第20話 愛の逃避行
――今日は、とても素敵な一日でしたわ。
朝、王宮の前庭で殿下をお見かけした瞬間から、私の胸はずっと高鳴っておりました。
旅装に身を包み、いつもより少しだけ凛々しく見えるお姿。
背中には大きな荷物を背負い、これから始まる旅へ向けて真剣な表情を浮かべていらっしゃる。
まあ。
なんて素敵なのでしょう。
いつもの王宮で見る殿下とは、まるで別人のようですわ。
……とはいえ。
私が近づいた途端、少し慌てたようなお顔をなさっていたのは、きっと私と会えたことが嬉しかったからなのでしょうね。
ふふ。
私も同じ気持ちですわ、殿下。
そして私は、思い切って申し上げました。
「わたくしも、この視察に同行いたします」
あのときの殿下のお顔。
驚いていらっしゃいましたわね。
きっと嬉しかったのでしょう。
けれど殿下は、昔から素直ではないお方ですもの。
「余裕がない」
などと仰っていましたけれど……。
まあ。
照れ隠しですわね。
殿下は本当に不器用なお方。
でも、そんなところも愛おしいのです。
そして私たちは、王都へと向かいました。
殿下と並んで歩く王都。
いつも見慣れているはずの街並みが、今日はどこか違って見えます。
朝日に照らされた石畳。
行き交う人々。
露店から漂ってくる香ばしい匂い。
楽しそうに笑う子供たち。
……まあ。
まるで世界そのものが、私たちのために用意された舞台のよう。
殿下と一緒に歩いている。
ただそれだけなのに、こんなにも景色が輝いて見えるなんて。
恋とは、不思議なものですわね。
途中、殿下が何かを熱心に見つめていらっしゃいました。
民の暮らしについて、真剣に考えておいでなのでしょう。
その横顔を眺めながら、私は胸が温かくなりました。
以前の殿下なら、きっと王宮の中から見える景色だけを信じていたでしょう。
けれど今は違う。
自分の足で歩き、自分の目で見ようとしている。
……殿下。
あなたは、ちゃんと前へ進んでいらっしゃるのですね。
私は、そんなあなたのお隣を歩けることが嬉しくてたまりません。
そして――。
私たちは一軒の露店に立ち寄りました。
焼き立ての串焼き。
こんがり焼けたお肉から立ち上る香りに、殿下のお腹が小さく鳴りました。
まあ。
なんて可愛らしいのでしょう。
殿下は必死に平静を装っていらっしゃいましたけれど、私には分かっておりますわ。
お腹が空いていらっしゃるのですね。
私は串焼きを三本買いました。
一本はマリア様へ。
そして一本は私。
最後の一本は――。
「もちろん、殿下と私の愛を分かち合う一本ですわ」
私はそっと殿下へ串を差し出しました。
「殿下。お口を開けて……」
殿下のお顔が、一瞬で真っ赤になりました。
まあ。
なんて可愛らしい。
人前だから恥ずかしいのでしょう。
それでも最後には、観念したように口を開けてくださいました。
私はそっと、そのお口へ串焼きを運びます。
「あーん」
……。
まあ。
なんということでしょう。
私の心まで、とろけてしまいそう。
愛する殿下と、一本の串焼きを分け合う。
ただそれだけのことなのに。
まるで、恋人同士の秘密の儀式のよう。
あの夜。
拳を交えた私たちが。
今はこうして、食べ物を分け合っている。
拳で始まった私たちの関係が、こんなにも穏やかで優しいものへ変わっていく。
私は、幸せでした。
本当に。
幸せだったのです。
その後も、私たちは王都を歩き続けました。
時折、殿下が私の手を引いてくださることもありました。
まあ。
私を守ろうとしてくださっているのですね。
殿下のお手は、とても力強くて。
けれど、その奥には優しさがあって。
私は繋がれた手を見つめながら、頬が熱くなるのを感じておりました。
この手を、ずっと離したくない。
そんなことを考えてしまう自分が、少し恥ずかしくて。
でも――。
嬉しい。
私は殿下のお隣にいる。
殿下も私の隣にいる。
それだけで十分なのです。
途中、何人かの殿方が私たちを見ていたような気がいたします。
きっと、仲睦まじく歩く私たちを微笑ましく眺めていたのでしょう。
皆様、どうぞお気になさらず。
今日は私たちの大切な一日なのですから。
そして私たちは、少し薄暗い道へ入りました。
大通りとは違う、静かな場所。
人の声も少なく、殿下と二人で歩くには、ちょうどよい場所です。
……まあ。
なんだか、二人だけの秘密の小道みたい。
胸が高鳴ります。
このまま遠くへ行ってしまえたら。
王都も。
王宮も。
身分も。
義務も。
全部忘れて。
殿下と私と、マリア様の三人で。
知らない街へ。
知らない道を。
同じ景色を眺めながら。
毎日を過ごす。
そんな旅も――。
素敵かもしれませんわね。
……ふふ。
これは、愛の逃避行というものなのでしょうか。
もちろん、実際には国王陛下から命じられた正式な視察ですけれど。
それでも私の心にとっては――。
これは、殿下との大切な旅。
私たちの未来へ向かって歩く、最初の一歩なのです。
そう思うと、胸がいっぱいになります。
殿下。
これからも、どうか私の隣を歩いてくださいませ。
私も、あなたの隣を歩きます。
どこまでも。
どんな道でも。
そして――。
今日という日を、私はきっと忘れません。
美しい朝。
眩しい王都。
香ばしい串焼き。
繋いだ手。
少し照れた殿下のお顔。
そして――。
私の隣にいる、愛しいお方。
それだけで、世界はこんなにも美しい。
……あら?
そういえば、視察先で何か大切なものを見たような気もいたしますけれど。
まあ、よろしいでしょう。
今日の私にとって大切なのは、それではありませんもの。
私は今日――。
エドワルド殿下とデートをしたのですから。
……ええ。
誰が何と言おうと。
これは間違いなく――。
私の人生で最高のデートでしたわ。
私は隣を歩く殿下を見上げ、そっと微笑みました。
「殿下」
「……なんだ?」
「今日は、とても楽しいですわね」
「……そうだな」
その短い言葉だけで、胸がいっぱいになる。
言葉なんて、これだけで十分。
だって私たちは――。
一度、拳で語り合った仲なのですもの。
だから今度は。
手を繋いで。
同じ道を歩きながら。
ゆっくりと、二人の未来を語り合えばいい。
……まあ。
マリア様も一緒ですけれど。
それはきっと、私たちを見守ってくださる可愛い天使なのでしょう。
そう。
今日は――。
とても素敵な一日でしたわ。
愛する人と歩くということが、こんなにも幸せなことだったなんて。
私は今日、初めて知りました。
だから私は、これからも殿下のお隣を歩きたい。
どこまでも。
ずっと。
この手を、繋いだまま。
――それが、私の願いですわ。




