第4章 インターフェース
昼休みを終えてから、結局、午後もほとんどまともな仕事にならなかった環は、その日はあきらめて定時で退勤することにした。
いつもの最寄り駅への道を、独りとぼとぼと進んでいく。
朝に飲んだ薬の効き目はとっくに切れていて、時折冷たい風が膝を撫でる度に、ピリピリと痛むようになっていた。
歩きながら、駅前の交差点に続く人気のない歩道を、杖がカツカツと叩く様子を俯き気味に眺める。
歩く時、常に前方より足元の確認を優先するのは、環の癖だった。
だから、ふと顔を上げたその瞬間まで、気付くことができなかった。
――ほんの数歩先の歩道の脇に、見覚えのある黒髪と、きっちり整ったスーツ姿。
「お疲れさまです」
直立不動でポケットに両手を突っ込んだ千草は、環が顔を上げるタイミングを待っていたらしく、今気付いた様子でもなくそう声をかけてきた。
「千草くん?なんでここに?」
一方、完全に不意を突かれた環は、反射的にそう聞き返した。
「…月村さんが、支障なく歩いているか、無理をして残っていないか、確認に来ました」
千草はほんの一瞬、環の足に視線を落とした。
「…それから」と静かに続けて、目を伏せる。
「昼間は申し訳ありませんでした。理にかなっていない話で、無用に混乱させましたので」
その言葉に、環は、やっと意識から消えかかっていた昼間の千草との会話が、再び脳裏に蘇ってきた。
無意識に、杖をぎゅっと握り直す。
千草は、軽く息を吐いた。
「きちんと帰れているなら、よかったです」
そう言うなり、千草は何の躊躇も余韻もなく、さっと背中を向けた。
駅への道を、早足で進み始める。
――後ろ姿が、みるみる遠ざかっていく。
「―――待って!」
気付いたら、環はそう叫んでいた。
「はい、どうしました」
環の声が耳に届いたとほぼ同時に、千草は素早くその場に足を止め、くるりと振り向いた。
まるで、止まらなければならないことが最初から分かっていたような動きだった。
環は、振り向いた千草と目が合った瞬間に、はっと我に返った。
言葉が出てこない。なぜ呼び止めたのか、自分でも理由が分からなかった。
答えに詰まったまま立ちすくんでいると、足は再び痛みを主張し始め、環の身体の重心がふらりと揺れた。
「…立ったままでは負担ですね。少し座りますか」
その揺れを察した千草は、周囲をぐるりと見渡し、やがて、道路沿いの他より少し背の低いガードレールに視線を止める。
千草は「こちらへ」と言い、環をそのガードレールへ誘導した。
環は、躊躇いながらも、足の痛みに耐えかね、千草に言われるがままにそっと寄り掛かるように腰を掛けた。
「少し待っていてください」
千草は、環が座ったことを確認すると、近くにあった自動販売機に足を向けた。
ほとんど迷わずに温かい缶コーヒーを2本購入すると、すぐに環のもとに戻って来る。
「…手が冷えていますね」
缶を手渡した際に、僅かに触れた環の指のあまりの冷たさに、千草は思わずそう呟いた。
そして、環の横に並んでガードレールに腰をかけると、すぐさま缶を開け、口をつける。
「あの…」
ようやく、環がぽつりと口を開いた。
「…最近、色々とありがとう」
それは、いつか伝えようと思っていた言葉。
環は、落ち着かない様子で、受け取った缶を手の中でごろごろと転がした。
「甘いコーヒー、作るの上手なんだね」
そう言って、少し悪戯っぽく笑いかける。
「礼は不要です」
千草は、唇から缶を離し、抑揚もなく言う。
温まった吐息が、細く白く伸びていく。
「月村さんが無理をするからです。放っておくと、限界まで行く。それを止めるのは、私の役目です」
その言葉に、環は苦笑して、肯定とも否定とも言えない相槌を打つ。
「…それでも、礼を言われるとやめる理由が減ります」
千草は、僅かに声を落として言う。
そして、缶の残りを一気に飲み干し、自動販売機の横にあったゴミ箱に捨てた。
「月村さん、改めて言います」
環の真正面に立った千草は、いつもの無表情で環の目をまっすぐに見つめた。
「あなたは、断ってもいいんです。私の何かすることを、全て受け入れる必要はありません。嫌なら嫌だと、必ず言ってください」
――あの時と同じだと、環は思った。
言葉の内容と裏腹に、瞳の奥に宿る、冷たい熱。
やはり夢などでは無かったのだと、ぼんやりと思う。
暗がりの中、点いたばかりの街灯の光に、見上げる千草の顔がゆらゆらと揺らめいている。
「嫌、とかではないけど…」
まだ少し残った缶の縁を指でなぞりながら、環は曖昧に答える。
「…そうですか。では、今後も同じことをしますが、問題ありませんか」
念押しのように、問いかけられる。
環は、微かに逡巡した後、黙ってこくりと頷いた。
「…ありがとうございます」
――それは、礼ではなく、契約の合図のようだった。
「では、帰りましょうか」
暫しの沈黙の後、千草はあっさりとそう申し出た。
環はそれに再び頷きを返すと、傍に立てかけていた杖を握って、そっと足を下ろした。
つま先が地面を擦る感触を確認して、そのままガードレールから身体を離す。
――ところが。
足が身体を傾けた勢いのまま、地面を滑る。
全身のバランスを一気に失う。慌ててガードレールの端を手で掴もうとするも、空を掴むに終わる。
ガシャン、と杖がぶつかり、転がる音。
倒れる―――
環は、身体を強張らせ、目をぎゅっと瞑った。
しかし、次の瞬間、想定外の柔らかい衝撃が全身を包んだ。
地面ではないと、遅れて気づく。
千草が、倒れかかった環を咄嗟に正面から受け止めていた。
そして、これ以上崩れ落ちないよう、その肩と背を強く手で支える。
「大丈夫です、動かないでください」
環の体重を完全に預かる形になるまで、数秒、そのまま動かない。
環は、頭が真っ白になり、千草の腕の中で完全に固まっていた。
「焦らなくていいです。このまま持ちますか、離しますか」
微動だにしない環の頭上から、千草の静かな問いかけが降ってくる。
耳元にかかる千草の吐息に、コーヒーの香りが混じっている。
環は、身体のバランスを取り直すように、僅かに身じろぎをした。
「そろそろ離してください…」
かろうじて聞こえる程の、ほとんど消え入りそうな声でそう呟く。
千草は「分かりました」と答えると、環が再び足を滑らせないことを確認しながら徐々に力を抜き、ゆっくりと環から手を離した。
「…顔が赤いですが、どこか痛みますか」
完全に千草の支えを無くし、ようやく自力で立つことのできた環は、頬が真っ赤になっていた。
千草は訝しむように環の顔を覗き込んだが、その瞬間、環はパッと顔を背ける。
「大丈夫、なんでもない…」
顔を背けたまま、またしてもほとんど聞こえない程の小声でそう呟いた。
そんな環の様子を、千草はしばらく黙って観察していたが、やがてそっと一歩後ろに下がる。
「…今日はもう、よく休んでください。暗いですので、足元にご注意を」
そして、「それでは」と短い挨拶とともに軽い会釈をして、今度こそ千草は駅に向かい立ち去っていった。
環は、激しい動悸を打つ胸を手で押さえながら、徐々に小さくなっていくその背中が完全に見えなくなるまで、目を離すことができなかった。
次回更新は4/10(金) 20時の予定です。




