第19話:夕暮れの帰り道、あなたとならどこまでも
【マリアの心情】
(スラム街のあの強面なおじさん……ルミリアお姉様の姿を見た瞬間に直立不動になって「〜でございますです!」なんて言い出すんだから、びっくりしちゃった!
絶対に恐ろしい過去があるはずなのに、お姉様はただ「お息災かしら?」って挨拶しただけで颯爽と立ち去っちゃうなんて……あぁ、どこまでもミステリアスで素敵すぎるわ!
殿下は「ガミズって誰だ!?」って途中から完全にパニックになっちゃって魂が抜けかけていたけれど、お城へ戻る道すがらもずっと呆然としていてなんだか哀れになっちゃう。
でもね、王都の煌びやかな表側だけじゃなくて、裏の過酷な現実も、その奥に眠る不穏な気配も、お姉様は全部わかった上で殿下に見せようとしてくださったんだと思うの。
日が沈んで城門が見えてきたけれど、今日一日で殿下も少しは「本当の王都」ってものを実感できたのかしら? お姉様の深いお考えを、私ももっと勉強しなくちゃ!)
黄昏の光が王都の街道を茜色に染め上げる中、三人は静かに足を進めていた。
「……なぁ、ルミリア」
「なんですの、エドワルド殿下?」
ルミリアは背筋をぴんと伸ばし、完璧な淑女の微笑みを崩さずに振り返る。その細くしなやかな指先は、相変わらずエドワルドの手首を万力のごとく完璧に固定していた。
「さっきからずっと気になっていたのだが……そもそも『ガミズ・ザガ』とは誰なのだ……!?」
痛む手首とみぞおちを耐えながら、エドワルドは自分で言っていて意味が分からんという顔で切実に問いかけた。
「スラムの住民も、あの恐ろしげな大男本人すら血の気を引かせていたが……なぜ俺以外の全員がその名を知っていて、なぜお前はその男に命の危険を感じさせているんだ!? 誰だそいつは! 俺の知らんところで王都に何が起きている!?」
「あら、何のことですの? わたくしはただ、昔ちょっとしたご縁があった知人に、淑女として健勝を祈るご挨拶を申し上げただけですわ」
「嘘をつけぇぇぇっ! 誰だかも分からん奴に挨拶されただけで泡吹いて崩れ落ちる知人がどこにいる!!」
血を吐くようなエドワルドのツッコミが夕空に響き渡る。だが、その横からすかさずマリアが腰に手を当てて割り込んできた。
「ちょっと、エドワルド殿下! お姉様の広い人脈と気品あふれるご挨拶に対して、失礼な言いぐさはやめてください! 殿下こそ、あのボスさんの威圧感にビビってお口をぽかんと開けていただけではありませんか!」
「ビビってたんじゃない! 誰も彼もが当然のように知っている名前の正体も分からず、状況の異常さに脳の処理が追いつかなかっただけだ! だからお前は急にみぞおちを殴るのをやめろと言っているだろうが!」
「お姉様のお考えを理解しようともせず、ただ叫んでばかりの殿下が悪いんです! 淑女の拳にはいつだって深い理由があるんですよ!」
「理不尽すぎるだろ! 俺は単に知らん男の名前を出されて説明を求めただけだぞ!?」
「男のくせに細かいことをネチネチ気にするなんて、器が小さすぎます! お姉様を見習ってください、あの堂々とした佇まいを!」
「相手の正体も分からんのに『さすがお姉様!』で納得しているお前が異常なんだよ! 脳みそまで筋肉でできているのか!?」
「なんですってー!? 私はお姉様の筆頭弟子として、真実を拳で理解しているだけです!」
「ふふ、おふたりとも、相変わらず仲がよろしいことですわね」
「「どこがですか!!」」
息の合った二人のツッコミを涼しい顔で受け流しながら、ルミリアは前方に聳え立つ巨大な城門を見上げた。門衛たちが松明に火を灯し始めている。
「さあ、城門が見えてまいりましたわ。本日の視察はここまでといたしましょう。殿下……今日の『生の王都』はいかがでしたかしら?」
ルミリアの問いかけに、エドワルドは一瞬だけ口をつぐんだ。手首に伝わる逃げ場のない圧迫感と、みぞおちの鈍い痛み。そして、スラム街で見た荒廃した街並みと、底知れぬ恐怖を撒き散らすルミリアの存在感。
「……あんな無茶苦茶な視察があるか。だが……俺が城の中で書類だけを見ていては、一生知ることのなかった現実だ」
エドワルドは不機嫌そうに横を向きつつも、少しだけ真剣な眼差しで呟いた。
「俺は……もっと知らなきゃならんようだな。王都の光も、闇も……そして、お前という恐ろしい存在の真実もな」
「あら。大いに期待しておりますわ、エドワルド殿下」
ルミリアは満足そうに微笑むと、ガッチリと固定していた殿下の手首をようやく解放した。エドワルドは「はぁぁ……手が痺れた……」と手首を押さえてその場にしゃがみ込む。
「さあ、マリア。お城へ戻りましょう」
「はい、ルミリアお姉様!」
沈みゆく夕日を背に、優雅に歩き出すルミリアと元気に跳ねるマリア。その背中を、手首を揉みながら呆然と見送るエドワルドの溜息が、王都の風に寂しく消えていくのだった。
夜の静寂が王宮を包み込む頃。
王太子執務室には、依然として青白い顔をしたエドワルドの姿があった。
昼間の凄絶な体験による肉体的・精神的疲労は限界に達していたが、彼は休むことを許されなかった。なぜなら、国王ヘンリーへの「視察報告書」を作成しなければならないからだ。
「……くそっ、どうすればいいんだ……」
エドワルドは羊皮紙を前に、羽ペンを握りしめたままガシガシと頭をかきむしった。
机の上には、昼間に巡った王都の地図と、スラム街の惨状を記したメモが広げられている。
『王都裏通りおよびスラム街の視察報告』
一度は題名を書き始めたものの、羽ペンを持つ手はピタリと止まっていた。
思考がまったく先に進まない。彼の脳内は今、王都の治安や経済問題などではなく、たった一つの絶望的な課題で埋め尽くされていたからだ。
「……勝てん。どうやったらあの女に勝てるんだ……!?」
頭を抱え、切実な溜息を吐き出す。
「そもそも打撃が効かん! 王家秘伝の魔闘術を叩き込もうが、あの女はただのパンチの風圧で魔法すら消し飛ばしてくるんだぞ!? 筋肉と体幹が異常すぎる! 人間としての構造が違いすぎるんだ!!」
夜会の記憶がフラッシュバックする。
大理石の柱を両断するほどの激闘の末、ルミリアが放った「ただのボディブロー」。あれを一発もらっただけで、自分の腹筋とプライドは一瞬で粉砕された。
「正面からぶつかっても無駄だ……。剣術もだめ、魔術もだめ、体術なんてもってのほか……。関節技を狙おうにも、手首を掴まれた瞬間にこちらが万力で締め上げられて終わる! 隙がない! 圧倒的すぎて隙という概念が存在しないんだ!!」
エドワルドは頭を机に叩きつけそうになりながら、必死に思考を巡らせた。
「待ち伏せ……? いや、あの女の野生の感に勝てるわけがない。背後に回った瞬間に『大振りですわ』とか言われてカウンターをもらうのが目に見えている! 毒……? いや、あいつなら猛毒すら『少し苦みのあるお茶ですわね』とか言って普通に消化しそうだ!!」
考えれば考えるほど、ルミリア・グロースターという存在の理不尽さに目眩がしてくる。
「……だめだ、諦めるなエドワルド! 俺は一国の王太子だぞ!? 婚約者であるあの女の言いなりになり、毎回みぞおちを殴られたり手首を握り潰されたりして生涯を終えてたまるか! なんとしてでもあいつの膝を屈させ、一言『参りました』と言わせてみせる……!」
メラメラと無駄な対抗心を燃やすエドワルドだったが、ふと我に返って目の前の白紙の羊皮紙を見つめた。
「……で、報告書はどうするんだ俺は」
深々とした溜息が執務室に響く。
「『本日スラム街にて謎の大男ガミズと遭遇。ルミリアの圧倒的威圧感により敵は不戦敗となりましたが、当のルミリアの攻略法につきましては未だ糸口がつかめず、引き続き打倒ルミリアの鍛錬に励む所存です』……なんて書ける訳がない!!」
結局、自分がどれほど打倒ルミリアに情熱を燃やしていようと、報告書は真面目に書かねばならない。
エドワルドは血走った目で再び羽ペンを握り直すと、カリカリと音を立てて文字を走らせ始めた。
『本日の視察において、王都スラム街における生活困窮および治安の実態を確認した。行政の手が届いておらず、早急な対策が必要であると考える。……なお、視察中の詳細な経緯については、文面での表現が極めて困難であるため、後日口頭にて報告させていただく……』
そこまで書き終えると、エドワルドはぐったりと机に倒れ込んだ。
みぞおちの鈍い痛みが、じわじわと蘇ってくる。
「……明日も朝からプロテイン作りか……? いや、シェーカーを振る腕の遠心力を利用して、新しい打撃の軌道を編み出せるかもしれん……!」
理不尽な現実から逃避するように、明日のプロテイン作りに新たな武の可能性を見出そうとする王太子。
夜風が窓を揺らす中、彼の明後日の方向へと突き進む熱意と迷走の夜は、静かに更けていくのだった。




