第18話:あなたと出会った、もう一つの王都
【マリアの心情】
(お姉様と殿下のあいだに入って「お姉様の言うことを聞きなさい!」って一発入れちゃったけど……殿下、みぞおちを押さえてすごく苦しそうだったな。ちょっと強くやりすぎちゃったかな?
ボタンひとつ掛け違えただけで、あんなに綺麗に直撃しちゃうなんて……殿下ももっとガードをしっかり固めればいいのに。でもでも、お姉様は王都の光だけじゃなくて陰もしっかり見ようとしていて、やっぱりすごく立派でカッコいいんですもの! 殿下がグチグチ言って足止めしようとするから、ついつい手が出ちゃいましたわ。
スラム街はなんだか嫌な匂いがするし、薄暗くて雰囲気が怪しいけれど……お姉様が一緒なら何も怖くありません!
殿下は相変わらず「危ない」って言ってますけど、お姉様の弟子として私も覚悟を決めて、スラム街の本当の姿をしっかり見届けてみせますわ!)
足元をすくう泥のぬかるみと、鼻を突き刺す強烈な腐敗臭。表通りの眩い賑わいとも、裏通りの逞しい活気とも切り離されたその空間は、どこまでも冷たく暗い静寂に包まれていた。
一歩踏み込むごとに、打ち捨てられた朽ち木や割れた陶器の破片がカサリと不気味な音を立てる。立ち並ぶ家屋はどれも板切れやボロ布を継ぎはぎしたあばら家ばかりで、今にも崩れ落ちそうだ。
王宮の絢爛豪華な世界しか知らなかったエドワルドは、あまりの光景に息を呑み、言葉を失っていた。
「これが……王都の陰の姿なのか……」
ショックのあまり蒼白になったエドワルドは、無意識のうちに繋がれた(というよりルミリアの手で物理的に完全に固定された)手の平にギュッと力を込め、すがりつくようにルミリアの手を握り返していた。
その隣で、後ろをついて歩くマリアもまた、あまりの臭気と薄暗さに眉をひそめ、お姉様のドレスの裾をキュッと掴んで寄り添った。
「うぅ……お姉様、なんだかすっごく変な匂いがしますわ……ドブとゴミと、何か腐ったような……」
「マリア、ハンカチをお使いなさい。無理をしてはいけませんよ」
「ありがとうございます、お姉様! でも私、お姉様のお供ですから我慢できますわ!」
けなげに胸を張るマリアを見て、エドワルドはみぞおちの痛みを堪えながら振り返った。
「マリア……お前、さっきまであれだけ威勢よく俺を殴っておきながら、急に可憐な妹ぶるな! というか、普通はこのような場所に足を踏み入れたら、令嬢なら悲鳴を上げて逃げ出すのが筋だろう!」
「なんですって! 私はお姉様の弟子ですのよ! 殿下みたいに情けないお顔でブルブル震えたりしませんわ!」
「震えてなどいない! 俺はただ、王太子としてこの国の過酷な現実にショックを受けていただけだ!」
「強がりはおやめなさい! お姉様の手をぎゅーって強く握りしめているのがその証拠ですわ! お姉様に甘えないでくださる!?」
「これは自発的に握っているのではない! ルミリアの手が謎の万力のような力で俺の手首を固定しているから、結果としてこうなっているだけだ!!」
「お姉様の手を万力だなんて、なんて無礼な! お姉様の手は白くて柔らかくて世界一素敵なんですから!」
「物理的な威力の話をしているんだ!! このままじゃ手首の血流が止まって壊死するぞ!!」
スラムの入口でキャーキャーと不毛な口喧嘩を繰り広げる二人。
そんな二人を余所に、物陰やあばら家の影から、泥と垢にまみれた衣服を着た人々がゾロゾロと姿を現した。飢えた瞳をした男や女、そして痩せこけた子供たちが、三人を取り囲むように群がってくる。
「お代官様……恵んでくだせえ……」
「数日、何も食べてねえんです……」
「おいおい、綺麗な服着たお坊ちゃんじゃねえか。小銭くらい持ってるんだろ?」
哀れな物乞いたちの悲痛な声と差し出された数々の泥まみれの手を見て、エドワルドの表情が陰った。
「む……! これは……あまりにも痛ましい。待て、今小銭を――」
胸を痛めたエドワルドが空いている方の手で懐の財布を取り出そうとした、その瞬間。
「殿下、おやめなさい」
スッと差し出されたルミリアの扇が、エドワルドの手元を冷たく制した。
「な、なぜ止めるのだルミリア! 目の前に困っている民がいるのだぞ! 王太子として、一銭の恵みを与えることすら許されないというのか!?」
「ええ、いけませんわ。安易な施しは争いを生み、彼らをさらに甘やかすだけです。……それよりも」
エドワルドの反論を意に介さず、ルミリアは取り囲む群衆に向かって、どこまでも優雅で澄み渡った声を響かせた。
「皆様。ちなみに……ガミズ・ザガさんはどちらにいらっしゃいますの?」
――その名を耳にした瞬間。
物乞いをしていたスラムの人々の顔から、一斉に血の気が引き暴風のごとく血相を変えた。
「ひぃっ……!?!? ガ、ガミズ・ザガ様だって!?」
「なんでこんな上等な身なりの奴らが、あの恐ろしいボスの名を直接知ってんだよッ!?」
「あいつら、あの頭領の関係者かッ!?」
「巻き込まれたら消されるぞ! 逃げろッ!!」
スラムを恐怖で支配する絶対的なボス、ガミズ・ザガの名を平然と口にしたことで、人々は彼らを「ボスの連れ合い」だと勘違いし、パニックに陥った。
蜘蛛の子を散らすとはまさにこのことか。先ほどまでの哀れな雰囲気はどこへやら、全員が凄まじい脚力と素早い身こなしで、路地の闇へと一瞬で姿を消したのだった。泥を跳ね上げながら逃走するその速度は、到底餓死寸前の人間とは思えないキレであった。
「……え?」
残されたエドワルドは、あまりの急展開に言葉を失い、口をぽかんと開けて固まった。
「な、なんだ今の現象は……!? なぜ『ガミズ・ザガ』という名を口にしただけで、全員が血相を変えて逃げ出したのだ……!? ガミズ・ザガとは誰なんだ!? スラムを支配する恐ろしいボスなのか!?」
「さあ? わたくしにはさっぱり分かりませんわ。ただの雑談のつもりでしたのに」
しれっとすまし顔を決めるルミリアに、エドワルドはパニックになりながらマリアを見た。
「マリア! お前は分かっているのか!? なぜあの者たちが逃げ出したのか!」
「分かりませんわ!」
「分からないのかよ!!」
「分かりませんけれど、さすがはお姉様ですわ! お姉様がお声をかけただけで、あんなに大勢の怪しい人たちが一瞬でいなくなってしまうなんて! これぞ本物の気品と威厳ですわね!」
「恐れられて逃げられただけだろ!! お前のお姉様信仰は重症すぎるぞ!!」
「殿下の頭が硬すぎるだけですーだ!」
エドワルドが頭を抱えてツッコミを入れ、マリアがべーっと舌を出す。
そうして二人がワチャワチャと騒いでいると、不意に暗がりから一人の男が足音もなく歩み出てきた。周囲のスラム住民たちのボロ布とは違い、仕立てのしっかりした身なりをしたその男は、鋭い目つきでエドワルドを上から下まで舐めるように見つめた。
「……そこのお坊ちゃん。無駄口が過ぎるぞ。ボスがお呼びだ、ついてこい」
「むッ!? 待て、貴様は何者だ! 俺を誰だと思って――」
「殿下、ついて行きましょう。案内してくださるそうですわ」
「ルミリア!? なぜそんな簡単に怪しい男について行くのだ! 罠かもしれないだろう!?」
「お姉様が行くとおっしゃっているんですから、殿下は黙ってついてくればいいんです!」
「お前は少しは警戒心というものを持てーっ!!」
男の案内で薄暗く入り組んだ路地を抜け、辿り着いたのは一際頑丈そうな石造りの不気味な建物であった。重々しい鉄の扉がギギィと不気味な音を立てて開かれる。
薄暗い部屋の奥、豪華な椅子には、いかにもスラム街を裏から仕切っている風貌の男――ボスであるガミズ・ザガが腰掛けていた。
部屋に入ると、ルミリアはそれまで繋いでいたエドワルドの手を一度静かに離した。
そして、何事もなかったかのようにすっとドレスの裾をふわりと持ち上げると、背筋を伸ばし、完璧で洗練されたカーテシーを行い、美しく優雅に挨拶を交わしたのだ。
――そして挨拶が終わると、何事もなかったかのように再びエドワルドの手をギュッと握り直した。
「?????」
急に手を離され、綺麗なカーテシーを見せられ、そして再び万力のような力で手を握り直されたエドワルドは、頭の上に大量の疑問符を浮かべた。
「な、なんだ今の動作は……!? なぜスラムのアジトで急にカーテシーをしたのだ……!? しかもなぜまた俺の手を握り直す!?」
「???」
後ろにいるマリアも「お姉様、とっても素敵ですわ!」と思いつつも、行動の意味自体は「???」と首をかしげている。
しかし、何より困惑し、そして恐怖に震えていたのは当のガミズ・ザガであった。
部屋に入ってきたルミリアの顔を認めた瞬間から、ボスの顔面は蒼白になり、滝のような冷や汗が吹き出していた。ガタガタと膝を震わせ、椅子から転げ落ちそうになりながら、ルミリアの完璧なカーテシーに対して慌てて直立不動の姿勢を取ると、異様なまでに丁寧な口調で問いかけた。
「な、……何か御用でございましょうか……っ!?」
裏社会を牛耳るボスとは思えぬ、震える声での極上の敬語であった。
エドワルドはその異様な光景に目を丸くした。
「が、ガミズ・ザガとやら……!? なぜ貴様がそんなに怯えているのだ!? というかその敬語はなんだ!?」
「黙ってろお坊ちゃんッ!! 俺は今命がかかってんだよッ!!」
ガミズ・ザガが血相を変えてエドワルドに一閃の怒号を飛ばす。
ルミリアは完璧な淑女の笑みを崩さぬまま、静かに一言だけ口を開いた。
「お息災でお過ごしかと案じておりましたけれど……お変わりはございませんかしら?」
「は、はいっ! 息災でございますです……っ!! 毎日健やかに過ごさせていただいておりますっ!!」
直立不動で裏返った声を張り上げるガミズ・ザガ。ルミリアは満足そうに深く頷いた。
「それは重畳。……では」
それだけ言うと、ルミリアはくるりと踵を返し、何事もなかったかのようにさっさと建物を後にした。
パタンと重い扉が閉まった瞬間――部屋の奥から「ドサッ!!」と、緊張の糸が完全に切れて椅子から派手に崩れ落ちるガミズ・ザガの大きな音が響き渡った。
「?? ?????」
建物の外に出たエドワルドは、完全に置いてけぼりを喰らい、目を白黒させてルミリアを見た。
「な、何だったのだ今の時間は……!? 『お変わりないかしら』と聞いただけで終わったぞ!? ガミズ・ザガはお前とどういう関係なんだ!?」
「あら? ただの古い知り合いですわ。お元気そうで安心いたしました」
「絶対にただの知り合いの空気感ではなかっただろ!! あいつ、お前の姿を見た瞬間死を覚悟したような顔をしていたぞ!!」
「殿下、お姉様のご友人に対して失礼ですわ! お姉様の人徳が素晴らしいから、あの方も丁寧にあいさつしてくださったんです!」
「人徳でスラムのボスが『息災でございますです』なんて言うかーーっ!! お前は少しは疑問を持て!!」
「お姉様のなさることに間違いはありません!」
「ああもう! お前と会話をしていると頭が痛くなってくる……っ!」
頭を押さえて絶叫するエドワルド。マリアは誇らしげにふふんと胸を張った。
(意味はよく分からないけれど、やっぱりお姉様はすごいですわ! スラムの怖いボスまで一瞬でひれ伏せさせちゃうなんて、さすがお姉様!)
マリア一人だけが完璧に納得し、ルミリアへの尊敬をさらに深めていた。
建物の外に出ると、スラムの薄暗い空の向こうで、いつの間にか太陽が沈みかけ、朱色の夕闇が街を包み込み始めていた。
ルミリアはエドワルドの手を引いたまま、優雅に空を見上げた。
「ふふ、そろそろ日が傾いてまいりましたわね。殿下、城門へ戻りましょうか」
「あ、ああ……そうだな。これ以上ここにいたら俺の精神が持たん……」
みぞおちの痛みに耐え、激しい困惑に苛まれながらも、エドワルドはルミリアに引かれるまま、夕暮れの王都へと足を進めるのだった。




