしている医師の横から父親が荘太の肩を揺らした。
「荘太!荘太!頑張れ!死ぬなよ!ママも今、頑張ってるから!」
その目に涙をためながら、父親は一生懸命荘太を励ましていた。
「お父さん、離れて!」
父親は、荘太の肩から手を放して、一歩下がった。
その時、父親の手から荘太のベッドに何かが落ちた。
「あっ!」
「危ないです!」
慌てて俺が父親を制止した時に、またしても荘太に電気ショックが与えられた。
「さっきまで、妻のそばにいて汗を拭いてたんですけど、荘太に夢中で、コレを握りしめていたことすら忘れてました」
父親が、苦笑いしながら、荘太のベッドに落としたハンカチを拾おうとしたその時だった。
荘太の手が動いて、ハンカチを握りしめた。
『……ママ……』
『悲鳴』が、止まった。
その頃、分娩室では、一人の赤ちゃんが産声を上げていた。
『悲鳴』を上げるほどの危篤状態から奇跡の生還を果たした荘太は、無事、退院の日を迎えた。
インターホンの音がした。
「中山です」
若い女性の声、きっと、荘太の母親だろう。
『おい、笹岡』
荘太に呼ばれて振り返った。
『俺は、約束は守る。だから、ちゃんと、聞いてろよ』
俺は、荘太を見てしっかり頷いた。
それは昨日のことだった。
「荘太!明日はいよいよ退院だな!お父さん、もう、楽しみで楽しみで……」
昨日、面会時間終了五分前に、荘太の父親がスキップでもしそうなくらい機嫌よく、NICUに訪れた。
「荘太、早く大きくなって、荘太と亮太とパパの三つ巴でキャッチボールしような!」
長男の帰りを相当心待ちにしていたのだろう。
ちなみに、亮太というのは、荘太の弟のことである。
だが、キャッチボールはまだ当分無理だと思う。
面会時間の終了の音楽が鳴り、父親は、帰り際にもう一度荘太を覗き込んだ。
「明日は、ママと、パパと、亮太の三人で迎えに行くからな!」
そういうと、ものすごく軽やかな足取りで父親は帰って行った。
そうか、母親が久しぶりに……。
俺は、NICUに来てからの日々を、荘太が独りきりで耐え抜いてきた日々を思い出していた。
面会に来ない荘太の家族に不信感を募らせ、その上に弟ができた事実に苛立ちを覚え、冷たい祖母の存在を知り、荘太の今後を案じていた。
俺の方が、毎日のように荘太に会っているし、きっと荘太のことを大事にできるから、本当に、荘太と家族になろうと思ったことだってあった。
それでも俺は、気付いてしまった。荘太が『悲鳴』を上げたあの時に。
荘太の心の中には、母親や父親、そして祖母や弟、家族の存在しかなかったことに。
俺は、荘太の心の奥底では、他人のままだったことに。
『なあ、笹岡』
ベビーの家族が誰もいなくなったNICUで、荘太が話しかけてきた。
『明日、俺、母親に、自分の口で話しかけようと思う』
機械の音しか聞こえないNICUで、荘太の『声』だけが心に響いてきた。
『だから、笹岡、見ててくれないか?俺が、自分の意志で、言葉を話す瞬間を』
「なあ、もし……」
『ん?なんだ?』
「いや、何でもない」
その時俺は、あることを思いついてしまっていた。
もし、荘太が話しかけたとき、荘太の母親が、無反応だったら、拒絶してしまったら。
その時は、どんなことをしてでも、俺が荘太を引き取ろうと。
荘太にとっては血の繋がった家族の方が大事に違いない。
それでも、血の繋がった家族に大事にしてもらえないのなら、俺がその分まで大事にするから。
荘太が自分の口で言葉を発したその瞬間に、荘太の記憶はリセットされるはずだから。
ずっと家族を待ちわびた記憶を忘れて、俺とゼロからやり直せばいいんだ。
準備を整えた両親が、亮太を連れて入ってきた。
亮太を抱っこしている父親の後ろを、母親が不安そうに歩いている。
荘太のベッドに近づくと、父親は立ち止まって、母親に先に行くように促した。
恐る恐る、荘太に近寄る母親。
『ねえねえ、あれ、誰?あれは、誰?』
亮太は、兄の荘太に興味津々だ。
『俺は、荘太。亮太の兄ちゃんだ』
『ボクのお兄ちゃんなの?ボクにお兄ちゃんがいるんだ!お兄ちゃん!すっごく嬉しい!』
兄弟の『会話』がなされている間に、母親は荘太のもとへとたどり着いていた。
そして、恐る恐る、荘太を覗き込んだ。
「荘太?」
荘太、俺はちゃんと聞いているから。
約束したよな?
「ママ」
荘太がしゃべった!
しっかりと、母親を見つめて、「ママ」ってしゃべった!
俺はすかさず母親の様子をうかがった。
母親は、目からポロポロと涙を流していた。
「荘太が今、ママって言った!」
母親は、荘太の手を握りしめて言った。
「荘太、こんなに大きくなってたのね。今まで荘太のところに行く勇気がなくてごめんね」
母親は、涙ながらに荘太を抱き上げた。
「ママのこと、覚えていてくれて、ありがとう!荘太、大好きよ!これからはずっと、ずっと一緒だからね」
そうだ、これでいいんだ。
これが最良の方法なんだ。
そう思いながらも胸が痛かった。
本当に、荘太とお別れなのだ。
『兄ちゃんばっか、ずるい!ボクも、ママの抱っこがいい!』
亮太がぐずり始めた。
今日くらい、譲ってやれよって、新生児にそれは酷か。
『何甘ったれたこと言ってんのよ!』
『パパが抱っこしてくれてるからいいじゃない!』
『私たちなんて、パパとママが抱っこしても一人余るのよ!ワガママ言ってるんじゃないわよ、ボウヤ』
たちまち亮太は、姦し三つ子の総攻撃に遭った。
亮太よ、来た時期が悪かったな。
少しの間ぽかんとしていた亮太は、『ごめんなさい』と、素直に謝った。
でも、そのあと、小さな声で、『女の子コワイ女の子コワイ……』と呟いていたことは、俺しか知らないかもしれない。
彼の心にトラウマができていないことを祈ろう。
『荘ちゃん、よかったね!』
『荘ちゃん、元気でね!』
『荘ちゃん、ありがとう!』
『ソータ、アバヨ!』
ベビーたちが荘太に『声』をかけている。
だが、荘太はもう『声』を発しない。
あの瞬間に、「ママ」って言ったあの瞬間に、荘太は『声』を失った。
そして同時に、今までの記憶も失っただろう。
あの瞬間に、荘太の記憶はリセットされたんだ。
なあ、荘太。
荘太はきっと、ここでの記憶を忘れてしまっただろうね。
でも俺は、覚えているから。
荘太が寂しかったことも。
荘太がそれでも諦めなかったことも。
だからこそ、俺は願うよ。
リセットされた記憶の空間に、楽しい思い出がたくさん作られることを。
これからの荘太の人生が、光り輝いていることを。
母親が、荘太を連れ帰ろうと、抱っこし直したその時だった。
ものすごい勢いで纐纈がやってきた。
「ごめん、荘太君!退院前の採血忘れてたから、今から採らせて!」
「イヤー!!」
~終~
読んでくださった皆様、ありがとうございました。
まだまだ、至らない点が多々あると思います。
また、筆者自身は、NICUと密に接しているわけではないので、事実とは異なる部分も多々あるかと思います。
この物語はフィクションですので、そこらへんは大目に見ていただけると幸いです。