第6話:世界で一番熱いプロポーズ
【マリアの心情】
(ひぃ、ひぃぃぃ……っ!
今、私の名前を呼んだわよね? 「次は貴方の番」って確実に言ったわよね!?
嫌よ、絶対に嫌! 私、パンチなんて一回もしたことないの! 腕立て伏せだって一回もできないのよ! なんでガルク様を消し飛ばして、レオン様をクリームまみれにして、キルア様を雑巾にして、挙句の果てにエドワルド殿下の後ろの壁を丸くくり抜いた拳が、次に私の顔面に向かってくるのよ! 死んじゃう! 触れられただけで私の可憐な頭部が消滅しちゃうわよぉ!
もう私の脳みそは限界よ。恐怖が限界突破しすぎて、なんだか逆に頭がすっきりしてきたわ。
エドワルド殿下を見たら、顎から血を流しながら、膝をついてハァハァ言ってる。でもね、殿下の目が、まだ死んでいなかったの。
殿下は、よろよろと立ち上がった。私を背中に隠すようにして、もうボロボロなのに、両方の拳をもう一度強く握りしめたんだわ。
「まだ、終わって……いない……!」って。
殿下……! 初めて殿下のことを、ちょっとだけ格好いいって思った。浮気者とか言ってごめんなさい、私を狙うあの古代の破壊神を止めて! 殿下の王家に伝わる本物のすごい技で、あの怪物をやっつけちゃってぇぇぇ!!)
「待て……まだだ……! まだ、俺の戦いは終わっていないぞ、ルミリア……ッ!!」
膝をつき、全魔力を使い果たしたかに見えた第一王子エドワルドが、執念だけでその両足に力を込め、再び大理石の床の上へと立ち上がった。彼の口元からは一筋の鮮血が滴り、高級な仕立ての上着は戦いの衝撃波でボロボロに引きちぎれている。しかし、その瞳に宿る真紅の光は、先ほどよりもなお一層、禍々しく狂気的な輝きを放っていた。
「殿下、もう十分ですわ。貴方の覚悟は、すでに私のこの拳がしかと受け止めました」
ルミリアは静かに構えを解き、いつもの優雅な公爵令嬢の佇まいで諭すように告げた。しかし、エドワルドは首を横に振る。
「黙れ! 側近たちが命を懸けて繋ぎ、マリアが後ろで俺を信じて見つめているんだ! 王家の一族が、ただ一度の敗北で無様に引き下がれるかァッ!」
エドワルドが吠えた瞬間、彼の肉体から、アルベール王家が数百年の歴史の中で封印してきた禁忌の魔力が暴走を始めた。
それは、暗黒の赤を帯びた、どす黒い業火。
エドワルドを中心に、巨大な炎の渦が巻き起こり、王宮の頑丈な天井を焦がしていく。
ゴオオオオオオオオオオオオッッ!!!
夜会会場の気温が、今度は爆発的に上昇した。残っていた大理石の壁が、あまりの超高熱によってドロドロとガラス状に溶け出し、床を伝って流れ始める。シャンデリアのクリスタルが熱で次々と破裂し、雨のように降り注ぐ。まさに世界の終末を思わせる、神話級の光景がそこにあった。
「ルミリア! お前の圧倒的な『武』、我が命、我が魂のすべてを懸けて、今ここで焼き尽くしてやる! 燃え尽きろォォォ!!」
エドワルドの背後に、炎で形成された巨大な魔神の幻影が立ち上る。そして、会場のすべての熱量と魔力が、殿下の右拳の一点へと、超高密度に圧縮されていった。あまりのエネルギーの凝縮に、空間そのものがパキパキと音を立てて歪み、地震のような激しい地鳴りが王宮全体を揺らす。
王家としての誇り、愛する者を護るという執念、そして目の前の怪物を越えようとする男の意地。そのすべてが乗った、一撃必殺の最終奥義。
「【天焦がす極炎の覇王】――ッッ!!!!」
放たれたのは、すべてを塵へと還す、濁流のような巨大な炎の巨拳だった。
その破滅の光を正面から見据えながら、ルミリアは恐怖するどころか、ふっと、慈愛に満ちた美しい笑みを浮かべた。
「素晴らしい……。それでこそ、私が認めた我が婚約者ですわ」
ルミリアは、ゆっくりと息を吐いた。
彼女は、魔力を練るのをやめた。闘気を纏うこともしない。
ただ深く、深く、肺の奥まで空気を吸い込み、裸足でしっかりと床を踏みしめる。全身の細胞、骨格、筋肉の連動、そしてグロースター公爵家が数千年の歴史の中で培ってきた、純粋な「武の極み」だけを、自らの右拳へと集約させていく。
オーラはない。輝きもない。ただ、そこにあるのは、極限まで無駄を削ぎ落とされた、一点の曇りもない拳。
迫り来る、すべてを焼き尽くす極炎の巨拳を前に、ルミリアはまっすぐに、ただ愚直なまでに真っ直ぐな、基本の右ストレートを放った。
グロースター流奥義――【無想・一貫】
―――カァンッ!!!
それは、大爆発の音ではなかった。
まるで世界が一瞬だけ完全に静止し、空間そのものが高い金属音を立てて弾けたかのような、奇妙な衝撃。
エドワルド殿下が放った、世界を滅ぼすほどの【天焦がす極炎の覇王】の濁流。その巨大な炎の塊が、ルミリアの放った「たった一本の直線の拳圧」に触れた瞬間、まるでモーセが海を割ったかのように、綺麗に左右へと真っ二つに「割れた」のだ。
「な……ッ、ば、馬鹿なァァァァァッ!? 俺のすべてが……割られただと……っ!?」
エドワルドの絶叫が、割れた炎の隙間に響き渡る。
左右へと受け流された極炎は、ルミリアの後方へと吹き飛び、夜会会場の背後の壁をさらに大きく抉り取っていった。
そして、炎の霧を突き抜けたルミリアの真っ白な拳は、エドワルド殿下の顎の直前――ほんの、皮膚に触れるか触れないかの距離で、ピタリと、寸分の狂いもなく静止した。
ドンッッ!!!!
遅れて放たれた、ルミリアの純粋な基本ストレートの拳圧の残滓。
それが、エドワルド殿下の背後にあったすべての障害物を吹き飛ばし、直径十メートルを超える巨大な風穴を壁に開けた。くり抜かれた壁の向こうからは、何事もなかったかのように美しい星空が広がっている。
「はぁ……はぁ……っ! ああ、クソ、完全に……俺の負け、だな……」
全魔力、そして生命力のすべてを使い果たしたエドワルド殿下は、糸が切れた人形のように、その場にばったりと膝をついた。激しく肩で息をしながら、彼は自分の顎の前に突き出されたルミリアの拳を、ただ呆然と見上げることしかできなかった。
ルミリアは、スッと右の拳を引き戻すと、乱れたミッドナイトブルーのドレスの裾を優雅に整えた。
「殿下の最後の輝き、実に見事でしたわ。これほどの熱い想い、確かに私のこの拳で受け止めました。貴方のその覚悟があれば、この国は安泰ですわね」
「お前……本当に、最後まで何なんだよ……。あとその奥義、何だよ、ただのパンチだろそれ……」
膝をついたまま、エドワルド殿下はもはや乾いた笑いを漏らすことしかできなかった。
しかし、ルミリアは殿下の不憫なツッコミには一切取り合わず、ゆっくりと身体の軸を反転させた。その深海の底のような冷たい瞳が、ついに、殿下の後ろで腰を抜かして完全に魂が抜けかけている、男爵令嬢マリアへと向けられる。
「さて、殿方との語り合いは終わりましたわ。では、改めてまして――来なさい、マリア様」
ルミリアが無表情のまま、スッと美しい防御の構え(ガード)を取った。
会場全体が、ついに訪れるであろう、本日最後の「処刑」の瞬間に、ゴクリと唾を呑んだ。
(第7話へ続く)




