第8話:はじめて届いた、小さな想い
【マリアの心情】
(心臓の音が、うるさくて壊れちゃいそう。
ドックン、ドックンって、耳の奥でずっと鳴り響いている。
侍女のセリアさんに言われるがまま、脇を締めて、腰を回して、シュッシュッて拳を突き出してみた。不思議だった。ただ腕を振り回すんじゃなくて、足の裏から背中を通って、全部の力が拳の先っぽに集まっていくみたいな、今まです知らなかった感覚。
でも、私の目の前に立つルミリア様は、そんな私の急ごしらえの構えを、ただじっと見つめている。
ドレスの裾を揺らしながら、裸足のまま、まるでお人形さんみたいに無表情で。
あの人には、どんなに強いパンチを打っても効かないんじゃないかって思えてくる。だって、世界を滅ぼしそうな炎をパンチ一発で割っちゃうような人だよ? 私みたいな弱小男爵家の娘が、必死に殴ったところで、蚊に刺されたくらいにしか思われないに決まってる。
でも、引いたら死ぬ。ここで逃げ出したら、それこそ本当にミンチにされる。
セリアさんに教わった通り、床を強く蹴って、私は夢中で拳を突き出した。
私の、人生で初めてのパンチ。
お願い、少しでも届いて――!)
「えい!」
マリアは可愛いピンク色のドレスを激しく翻し、小さな裸足で床を踏みしめて跳んだ。
侍女セリアの手ほどきによって、そのフォームは先ほどまでの不格好なものとは見違えるほど美しく、淀みがない。腰の回転が正確に肩へと伝わり、放たれた右の拳は、真っ直ぐにルミリアの顔面へと向かっていく。
パス
それは、風を置き去りにするような突撃ではなかった。夜会会場を破壊するような衝撃波も起きない。
ルミリアは、マリアの放った渾身のストレートを、自らの右の手のひらで、まるで飛んできた蝶を優しく包み込むかのように、パシィンと軽々と受け止めた。
ぴたり、と二人の動きが止まる。
割れた壁の向こうから差し込む静かな月光が、重なり合う二人の影を白く照らし出していた。
「……」
マリアは自分の拳が完璧に受け止められたのを見て、おずおずと顔を覗かせ、消え入りそうな声で言葉を発した。
「ど、どうでしょうか……?」
ルミリアはマリアの拳を掌に挟んだまま、その深海の底のような冷たい瞳をゆっくりと動かし、マリアの目を真っ直ぐに見据えた。その表情には、怒りも、失望も、何も浮かんでいない。ただ、ただ冷徹な事実だけを告げるための静寂があった。
「からっぽですわ」
「え……っ」
ルミリアの短い一言に、マリアの身体がビクリと跳ねた。
「……ちゃんと、拳に思いを乗せてくださいまし。拳とは、ただ相手を傷つけるための暴力装置ではございません」
ルミリアはマリアの拳を優しく解放し、自らは再び半歩後ろへと引いて、美しい防御の構えを固めた。
「拳とは、己の生き様、魂、そして覚悟をぶつけるための、最も純粋で嘘偽りのないコミュニケーションツールですわ。言葉はいくらでも嘘をつけます。冤罪をでっち上げることも、本心を隠して着飾ることも可能です。ですが、拳は騙せません。今の貴方の拳には、何も入っていませんわ。ただ、死にたくないという恐怖と、周囲に流されるままの迷いだけ。そんな軽い拳では、私の心には何も伝わりません」
ルミリアの声は低く、しかし夜会会場の隅々にまで染み渡るように響いた。
「拳は暴力装置だよ! あとコミュニケーションは普通、言葉でやるもんだろ!」
床に倒れたままのエドワルド殿下が、本日何度目かもわからない至極真っ当な正論の叫びをあげるが、二人の令嬢の精神世界には、もはや一文字の言葉すら入り込む余地はなかった。
マリアは、自分の両手を見つめた。
からっぽ。その通りだった。自分はただ、エドワルド殿下に優しい言葉をかけられて舞い上がり、周囲の貴族たちに怯え、ルミリアの圧倒的な強さに恐れおののいていただけ。自分という人間が、これからどう生きたいのか、何を護りたいのかという「覚悟」が、どこにもなかったのだ。
マリアの胸の奥で、小さく、けれど消えることのない熱い炎がフッと灯った。
弱小男爵家の娘として、いつも誰かの後ろに隠れて怯えていた自分。そんな自分は、もう嫌だ。
「……わかりました」
マリアは深く、深く息を吸い込んだ。
彼女の瞳から、先ほどまでの怯えや涙が完全に消え去り、代わりに揺るぎない「覚悟の炎」が宿る。
マリアはドレスの裾を今度は力強く握り締め、もう一度、深く腰を落とした。セリアに教わったフォームではない。彼女自身の魂が導き出した、彼女だけの真実の構え。
「むむむむっっ!」
マリアの小さな肉体から、魔力ではない、けれど強烈な「意志の力」がオーラのように立ち上り、周囲の空気をチリチリと震わせる。
「えぃや!」
マリアは床を強く蹴った。
トン
それは、大爆発の音ではなかった。衝撃波で壁が崩れることも、風圧でドレスが引きちぎれることもない。
本当に、ただ、空間を静かに揺らすような、真っ直ぐで、一点の曇りもない一撃だった。
ルミリアは、その迫り来る拳を避けることも、掌で受け止めることもしなかった。マリアの放った、魂のすべてが乗った真っ直ぐな拳は、ルミリアの固めていたガードの真ん中へと、吸い込まれるようにして命中した。
トン
ただそれだけの、静かな音。
しかし、その瞬間、床に倒れていたエドワルド殿下は、妙なプレッシャーを感じて思わず目を見開いた。
「な、なんだ……? 今、何も音がしなかったのに、空間そのものが一瞬だけ震えたような……妙な感覚が……!?」
ルミリアは、マリアの拳をその身に受けたまま、ゆっくりと目を見開いた。
彼女の胸の奥に、マリアの純粋な想いが、直接、染み渡るように流れ込んできたのだ。男爵家という低い身分で必死に生きてきた孤独、殿下に救われたという純粋な感謝、そして、目の前の高い壁を越えようとする、一人の自立した女性としての覚悟。
ルミリアはゆっくりとマリアの拳を解放し、今日一番の、最高に優しく、美しい微笑みをその顔に浮かべた。
「分かりました。貴方の想い――しっかりと届きましたわ」
「ハァハァ、良かったです。良かったです?」
全霊の一撃を放ち、肩で激しく息をするマリア。彼女は自分の拳が初めてルミリアに届いたことに、驚きと喜びを隠せない様子だった。
しかし、ルミリアの瞳の奥の「武の光」は、まだ消えてはいなかった。
「では、こちらの番ですわね」
ルミリアのその静かな一言に、夜会会場の空気が、再びカチリと凍りついた。
(第9話へ続く)




