閑話2:隣国皇子の冷や汗まみれの外交考察
【マリアの心情】
(……ええっと、またまたマリアです。
学園の裏庭ジムは、今や近衛騎士団の若い人たちまで混ざるようになって、毎日朝から「シュッシュッ」と熱い声が響いています。
そんな中、お姉様と私が学園の食堂でいつものようにお茶をしながらスクワットのフォームについて語り合っていたら、少し離れた席から、すっごく真剣な顔で私たちを凝視している人がいたの。
確かに、隣国の大帝国から留学してきている、第一皇子のカイル殿下。
「大陸最強の武闘派」って噂されていて、いつも不敵な笑みを浮かべている怖い人なんだけど……。
なんだか今日のお顔は、幽霊でも見たみたいに真っ青で、手元にある「本国への極秘外交親書」を持つ手がガタガタと震えているみたい。
カイル殿下が、夜も眠れずに書き殴ったという、祖国の皇帝陛下宛ての『驚愕の外交考察報告書』。その中身を、ちょっとだけ覗いてみましょう――)
【極秘・アルベール王国外交状況報告書】
発信者:第一皇子カイル・フォン・ヴァルハイト
受信者:ヴァルハイト帝国皇帝陛下、ならびに最高軍事評議会各位
父上、ならびに我が帝国の誇り高き将軍たちよ。
直ちに我が軍の、アルベール王国に対するすべての軍事侵攻計画、および国境付近での武力挑発を全面停止せよ。繰り返す、直ちに中止だ。これは命令である。
……いや、まずは落ち着いて私の言葉を聞いてほしい。
今、この親書を書いている私の手は、見たこともないほど激しく震えている。ペン先が紙を引き裂きそうだ。
正直に告白しよう。私は今、自分が何を書き殴っているのか、自分でも全く分かっていないのだ。
我が脳髄が、我が理性が、先夜に目撃した「光景」を現実のものとして受け入れることを頑なに拒んでいる。
これは夢か? それとも幻覚か?
何度も自問自答した。だが、繰り返すが、これは真実である。紛れもない真実なのだ。
決して、私が大夜会の酒に酔って頭がおかしくなったわけではない。天に誓って、私は正気だ。
……いや、むしろ、私の頭が本当におかしくなっていた方が、どれほど幸せだったかもしれない。もしこれが私の狂った精神が見せた悪夢であったなら、私は喜んで精神病院の暗いベッドへ飛び込んでいただろう。しかし、あの夜、王宮の壁に空いた直径十メートルの大穴から差し込んでいた満月の光は、冷酷なまでに現実だった。
誤解しないでいただきたい。アルベール王国の最高戦力たるエドワルド殿下やその側近たちが、決して軟弱だったわけではないのだ。
むしろ逆だ。次期騎士団長ガルクの【剛力一閃】は城門を消し飛ばす質量を誇り、天才魔術師レオンの氷結魔術は一軍を永久に凍土へと変える広範囲絶技であり、キルアの暗殺術は一個小隊を音もなく全滅させる極致。そして何より、エドワルド殿下が命を懸けて放った最終奥義【天焦がす極炎の覇王】は、我が帝国の堅牢な要塞すら一瞬でドロドロのマグマへと変える、文字通りの『国家戦略級兵器』であった。彼らは間違いなく、この大陸でも上位の実力はあるだろう。
だが、あのルミリア・フォン・グロースターという女は、それら全ての神話級の暴力を、ただの『素手の肉弾戦』で完璧にねじ伏せた。
彼女がドレスの裾を払い、ヒールを脱ぎ捨てて床に裸足で立った瞬間、空気の質量そのものが変質した。
彼女の放った一歩目の踏み込みは、ただの足踏み一発でドーム状の王宮の床をクレーターへと変え、肉体は一瞬で音速を超えて白い衝撃波の輪を置き去りにした。
ガルクが放った渾身の一撃に対し、ルミリア嬢は避けることすらせず、ただの左ストレートでその大剣の側面を叩いて粉々に砕き、右ストレート一発で彼を弾丸のように壁にめり込ませた。
続くレオンの広範囲氷結魔術に対しても、「シュシュシュシュシュシュッッッ!!!」と神速のラッシュを披露。放たれた圧倒的な「拳圧」の連打が衝撃波の嵐となり、迫り来る氷の槍を触れる前にすべて粉砕し、打撃の摩擦熱で一瞬にして蒸発させた。
キルアの目に見えない鋼線の檻すらも目を閉じたままワルツのステップですり抜け、静かなバックハンドで彼を床へスライディングさせ、すべての鋼線を引きちぎったのだ。
そして極めつけは、殿下の最終奥義――要塞をも溶かすあの極炎の濁流を、彼女は何の魔力もオーラも纏わない、ただの、本当にただの、基本に忠実な『右ストレート』一発で、綺麗に真っ二つに割った。炎を、割ったのだ。そして、止まった彼女の拳から遅れて放たれた風圧だけで、王宮の頑丈な外壁に直径十メートルを超える風穴を空けた。
……断言する。あれは人間ではない。
人間がどれほど鍛錬を積もうとも、ただのパンチの風圧で最高位魔法を蒸発させ、国家戦略級の炎を真っ二つに割ることなど不可能なのだ。
あの一見完璧に美しい公爵令嬢の皮の下に隠されているのは、神代の時代に世界を滅ぼし、歴史の闇へと封印された『古の邪神』か何かに違いない。そうでなければ、これほどの物理法則の破壊に説明がつかないのだ。
しかも恐ろしいことに、戦闘終了からわずか三十秒後、その邪神は壊れ残ったテーブルで優雅にハーブティーを楽しみ始めたのだ。お城の壁を消し飛ばしておきながら、何事もなかったかのように口元をナプキンで拭うあの底知れぬ不気味さ。あれは武の極みを超えた、何かもっとおぞましい異次元の存在だ。
父上、将軍たちよ。
我がヴァルハイト帝国が取るべき外交方針は、ただ一つ。
明日、私は帝国最高級の貢ぎ物(特注の格闘用バンテージと、最高級のプロテイン粉末)を携え、グロースター公爵邸の門を叩く。
万が一、我が国の脳筋将軍たちが「令嬢一人に何を怯える」などと不届きな妄想を口にした場合は、私が直接、その将軍を物理的に沈黙させる所存である。
我が帝国の未来を護るため、これより私は学園の裏庭ジムにて、左ジャブのキレを磨く特訓に参加する。
重ねて言う、アルベール王国への侵攻は絶対に無理だ。あの邪神の機嫌を損ねれば、我が帝国そのものが一本のストレートで地図から消される。
それでは皆様、ごきげんよう。
(おわり)




