第12話:あなたの見る未来を、私も一緒に見つめたい
【マリアの心情】
(あの運命の夜会から、私の世界は何もかもが変わってしまった。
殿下の後ろで怯えているだけだった、気弱な男爵令嬢の私。
それが今では、ルミリアお姉様の拳に込められた気高さと生き様に完全に惚れ込んで、弟子入りしている。
……人生って、何が起こるか分からないよね。
そして、その私の横で必死にプロテインのシェーカーを振っているのが、エドワルド殿下だったりする。
なんというか……落差がすごい。
あの日、お姉様に完膚なきまでに叩きのめされてからも、殿下は逃げなかった。
陰で鍛錬を続けて、今も必死に自分と向き合っている。
相変わらず態度は横柄だし、不器用だし、私にはちょっと苦手なところもあるけれど……。
それでも、変わろうとしていることだけは分かる。
……まあ、今のところはプロテイン係なんだけど。)
「……三分だ。ルミリア、マリア」
静まり返った鍛錬場に、カチャンとタイマーが跳ねる音が響いた。
エドワルドは汗の浮いた額を拭いもせず、結晶ガラスのグラスを二つ、テーブルへ静かに置いた。指先のキレも、注がれたプロテインの泡立ちも、もはや完璧と言ってよかった。
「ご苦労様です、エドワルド殿下。……粉のダマが一切ありませんわね」
ルミリアがグラスを持ち上げ、優雅に一口喉を鳴らす。マリアも両手でグラスを受け取ると、目を輝かせて一気に口へ運んだ。
「おいしい……! ダマが全然なくてすごく飲みやすいです、殿下!」
「ふん……。当然だ。この程度の調合すらこなせなくては、貴様たちの鍛錬を支えることなどできんからな」
エドワルドは口元を歪めてそっぽを向いたが、その耳根はほんのりと赤い。グラスを空にしたルミリアを見つめると、彼は硬い声で問いかけた。
「……ルミリア。俺はいつまで『プロテイン補給係』を続ければいいのだ。己の拳を磨き、貴様に追いつくための鍛錬に時間を使いたいのだが」
ルミリアはグラスをテーブルに置くと、扇をパチリと閉じた。
裏を返す代わりに、静かにエドワルドの全身へと視線を走らせる。
その一瞬、ルミリアから放たれた雰囲気に、マリアは思わず「ひゃっ」と短く声を漏らした。理由はよく分からないけれど、なんだか凄まじく凄くてカッコいい――そんなお姉様の佇まいに、パッと目を奪われる。
ルミリアは何も言わず、ただ優雅に微笑んで背を向けた。マリアも「お姉様、お待ちください〜!」と、慌ててその後ろをパタパタと追いかけていく。
「っ……!」
残されたエドワルドは言葉を飲み込み、くっと奥歯を噛み締めるしかなかった。
◇
鍛錬を終えたエドワルドは、王宮に戻り廊下を歩いていた。
「『プロテイン補給係』をずっとしているだけでは、ルミリアを超えることなど夢ではないのか?」
独り言を呟きながら歩く姿に、役人たちは避けながら静かにすれ違っていた。
そのとき、向かいから、大きな木箱を二つ抱えた老文官が、顔を真っ赤にして歩いてくる。足元がふらつき、箱が大きく傾いた。
以前の彼なら、一瞥を投げて通り過ぎていたはずだった。だが、エドワルドの足は自然と止まっていた。
「……ふむ……それをこちらへ寄越せ、爺」
「ひっ……!? エ、エドワルド殿下!? いえ、このような雑務を殿下に――」
「いいから黙って渡すんだ。……どこへ運ぶ」
文官から強引に箱を取り上げると、エドワルドは乱れのない足取りで歩き出した。文官が目を丸くして立ち尽くすのも気にせず、ただ黙々と前を見据えて歩を進める。
執務室の重厚な扉が開いても、エドワルドはペンを止めなかった。
カリカリという筆の音だけが響いている部屋。
山と積み上げられた羊皮紙。国の予算案、地方の徴税記録。エドワルドは睡眠時間を削り、政務の書類を次々と精査しては決済の印を押していく。
足音もなく部屋へ入ってきたのは、漆黒と金のドレスを纏った王妃エレノアと、国王ヘンリーだった。
慌てて臣下の礼を取ろうとする秘書たちに、そのまま仕事を進めろ、という合図を目で送り、エドワルドに顔を向ける。
エレノアは書類の山に没頭する息子を冷ややかに見つめると、扇で口元を隠した。
「……あなた。なぜあの子は、毎日執務室に籠もり切りで書類仕事ばかりしているのですか?」
ヘンリーは太い眉をひそめ、胸を張った。
「なぜと言われてもな、エレノア。エドワルドは我が国の第一王子であり、正式な王太子だ。政務の基礎として書類と向き合い、国の現状を数字で把握するのは、王たる者の務めとして何もおかしいことではあるまい?」
「おかしいか、おかしくないかを聞いているのではありませんわ」
エレノアの言葉と共に、部屋全体の空気が凍りついた。
その瞳からすっと温かな温度が消え去り、静かで圧倒的な圧力が室内に満ちていく。威厳に満ちていたはずの国王ヘンリーの身体が、わずかにピクリと強張った。
「あの子は自分自身の足でこの国の土を踏み、風を感じ、民の生の声を聞いたことがありまして? 机の上の書類と数字だけで国が治まった気になっているような甘い男に、我が国の未来を任せられるとお思いなのですか?」
「う、うむ……確かに、一国の王となるからには、現場の苦労を知り、相応の器と覚悟を示すことが不可欠ではあるが……」
「問いにお答えなさいな、あなた」
エレノアの瞳が、静かに夫を捕らえる。
「……あなたは、あの子と同じ年の頃、何をしておられましたの?」
冷ややかな視線を突きつけられたヘンリーは、かつての猛き日々を思い返すように、どこか誇らしげな遠い目をした。
「む……私か? 私はあの頃、国内を回り、お前の『静寂・一閃』を受け止めるために血反吐を吐きながら鍛錬を重ねていた。あの過酷な旅があったからこそ、今の私がある」
深く大きく頷き、己の過去の武勇を誇るヘンリー。
その直後。
パシッ――。
乾いた音が響いた。エレノアが扇を閉じた音だ。
直後、エレノアの右手が目にも留まらぬ軌道で滑り込んだ。ヘンリーの分厚い装甲の隙間を完璧に突き抜け、その鳩尾へ収束する。
衝撃波すら起きない、静かな一撃。
「ぶっ、ふぅっ……!!?」
ヘンリーの膝がガクガクと激しく折れかけた。だが、彼は歯を食いしばり、必死でその場に踏みとどまった。荒い息を吐きながら、妻を見上げる。
「ぐ……ぬ、ぬう……っ!」
「お分かりいただけましたかしら、あなた。自分が若い頃にやっていた泥臭さを叩き込まず、机仕事で満足させていてはいけませんわ」
エレノアは何事もなかったかのようにドレスを整えると、固まっていたエドワルドに向き直った。
「そういうことですわ、エドワルド。国内視察へ向かいなさい。自分の足で国を回り、民の声を聞いてきなさい」
固まっていたエドワルドは、手にしていたペンを静かに机の上へ置いた。そして、未だに鳩尾を押さえてプルプルと震えている父王へ視線を送り、深く、長く息を吐き出した。
「……了解いたしました、母上。父上を殴る必要があったのかは甚だ疑問ですが……民の言葉を直接聞いて回るという旅ならば、私に断る理由はありません」




