第3話:あなたの探究心、とても素敵でしたわ
【マリアの心情】
(ひ、ひええええええええええっ!?
無理無理無理、絶対に無理! 死んじゃう、みんな死んじゃうよぉ!
目の前で、あの、いつもお城の門のところで仁王立ちしていて、お馬さんよりも大きな荷物を軽々と持ち上げていたガルク様が。お姉様たちが「この国最強の盾」って言っていたガルク様が。壁に、壁に文字通り『めり込んで』動かなくなっちゃった。頭から血を流して、お目々を真っ白にして、まるでお人形さんみたいに壁の凹みにハマっている。
ルミリア様は、そんなガルク様を見て、怖がるどころか「ドレスの肩紐」を直しているの。信じられない。何あの人、本当に人間なの!? ドレスの裾をパパッと払っただけなのに、なんで大男が弾丸みたいに吹っ飛ぶのよ! 物理の法則ってどうなってるの!?
夜会会場のあちこちから、さっきまで私を馬鹿にしていた貴族の方々の「ヒッ!」とか「うわああ!」っていう、みっともない悲鳴が聞こえる。みんな、蜘蛛の子を散らすみたいに壁の隅っこまで逃げて、ガタガタ震えているわ。
エドワルド殿下なんて、もうお顔が真っ青を通り越して真っ白。さっきまで私を抱きしめてくれていた力強い腕が、今は生まれたての小鹿みたいにプルプル震えていて、私のドレスの袖を掴む力すら残っていないみたい。
お願い、誰か止めて! 誰でもいいからあの魔王を止めて!
そう心の中で叫んだとき、私の前に、今度はとっても綺麗な、青い髪の毛をしたレオン様がすっと立ちはだかったの。手には、キラキラ光るおっきな魔法の杖を持っていて――)
「下がっていなさい、殿下。そして、マリア。これ以上、あの野蛮な筋肉女に近づかせてはならない」
冷徹で、ガラスが擦れ合うような知的な声が、静まり返った会場に響いた。
レオン・フォン・アイズバーグ
若くして王立魔導アカデミーを首席で卒業し、国家魔導師の称号を最年少で得た「天才魔術師」であり、アイズバーグ侯爵家の嫡男。彼は衣服の乱れを嫌うように、青いローブの襟元をすっと直すと、手にした純銀の魔導杖をルミリアへと向けた。
「ガルクが不覚を取ったのは、純粋な近接戦闘に付き合ったからだ。公爵令嬢ルミリア、君の身体能力は確かに異常だが――触れられぬ距離から消滅させれば、その拳も無意味だよ」
レオンが杖の先を床にコツンと突いた瞬間、彼の足元から、複雑精緻な幾何学模様の魔方陣が、凄まじい速度で十重に重なり合いながら広がっていった。
会場の気温が、一瞬で氷点下へと叩き落とされる。貴族たちの吐く息が白くなり、シャンデリアから滴るワックスさえも空中で凍りつく。
「我が魔力は万物を停止させる絶対零度。凍てつき、砕け散るがいい――【氷絶槍嵐・極】!!」
レオンの叫びと共に、十重の魔方陣から、一本が馬車ほどもある巨大な、青白く輝く氷の槍が数十本、一斉に生み出された。それらは鋭い先端をすべてルミリアへと向け、大気を引き裂く甲高い音を立てて放たれた。
全方位からの死の雨。逃げ場などどこにもない、夜会会場の半分を埋め尽くすほどの広範囲絶技。
しかし、ルミリアは裸足のまま床に立ち、その氷の嵐を真っ直ぐに見据えていた。彼女の瞳に、ほんの少しだけ退屈そうな色が混じる。
「触れられぬ距離、ですか。レオン様、貴方は大切なことを見落としておいでですわ」
ルミリアはすっと胸を張り、両拳を腰の横へと引いた。
「拳の射程《間合い》とは、自らの腕の長さのことだけを指すのではございません」
次の瞬間、ルミリアの両腕が、完全に視覚から消失した。
「フッ! ハッ! セイッ! ハッ!」
シュシュシュシュシュシュシュシュシュッッッ!!!
会場に、まるで無数の嵐が同時に吹き荒れたかのような、凄まじい風切り音が鳴り響いた。
それは、一秒間に百発を超える神速の連撃。ルミリアの拳が音速の壁を何度も突き破るたびに、周囲の空気が強烈に圧縮され、目に見えるほどの白い空気の塊――「拳圧の弾丸」となって前方へと撃ち出されたのだ。
ドガガガガガガガガガガガッッ!!!
レオンが放った、絶対零度を誇る巨大な氷の槍。それがルミリアの身体に到達する遥か手前で、ルミリアの放った目に見えぬ拳圧の嵐と正面から衝突した。
馬車ほどもある氷塊が、ルミリアの拳の風圧に触れただけで、まるで紙屑のように一瞬で粉々に打ち砕かれていく。それだけではない。超高速の打撃によって生じた凄まじい摩擦熱が、砕けた氷を一瞬にして水蒸気へと変え、会場全体に白い霧が爆発的に広がっていった。
「ば、馬鹿なッ!? 私の最高位魔術が……純粋な、ただのパンチの風圧だけで相殺されただと……!?」
レオンは驚愕のあまり、手にした魔導杖を取り落としそうになった。彼がこれまで心血を注いできた「魔術理論」という名の絶対の法則が、目の前の令嬢の「理不尽な筋力」によって根底から覆されたのだ。
白い霧が会場を覆い尽くし、一瞬だけお互いの視界が遮られる。
レオンは冷や汗を流しながらも、流石は天才、即座に思考を切り替えた。
「くっ……だが、視界が遮られたのは君も同じだ! 魔力探知――そこかッ!」
レオンは霧の向こう、かすかに動く魔力の残渣を感じ取り、残ったすべての魔力を杖に込めた。
「【光速魔弾】!」
直線的だが、避けることのできない光の速度の魔弾が、霧を突き抜けてルミリアのいた位置へと放たれる。レオンの執念が込もった、一発逆転の追撃。
しかし、魔弾が着弾した場所に、ルミリアの姿はなかった。
「残念、それは残像ですわ」
「なっ――」
レオンが息を呑んだときには、すでに霧の中から、ミッドナイトブルーのドレスをまとい、一切の魔力を纏わないルミリアが、音もなく彼の目の前に出現していた。ドレスの裾がふわりと揺れ、最高級の香水の香りがレオンの鼻腔をくすぐる。
ルミリアの美しい左の拳が、流れるような円運動を描きながら、レオンの顎の横へと向かっていく。
「レオン様、貴方の魔術は素晴らしい。どこまでも緻密で、完璧に計算されている。仲間が倒れてもなお、即座に次の一手を打つその執念……。その洗練された術式から、貴方の『驕らぬ探究心』、確かに受け取りましたわ」
ルミリアの左フック。
それは、レオンの顎の皮膚に、本当に、ほんの少しだけ触れるか触れないかの距離でピタリと止まった。
しかし、止まった拳から遅れて放たれた、凄まじい「遠心力による衝撃波」の残滓。それが、レオンの顔面を直撃した。
「あ、が……っ」
ただの風。しかし、それは大木をもへし折るほどの暴風だった。
レオンの青い髪が激しく後ろへと吹き飛び、彼の細い身体は独楽のように錐揉み回転しながら、後方へと吹き飛んでいった。
ドシャァァン! と派手な音を立てて、レオンは豪華なケータリングが並ぶテーブルへと突っ込み、最高級のローストビーフやシャンパンの海に溺れながら、完全に気絶した。
立ち込めていた白い霧が、ゆっくりと天井へと抜けていく。
ルミリアは、ケーキのクリームまみれになって倒れているレオンを一瞥すると、悲しげに小さく首を振った。
「ですが、レオン様。知識に頼るあまり、ご自身の足元がお留守になっておいでです。どれほど高位の魔術を使おうとも、それを放つ肉体が脆くては、真実の重みには耐えられませんわ」
ルミリアはそう言って、再び右の拳を静かに握り直した。
ガルクに続き、天才魔術師レオンまでもが完膚なきまでに叩き伏せられた。会場に残された貴族たちは、もはや悲鳴を上げることすら忘れ、ただ世界の終わりを見つめるような絶望の表情で、ルミリアの裸足の一歩一歩を凝視していた。
そして、残る取り巻きは――あと一人。
(第4話へ続く)




