第7話:怯える少女に見つけた、小さな勇気
【マリアの心情】
(あ、神様。お父様、お母様。今まで短い間でしたけど、ありがとうございました。私、マリアは本日をもちまして、この世を卒業することになりました。
だって、見てよ。エドワルド殿下の最終奥義――お城の壁をドロドロに溶かしちゃうくらいものすごい、火の神様みたいなパンチを、ルミリア様は、まるでスイカを割るみたいに綺麗に真っ二つに割っちゃったのよ!? その後に放たれた風だけで、お城の壁に直径十メートルのでっかい大穴が空いて、お外の星空がコンニチハしてる。意味がわからない。私の知ってる物理学の教科書に、そんなパンチのやり方載ってなかったわよ!
そんな恐ろしいお拳を突き出したまま、ルミリア様が私をじっと見つめてる。
『来なさい』って。無表情のまま、すっごく綺麗なポーズで構えてる。
いやよ! 行くわけないじゃない! 一歩でも近づいたら、あのくり抜かれた壁の向こうまで私が星になって吹っ飛んでいっちゃうわよ!
もう怖すぎて、涙も出ない。床にへたり込んだまま、私はただガタガタと歯を鳴らして、早く気絶して楽になりたいって願っていたの。でも、ルミリア様は私の目の前まで裸足でトコトコと歩いてくると、ふっと構えを解いて、首を傾げたんだわ。
え……? なんでそんな、悲しそうな顔で私を見てるの……?)
「えっと……あの……どうすれば……?」
床にペタンと座り込んだまま、男爵令嬢マリアは両手を頼りなげに泳がせ、涙目でルミリアを見上げていた。完全に腰が抜けており、逃げ出すことすらできない。ただ嵐が過ぎ去るのを待つ生贄のように、小さく縮こまっている。
ルミリアは、スッと美しく固めていた防御の構えを解いた。そして、いつもの気品あふれる優雅な公爵令嬢の佇まいに戻り、深い溜め息を一つついてマリアに話しかけた。
「令嬢教育は受けてこなかったのかしら?」
「受けてるわけないだろ! どんな教育を想像してんだお前は!」
床に倒れたままのエドワルド殿下からの必死の正論ツッコミが夜会会場に響いたが、ルミリアは羽虫の羽音ほどにも気に留めず、マリアを見つめ続けた。
マリアは、ルミリアの圧倒的な存在感に気圧されながら、消え入りそうな声で白状した。
「えっと……よくわからなくて……。私、男爵家育ちですし……その、パンチとか、したことないです……。令嬢教育でも、刺繍とか、ピアノとかしか習っていなくて……」
「まあ、刺繍にピアノ。そんな、指先を動かすだけの脆い教育を……」
ルミリアは心底哀れむように胸元に手を当て、そっと目を伏せた。グロースター公爵家における「令嬢教育」とは、まず体幹の鍛錬から始まり、ドレスの裾を翻しながら音速の壁を越えるステップを身に付けることである。言葉を介さずとも世界と対話できる強固な肉体を作ることこそが、真の淑女の嗜みであった。
「分かりましたわ。基礎ができていないのは貴方の罪ではありません。……侍女、こちらへ。彼女に少し手ほどきをなさい」
ルミリアがパチン、と優雅に指を鳴らした。
すると、半壊した夜会会場の、誰も気づかなかった影の隙間から、一人の女性が音もなく滑り出るようにして現れた。
グロースター公爵家に仕える筆頭侍女、セリアである。彼女は乱れ一つないメイド服をまとい、ルミリアの前で完璧な一礼をした。
「かしこまりました、お嬢様」
「いや侍女も当たり前のように出てくるなよ! どこに潜んでたんだお前は!」
床からの殿下のツッコミは、やはり誰の耳にも届かない。
侍女セリアは、恐怖で硬直しているマリアの前に立つと、彼女のピンク色の可愛らしいドレスの袖を、実になめらかな手つきで容赦なく捲り上げた。
「マリア様、失礼いたします。我がグロースター家に伝わる淑女の基礎、ほんの手短にお教えいたしますわ。まずは両足を肩幅に開き、右足を半歩後ろへ。脇を締め、拳は常に顎の高さをキープしてください。そうです、それが防御の基本でございます」
「え、ええっ!? こ、こうですか……?」
マリアはおずおずと、セリアに言われるがまま不格好な構えを取った。
「よろしい。次は攻撃です。パンチとは手先で殴るものではありません。床を蹴ったエネルギーを、足首、膝、腰の回転へと連動させ、背中の筋肉を通じて拳へと突き出すのです。さあ、私の手のひらを狙って、真っ直ぐに突いてみなさい。シュッと息を吐きながらですわ」
「え、えいっ!」
マリアが恐る恐る拳を突き出す。
「優しすぎます。もっと腰を回して。シュッと、空気を切り裂くイメージです!」
「シュッ! えい! シュッ!」
セリアの的確な指導のもと、マリアの動きがみるみるうちに変わっていった。
シュッシュッ
夜会会場の片隅に、徐々に鋭い風切り音が響き始める。
マリアの小さな拳が、綺麗な直線の軌道を描いて、確実に空を切り裂き始めていた。
「どうでしょうか……?」
肩で息をしながら、マリアが不安げにセリアを見上げる。セリアは満足そうに深く頷いた。
「よろしいかと。素質はおありですわ。……お嬢様、お待たせ致しました」
セリアの声に、ルミリアはゆっくりと立ち上がった。
いつの間にか、彼女は会場の端、激しい戦闘の余波を辛うじて免れた綺麗なテーブルに、最高級の茶器を用意させていた。ルミリアは最高級の磁器カップをソーサーにカツンと戻し、優雅に口元をナプキンで拭った。
「そういうところだぞ……。さっきまで俺と世界の終末みたいな死闘をしておいて、なんでその短時間で優雅にお茶会を楽しんでるんだよ……」
床に転がったまま、全身ボロボロのエドワルド殿下が虚しい声をあげるが、二人の令嬢は完全に彼を背景の一部として処理していた。
ルミリアは裸足のまま、床のクレーターを避けてマリアの正面へと歩み寄った。彼女のミッドナイトブルードレスが、静かに揺れる。
「では、マリア様。改めまして――来なさい!」
ルミリアの声が響いた。
マリアは特訓を終えたばかりの、しかし先ほどよりは遥かに芯の通ったガードを固め、ルミリアを真っ直ぐに見据えた。
会場に、唾を呑む音が聞こえるかのような、圧倒的な静けさが広がっていく。
「えい!」
マリアが地を蹴り、ルミリアに向けて最初の一撃を放った。
(第8話へ続く)




