第14話:あなたと歩く王都は、いつもより輝いて
【マリアの心情】
(結局、殿下の「待てー!」っていう情けない叫びはルミリアお姉様の素敵な笑顔に綺麗さっぱりかき消されて、私とお姉様もいっしょに視察の旅に出発することになっちゃいました!
ふふっ、だって殿下ったら芝生の上で「ぶはっ」てなりながらミミズみたいにごロゴロ転がってたんだもん。反論なんてできるわけないよね!
……あ、でもね?
あのとき私のヘナチョコなパンチが入っちゃったのって、殿下がちゃんと私と正面から向き合おうとしてくれたからだと思うんだ。
相変わらず口は横柄だし、威厳なんて完全にどこかへ飛んでいっちゃってるけど……。
逃げてばかりだったあの頃の殿下とは、もうぜんぜん違う!
これからどんな旅になるのか、ちょっとドキドキしちゃうけど……お姉様の弟子として、そして殿下のカッコいい(?)変化を一番近くで見守るためにも、気合を入れてついていかなくちゃね!)
王宮の前庭を覆っていた朝露が徐々に陽光に照らされて蒸発し始める頃、ようやくみぞおちの激痛から立ち直ったエドワルドは、荒い息を吐きながら芝生から這い上がった。
膝についた砂や草の葉を乱暴に払い落とし、未だに少し引きつる腹部を片手でしっかりと押さえながら、彼は前庭の端に繋がれていた漆黒の馬へと足を向ける。
エドワルドの背中には、パンパンに膨れ上がった旅用の大荷物が重々しく揺れていた。中には野宿用の天幕や調理道具、さらには万が一の事態に備えた膨大な量の予備用プロテインパウダーまでもがぎっしりと詰め込まれている。その総重量は、並の兵士であれば歩行すら危ういほどのものだ。
「……ふぅっ。……よし。では、さっそく遠方の領地へと向かうぞ。まずは我が国の最果てに位置する、あの貧困と不満が渦巻いていると噂の鉱山都市へでも直行する!」
額に浮いた冷や汗を拭いもせず、エドワルドは自らの気概を示すように大きく胸を張り、力強く宣言してみせた。
馬の鐙に足をかけ、勇ましく跨がろうとしたまさにその瞬間である。
彼のすぐ横で、ルミリアが手にしていた扇をパチリと爽やかな音を立てて閉じ、完璧な淑女の微笑みを浮かべながら静かに言葉を挟み込んできた。
「あら、まあ。エドワルド殿下? 遠出なさる前に、まずはこの足元……王都の城下町から視察なさるのが筋ではありませんこと?」
「な、なに……!? じ、城下町だと……!?」
馬に足をかけたままの姿勢で固まったエドワルドが、ぎこちない動作で振り返る。
「ええ、当たり前でございますわ。灯台下暗し、と昔から申しますでしょう? 国王陛下より言いつけられたのは『己の足で歩み、民の生の声を聞く』こと。この王都のすぐ足元に暮らす民の喜びや苦しみすら知らぬまま遠国へ向かったところで、いったい何が見えるというのです? 目の前の小さな現実から目を背け、遠くの大きな大義ばかりを追うのは、ただの逃避でしかありませんわ」
ルミリアの涼やかで完璧な正論が、鋭い一撃のようにエドワルドの胸を射抜く。
「ぐっ……!! た、たしかに……言われてみれば一理……いや、大いに一理ある……っ! わ、分かっている! 最初からそのつもりだったのだ! 遠方へ向かう前に、まずはこの王都の城下町の現状を完璧に把握する……ふん、王太子として当然の工程だな!」
エドワルドは必死に顔を真っ赤にしながら引きつった笑みを浮かべると、素早く馬から足を下ろした。そして、ルミリアに背を向けた瞬間に、背中のパンパンに詰まった巨大な荷物へと手を伸ばす。
「ふぅ……では、まずは軽く市内を歩くとしよう」
彼はさりげない動作を装いながら、背負っていた大荷物のベルトをスッと外し、馬の鞍の脇へとこっそり下ろし置いた。あらかじめ遠国へ旅立つ気満々で準備していた超重量級の野宿装備を、何事もなかったかのように現地へ置いていこうという魂胆である。
その一連の素早く、そしてあまりにも見苦しい逃避行動を、すぐ後ろでバッチリ目撃していたマリアは、心の中で(あ……)と呟いた。
(殿下、カッコいい雰囲気出そうとしてたけど、やっぱり全然考えなしだなぁ。……ちょっと評価下げとこ)
マリアがじとーっとした呆れ顔で視線を向けていることにもまったく気づかず、エドワルドは腰の剣を軽く叩くと、威風堂々とした足取りで城門に向かって歩き出した。
「行くぞ、二人とも! 王太子の威厳というものを、民に見せてやる!」
城門をくぐり抜けた先に広がる王都の城下町は、朝から多くの人々が行き交い、溢れんばかりの活気に満ちあふれていた。
石畳の立ち並ぶ通りの両脇には、色鮮やかな布を広げた露店や香ばしい匂いを漂わせる露店がひしめき合っている。焼きたてのパンや香ばしく炙られた肉の匂い、焼き魚の香りが混ざり合い、威勢のいい行商人たちの呼び込みの声が空に響き渡っていた。
小さな子供たちが笑いながら路地裏を駆け抜け、買い物かごを抱えた主婦たちが仲良く立ち話をしている。一見すると、何の不満も問題もない、極めて平和で豊かな素晴らしい街並みそのものであった。
「ふむ……見ろ、ルミリア、マリア。街は活気に満ち、民の顔にも笑顔が多い。我が国の治世は実に良好ということだな。やはり我が父上と私の政務は間違っていなかったのだ」
腕を組み、満足そうに何度も頷きながら歩くエドワルド。彼は完全に周囲の平和な雰囲気に毒され、すっかり気分を良くしていた。
だが――そんなエドワルドの無防備な背後で、街の死角からすっと動く影があった。
人混みに紛れ、身を潜めていた一人の目つきの悪い男。彼は高い身なりをしたエドワルドの腰元に光る豪華な財布を見逃さず、死角から忍び寄ると、その汚れた手をすっと伸ばした。コソ泥としての長年の経験が裏打ちする、一切の無駄がない滑らかなスリの手筋である。
――次の瞬間。
エドワルドがコソ泥の接近に気づくよりも遥かに早く、その隣を優雅に歩いていたルミリアの手が動いた。
彼女は一言も発さず、視線すらスリの男に向けない。ただ、胸元で閉じていた扇の先端を、流れるような動作でわずかに数ミリだけ後ろへスライドさせた。
チッ――。
あまりにも静かで、あまりにも無駄のない、空気を切り裂く微かな振動音。
ルミリアの扇の先から放たれた極小の衝撃が、寸分狂わずコソ泥の手首の秘孔を正確に打ち抜く。
「……っ!?」
声すら上げることを許されず、男は目を見開いて白目を剥いた。手首から全身の神経へと駆け巡った謎の麻痺と衝撃により、彼は一瞬で意識を刈り取られ、膝から崩れ落ちるように路地の壁の影へと静かに倒れ込んで消えていった。
「ひ、ひぇぇ……お姉様の手さばき、相変わらず容赦なさすぎる……!」
後ろを歩いていたマリアは、パチパチと目を丸くしながら、その恐ろしい一瞬の出来事をバッチリ目撃していた。
当のエドワルドはといえば、背後で微かに聞こえた「ガサッ」という肉体が壁にぶつかる音にふと気づき、びくっと肩を跳ねさせて振り返る。
「……ん? いま、背後で何か不穏な音がしなかったか?」
「あら、気のせいですわ、エドワルド殿下。野良猫でも路地裏で跳ねたのではありませんこと?」
ルミリアは何事もなかったかのように美しい微笑みをたたえ、扇を優雅に開いて胸元でパタパタと涼しげに風を送っている。
「そ、そうか……ならいいのだが……」
エドワルドの額から、だらりと冷や汗がにじみ出た。
いくら鍛錬の途上にあるとはいえ、彼の武人の直感が「今、目の前で怪しい存在が一瞬でこの世から処理された」という恐ろしい気配を確かに捉えていた。
だが、ここで下手に「今、誰か倒さなかったか!?」などと追及すれば、ルミリアの気まぐれで「察しが悪い」とばかりに自分自身が「拳の語り合い」の標的にされかねない。
己の身を守るための本能的な危機管理能力を全力で働かせたエドワルドは、引きつった笑みを浮かべながら、その違和感を全力でスルーすることを選んだのだった。
「は、ハハ……やはり平和な街だな! 猫も元気いっぱいで何よりだ!」
「ええ、本当に。素晴らしい平穏ですわね」
微笑むルミリアの隣で、マリアは(やはりお姉様はカッコいい)と、深く納得しながら前を見つめるのだった。




