第9話:かわいい妹ができました
【マリアの心情】
(不思議ね。あんなに怖かったルミリア様のお拳が、今は少しも怖くないの。
ルミリア様が「こちらの番ですわね」って言ったとき、お城の壊れた壁の向こうから、すっごく綺麗な満月の光が差し込んできたの。裸足のまま、ミッドナイトブルーのドレスを静かに揺らして立つルミリア様は、まるで夜の女神様みたいに神々しくて、本当に美しかった。
エドワルド殿下は、床の上で「もう終われよ!」って必死に叫んでいるけれど……。違うの、殿下。私とお姉様――ううん、ルミリア様は、今、言葉なんかよりもずっと深いところで、ちゃんとお話しできているの。
ルミリア様が、静かに一歩、前に踏み込んだ。
床は割れなかった。爆風も起きなかった。だけど、私の目の前の空間が、まるで温かいお湯みたいに優しく揺らいだ気がしたの。
あの真っ直ぐな、一点の曇りもないお拳が、私に向かってくる。
私は逃げない。セリアさんに教わった通りのガードを固めて、ルミリア様のすべてを、この心で受け止める。
私に、貴方の『真実』を教えて――!)
「だからなんでカウンター入れようとするんだよ! 意思疎通できたんだからもう終われよ!」
床に這いつくばったまま、第一王子エドワルドが血相を変えて叫び、二人の令嬢の間に強引に割って入ろうとした。
「それは無理だルミリア! お前の一撃を受けたら、マリアは今度こそ木端微塵になって死んでしまう!」
「殿下は少し黙って下さい」
キッ! とルミリアが冷徹な一言と共に、鋭い視線を向けた。その眼輪筋から放たれた目力だけで、エドワルド殿下はビクゥッ!と肩を震わせ、声が出なくなった。
「……はい」
完全に生物としての格の差、食物連鎖の頂点たる存在を本能で察したのか、殿下はそのまま体育座りの姿勢で静かに退いた。
「え? え? え?」と、状況についていけない周囲の貴族たちが戸惑う中、夜会会場は再び、水を打ったような完全な静寂に包まれた。
ルミリアはマリアの正面に立ち、静かに自らの右の拳を構えた。
「歯を食いしばり、腰を落とし、目を閉じず、しっかりと私をみなさい。そして――私の拳に宿る『想い』を感じ取るのです、マリア様」
「は、はい!」
マリアはおずおずと、しかし先ほど自ら掴み取った魂のガードをしっかりと固めた。その瞳には、もう一切の迷いはない。
「気を抜くと……死にますわよ」
「え?」
「気を抜かない! いきますわ」
「……はいっ!!」
ルミリアが静かに一歩、踏み込んだ。
床の大理石は割れない。ソニックブームも起きない。風すらも止まったかのような、奇妙な凪。
しかし、彼女がこれまでの人生で背負ってきたグロースター公爵家としての孤独、周囲からの冷徹な評価、そして、目の前の不器用な男爵令嬢マリアへの、言葉にならないほどの深い慈悲の念。そのすべてが、一点の曇りもない純粋な拳となって、マリアのガードへと吸い込まれていく。
――パス
本当に、触れただけの、極限まで軽い一撃だった。
会場にいた誰もが、今のは不発だったのではないかと思った。風も吹かず、衝撃波も起きなかったからだ。
しかし、その瞬間、床に這いつくばっていたエドワルド殿下は、なぜか微風もないのに自分の髪がふわりと逆立つのを感じた。
「な、なんだ……? 今、完全に無音だったぞ。なのに、心臓を直接掴まれたような、この妙なプレッシャーは一体……!?」
「うう……痛い、痛いよぉ……っ」
外傷は一切ない。ドレス一枚、髪の毛一本すら傷ついていない。
しかし、マリアはその場にゆっくりと崩れ落ち、自らの胸を両手で強く押さえながら、ボロボロと大粒の涙を流して号泣し始めた。
それを見たエドワルド殿下が、混乱してマリアのもとへと慌てて駆け寄る。
「おいルミリア! 今のはなんだ?! 奥義か何かか!? 彼女はただの男爵令嬢なんだぞ、やりすぎ――」
「違います、殿下……っ!」
マリアが涙を拭いながら、エドワルド殿下の言葉を力強く遮った。
「お身体は……どこも痛くありません……。痛いのは、心なんです……! 公爵令嬢様……いえ、お姉様の拳から、言葉にならないほどの慈悲の心、悲しみ、そして……深い愛が、ドクドクと流れ込んできたんです……! どうして、どうしてそんなに温かいのですか……!?」
「はあぁぁぁ!? 拳から慈悲!? 愛!? お前ら何テレパシー会話してんだよ! 物理の法則どこ行ったんだよ!」
エドワルド殿下は完全に置いてけぼりで、頭を抱えて叫んだ。しかし、マリアは涙を流したまま、殿下をビシッと指差した。
「殿下はこれでいいんですか!? こんなにも優しく、深い愛を持ったお姉様を裏切って、冤罪で陥れようとするなんて、男として、次期国王として最低です! 恥を知りなさい!」
「いや、だから意味が……え? 婚約破棄しようとしたの俺だけど、なんで俺がマリアに怒られてるの? そもそもこれ何の時間?」
混乱するエドワルド殿下をその場に放置し、ルミリアは突き出していた右の拳を、実になめらかな所作ですっと引き戻した。そして、乱れたドレスの裾を優雅に整える。
「これが、私の答えですわ」
するとマリアは、目を輝かせながら猛ダッシュでルミリアに駆け寄り、そのドレスの裾を掴んだ。
「公爵令嬢様! お姉様、とお呼びしてもよろしいでしょうか!?」
「許可します」
「お姉様! 私たち、もっと分かり合えます! 拳を交えた今なら、何でも話せる気がします!」
「そのようですわね。貴方の次の課題は、左のジャブのキレですわ。明日の朝六時に、グロースター公爵邸の鍛錬場へいらっしゃい」
「はい! お姉様!」
熱い友情、否、真の「姉妹の絆」を結ぶルミリアとマリア。
半分溶け、半分壁がくり抜かれて夜空が露出した、およそ夜会会場とは思えない大惨事の中心で、二人の令嬢の周りにだけ、聖なる光が満ち溢れているようだった。
その輝かしい光景の端っこで、周囲に転がる取り巻き三人(ガルク、レオン、キルア)の無残な姿を見つめながら、エドワルド殿下が蚊帳の外から恐る恐る声をあげた。
「いや、あの……俺は? 俺の存在は? それに、最初の婚約破棄の件はどうなるんだ……?」
不憫な殿下の問いかけに、ルミリアとマリアは同時に振り返り、息の合った冷たい視線を一斉に投げかけた。
「「それは私が決めますわ(ね)」」
二人の声が、寸分の狂いもなく美しく重なる。
「「それでは皆様、ごきげんよう」」
それは、先ほどまで世界を滅ぼすほどの超次元バトルが繰り広げられていたとは誰も信じられないほど、完璧に揃った、優雅で気品あふれる伝統的なカーテシーだった。
「いや、納得いかねえよおおおおお!!!」
エドワルド殿下の絶叫が、くり抜かれた壁から夜空へと木霊する中、ルミリアとマリアの二人はお互いに顔を見合わせ、フッと、慈愛に満ちた微笑みを浮かべ合うのだった。
(第10話へ続く)




