閑話1:とある伯爵が語る『あの夜会で起きたこと』
【マリアの心情】
(……ええっと、マリアです。
私たちが王宮で大騒ぎを起こしてから、数日が経ちました。
学園では、なぜか私のところに「マリア様、左ジャブのご指導を……!」と、たくさんの令嬢たちが集まってきて、今や学園の裏庭は臨時のボクシングジムみたいになっています。エドワルド殿下は、相変わらず私たちのミットを持つ係をさせられていて、すっかり背中が丸くなってしまいました。
そんな中、社交界ではあの夜会に居合わせた貴族の方々が、毎晩のように「あの夜の恐怖」を語り合っているみたいです。
特に、私の実家の近くにお屋敷があるロベルト伯爵というおじ様は、あの夜、ちょうどケータリングのテーブルの近くにいたそうで……。
おじ様が、酒場で震えながら語ったという『真実の記録』が、なぜか私の手元に届いたので、ちょっとだけ覗いてみましょう――)
やあ、よく来てくれたね。まあ座って、強い酒でも煽ってくれ。……いや、すまないね。手がまだ少し震えるんだ。病気かって? 違う、違うんだ。あの「断罪の夜会」以来、広い部屋の真ん中に立つと、どうしても背筋が凍りついてしまうんだよ。
あの日、私は確かにあの場所にいた。エドワルド殿下が、グロースター公爵家のルミリア嬢を呼び出して断罪を始めたとき、私は正直「お、始まったぞ」なんて呑気に構えていたんだ。貴族の権力争いなんてよくある話だし、氷のように冷徹なルミリア嬢が泣き崩れる姿を、ほんの少しだけ楽しみにしていた自分すらいた。殿下の後ろには、震える可憐なマリア嬢もいたしね。誰もが、予定調和の婚約破棄で終わると思っていたんだ。
それが、どうだ。
ルミリア嬢が、ドレスの裾を払ってヒールを脱ぎ捨てた。
淑女が、大夜会の真ん中で、裸足になったんだ。私は我が目を疑ったよ。狂ったのかと思った。
だが、彼女が腰を落として、片手を前に突き出した瞬間――会場の空気が、ガタガタと音を立てて震え始めたんだ。重力がおかしくなったかと思ったよ。呼吸がうまくできなくなるほどの、圧倒的なプレッシャーだ。
そして彼女が言葉を発した。
「拳で真実を語り合いましょう」と。
次の瞬間、私の脳の理解は完全に停止した。
ズバァァァンッッ!!!
爆音だ。落雷なんて生易しいものじゃない。彼女が一歩踏み出しただけで、王宮の、あの頑丈な最高級の大理石の床が、まるで大砲の直撃を受けたみたいに粉々に爆ぜて四方に飛び散ったんだ! 飛び散った石の破片が私の頬をかすめて、血が出たよ。彼女の身体は一瞬でブレて消え、次の瞬間には殿下の目の前にいた。拳の周りの空気が、熱で陽炎のようにぐにゃぐにゃに歪んでいたんだ。令嬢の突撃でソニックブームが起きるなんて、誰が想像できる!?
「殿下、危ない!」と叫んで飛び出したガルク近衛副団長には、心から同情するよ。彼は特注の大剣を構えて【剛力一閃】を放った。城門を割る一撃だ。なのに、ルミリア嬢はその刃の側面を、ただの左パンチでパシィンと叩いた。
それだけで、あの竜鱗鋼の大剣が、ガラス細工みたいに粉々に砕け散ったんだ!
その後はもう、ただの虐殺……いや、格闘の嵐だ。二メートルを超えるガルク殿が、ルミリア嬢の右ストレート一発で、弾丸のように後ろの壁に吹っ飛んでいった。ドォン!って音がして、壁に綺麗にガルク殿の形の凹みができて、彼はそこにめり込んだまま動かなくなった。あの時の彼の白目は、今でも夢に見るよ。
次に前に出た天才魔術師のレオン殿も哀れだった。
彼は会場を氷点下に変えて、馬車ほどもある氷の槍を数十本も降らせたんだ。私たちは「これで公爵令嬢も終わりだ」と、壁際にしがみつきながら思った。
だが、ルミリア嬢は逃げなかった。ただ、その場で腕を振ったんだ。
シュシュシュシュシュシュッッッ!!!
目にも留まらぬ速さのパンチの連打だ。放たれた圧倒的な「拳の風圧」だけで、迫り来る巨大な氷の槍が、触れる前に全部粉々に砕け散って、摩擦熱で一瞬で蒸発して、会場が真っ白な霧で包まれたんだよ。魔法だよ! 筋肉が魔法を超えた瞬間だった! レオン殿はその後、当たってもいないフックの風圧だけで独楽みたいにくるくる回転しながら吹っ飛んでいって、私がちょうど避難していたケータリングのテーブルに突っ込んできた。
私の目の前で、ローストビーフの山に頭から突き刺さって、デコレーションケーキの生クリームまみれになって気絶している天才魔術師の姿は、あまりにもシュールすぎて涙が出そうだったよ。
最後の一人、暗殺術のキルア殿なんて、会場中に目に見えない鋼線を張り巡らせていたらしいんだが、ルミリア嬢は目を閉じたまま、ワルツを踊るみたいなステップですべての鋼線の隙間をすり抜けて、キルア殿の背後に回った。
そして、掌で彼の突きを優しく包み込んだかと思ったら、静かなバックハンドで彼を雑巾みたいに床へスライディングさせたんだ。キルア殿が吹き飛んだ勢いで、会場の鋼線がブツブツブツッ!って引きちぎれて宙に舞う光景は、もはや美しいとさえ思ったね。
そして、殿下との一騎打ちだ。
殿下が命を懸けて放った最終奥義【天焦がす極炎の覇王】。会場の壁がドロドロに溶けるほどの超高熱の火炎放射だ。
それを、ルミリア嬢は、『右ストレート』一発で、真っ二つに綺麗に割ったんだよ。海が割れるみたいに、炎が左右に割れて、彼女の後ろの壁をさらに抉り取っていった。
そして彼女のパンチが止まった瞬間、ドンッ!と遅れて放たれた風圧だけで、王宮の頑丈な壁に直径十メートルのでっかい大穴が空いて、外の星空がコンニチハしたんだ。
もう、私たち貴族は、恐怖のあまり誰も声が出せなかった。ひたすら壁にしがみついて、おしっこを漏らさないように耐えるだけで精一杯だったんだ。
でもね、本当に恐ろしいのは、その後の光景だったんだよ。
殿下が全魔力を使い果たして床にバッタリ倒れた直後、ルミリア嬢は何事もなかったかのように、レオン殿が突っ込まなかった方の綺麗なテーブルにトコトコと歩いていって、自分で優雅に紅茶を淹れて、最高級のカップでハーブティーを楽しみ始めたんだ。
さっきまで世界の終末みたいな死闘をして、お城の壁を消し飛ばした奴が、なんで戦闘終了から三十秒後に優雅にティータイムを楽しめるんだよ!? 緊迫感って言葉を知らないのか、あの怪物は!
その後、マリア嬢が急に特訓を始めて、風を切る音を「シュッシュッ」って鳴らし始めたのも怖かった。ルミリア嬢はマリア嬢のパンチを受け止めて、「からっぽですわ。拳に思いを乗せなさい」とか、謎のスピリチュアルな説教を始めてね。
マリア嬢が覚醒して、静かに『トン』ってパンチを打ったら、ルミリア嬢が嬉しそうに微笑んで、今度は『パス』って軽いカウンターをマリア嬢のガードに入れたんだ。
マリア嬢はどこも怪我していないのに、「心が痛いです、お姉様!」って号泣し始めて……。
最後には、半分溶けて壁に大穴が空いた大惨事の真ん中で、二人の令嬢が完璧に揃った、息の合った優雅なカーテシーをして「ごきげんよう」って微笑み合って去っていったんだ。
……いや、納得いかねえよ。
床に転がった殿下が最後にそう絶叫していたけれど、会場にいた数百人の貴族全員、心の中で「納得いかねえよおおお!!」って一緒に絶叫していたと思うよ。
でもね、私は決めたんだ。
明日から、うちの娘にもピアノや刺繍なんてやめさせて、グロースター公爵邸の門を叩かせる。これからの社交界を生き抜くために必要なのは、教養でも財産でもない。
音速の壁を越える、強固な「体幹」と「左ジャブのキレ」だ。
……さあ、話は終わりだ。強い酒をもう一杯、頼むよ。明日の朝六時から、娘と一緒にスクワットを始めなきゃいけないからね。
(おわり)




